3月20日 ヨハネによる福音書 1章29節~34節
先週から引き続き、私たちが聴いております洗礼者ヨハネという人の言葉、新しい今日の個所でも、「おやっ」と思わされる印象的な言葉があります。
色々ありますが、特に今回、私の目が止まりましたのは、31節と33節で繰り返される「わたしはこの方を知らなかった」という言葉です。
これは、先週の礼拝で私たちが聴きましたことと重なって来ることだと思います。しかし、改めて、今日の個所を読んだだけでも、とても、謙遜な、あるいはとても正直なヨハネの人格が滲み出る告白であると思います。
神様より遣わされた洗礼者ヨハネです。神様の使命を身に帯びたヨハネです。
そのことにヨハネは何の揺らぎもありません。ヨハネに質問するために、エルサレムのユダヤ人指導者たちから遣わされて来た人たちとのやりとりが、直前に書かれていました。ある人は、具体的に、このエルサレムから来た人たちのことを当時の警察と表現しています。
人心をたぶらかす詐欺師であるかどうかの容疑者ヨハネの取り調べ、ひいては、治安維持という名目でヨハネに詰問する人たちです。
その人たちに、小さな小さなたった一言だとしても、自分は神より遣わされた荒野で叫ぶ声だと、堂々と応えたヨハネです。
神よりの声になり切って、神に与えられた自分の語るべき言葉、成すべきこと、神の使命に専念しました。
「あなたがたユダヤ人も、もう一度、やり直さなければならない。異邦人が受けるべき回心の洗礼をあなた方も受けなければならない。なぜならば、世に来られた神の言は、あなた方にとって、全く見知らぬ方になってしまっているから。」
言は世に来られた。光は暗闇の中に輝いている。言は肉となって私たちの間に宿られた。しかし、ご自分の民は、自分達の主を受け入れることはなかったのです。
先週読みました26節後半の「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」というヨハネの言葉は、神の民であるユダヤ人を筆頭とした、神の被造物である人間全体への厳しい裁きの言葉であります。
今、まさに来られる救い主のために道を整える洗礼者の声は、良き知らせであると同時に、厳しい裁きの言葉として、響かざるをえないものです。
ところが、このような厳しい裁きの言葉を神より託された、神よりの正真正銘の使者が、この方こそ、救い主であると主イエスをとうとう具体的に指し示しながら、二度も語ります。
「わたしはこの方を知らなかった。」「わたしはこの方を知らなかった。」
不思議なことです。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊を。この方こそ、わたしが預言したお方、わたしが待ち望んできた救い主、わたしよりも先におられた方、永遠なる神、天地の造り主ご自身。見よ!!わたしが指し示して来た方は、この方なのだ!!」
そう、はっきり、くっきり、神よりの使者として、主イエスを指差しながら、同時に、「わたしはこの方を知らなかった。」と二度。
主イエスより、人間の中で最も偉大な人物と喜ばれた洗礼者ヨハネは、少しも偉ぶらないのです。
厳しい厳しい裁きの言葉とも響かざるをえない神より託された言葉を世の人々に向かって語りながら、ヨハネは、自分をその裁きから、除いてしまって語っているのではないのです。
「わたしはこの方を知らなかった。」
洗礼者ヨハネは、自分もまた、このお方との繋がりが断ち切られてしまった、当の人間だと告白しているのです。
心打たれる告白です。このような告白をする人の罪の指摘は、決して、聴く人々の反感だけを引き起こすものではないと思います。
「わたしもあなたがたと同じだ。わたしも知らなかった。わたしもこのお方から、切り離されていた。身内ではなくなっていた。」
私たちは、歴史的には、ヨハネは、旧約と新約の間の人間、どちらかと言えば、旧約よりの人と考えることがありますが、私たちキリスト教会による人間の罪を突く言葉が、このヨハネの言葉の響きを持っているだろうかと、反省してみる必要があると思います。
私たちの言葉もまた、「わたしも同じだ。わたしもこの方を知らなかった。本当に知らなかった。」という言葉になっているかどうか。私たちが人間の罪を突く言葉が、そういう共感から語り出される言葉であるかどうか。
ファリサイ根性から出て来る罪の指摘の言葉が、人の心に届くことはないでしょう。
しかし、洗礼者のように、「わたしもこの方を知らなかった。」と、人間仲間として、自分達共有の罪としてそれを語れるならば、反感を買うだけの言葉ではなくなるでしょう。
どの人間の罪も、自分とは関係のないものとは言わず、「我らの罪を赦したまえ」と、主が教えて下さったように、重荷を共有する血の通った罪の指摘とは、こういうものでしょう。
けれども、もちろん、洗礼者ヨハネが、こんな風に語る時、ヨハネにとって、イエス・キリストは、見知らぬ方ではもはやありません。
人間仲間から自分を切り離すことはなく、同じ土俵で、同じ目線で、同じ罪を負っている者として語りかけながら、ほんの一瞬、先んじているに過ぎないとしても、今は、そのお方を知っている。その方を見ているそういう仲間として語ります。
それだから、言います。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」
「見よ、あなた方に見てほしい方がいる。私が見ている方を共に見よう。」
罪ある世とは誰でしょうか?まずヨハネ自身です。自分を外して、世に語りかけているのではありません。
光を理解しなかった世、ご自分の主を忘れてしまい受け入れることのできなかった世、それは、ヨハネでもあります。しかし、今、その世の一人である自分が、この自分の罪を取り除いてくださったお方を見ているのです。
なぜそんなことが起きたのでしょうか?そんなことは、ヨハネ以外にも起きうるのでしょうか?起き得るとしたら、どんな条件が必要なのでしょうか?何をすれば良いのでしょうか?
ただ神の子羊によってです。
洗礼者ヨハネの努力によってではなく、洗礼者ヨハネの信仰によってではなく、ヨハネに与えられた神の召しによってではなく、ただ、世の罪を取り除く神の子羊によって、起こるのです。
この時、この取り除かれる罪とは、何か、人間に巣食っている悪い性質のようなものとは理解しない方が良いかもしれません。
人を憎む考えや、赦さない心、争ってしまう思い、悪口を言ってしまう災の口、そういう悪い性格、性質を人間の罪だと考えない方が良いと思います。
罪とは、聖書では、何よりも、神の元に駆け寄れないとことです。私たちの造り主である神様を全くの他人と思えてしまう心のことです。肉となって世に来られた造り主を、私の全然知らない方だと、拒否する私たちの不信仰のことです。
けれども、この不信仰、神よりの離反が、神の子羊によって、取り除かれるのです。
つまり、神と人とを赤の他人としてしまう、人間による隔たり、神からの逃亡という罪の本質が取り除かれるのです。
どのようにして?神の子羊の到来によってです。
人間がこの方に近づくことによってではありません。29節、神の子羊であるこのお方、主イエスがヨハネの方へ、近づいて来られることによってです。そのように、神と人との隔たりは埋められるのです。
悔い改めの洗礼を施したヨハネです。けれども、人間が悔い改めによって神に近づくことができるのではありません。主イエスが、私たち人間の元に一歩、また、一歩と近づいて来られることによってのみ、隔たりは埋められ、罪は取り除かれるのです。
それならば、ヨハネが実践した悔い改めの洗礼とは、なんでしょうか?神の民と呼ばれる者も含めて、例外なく、私は神に近づくことのできない、主を主と認めることができない、神に対する赤の他人となってしまった存在であることを認めることです。自力を放棄することです。
人間にはできないことを、主イエスはなさるために、世に来られました。主は、空っぽのヨハネの元に近寄って来られたのです。
ここでルカによる福音書が語る放蕩息子のたとえを思い出しても間違いではありません。まだ、遠く離れていて、悔い改めの言葉を聴かない内に息子を見つけ、駆け寄り抱きしめた父が、主イエス・キリストに現された神なのです。
また、マタイによる福音書の最後を思い出しても良いのです。ご復活の主イエスが、弟子たちを山に集められた時、なお、疑う者たちがいました。しかし、主は、もう一歩彼らに近寄られたのです。
キリストは、私たちを赤の他人のままにはしておかれません。私たちを、諦めることはありませんでした。
なお、私たちに近寄って来られ、神と人との隔たりを埋めてしまわれるために、全力を尽くされるのです。
主の全力です。この主イエスの近付き、歩み寄り、私たちの間への宿りが、単に神と私たちの物理的変化ではなく、神と私たちの完全な現実となるためには、本当に全力を必要とされました。イエス・キリストの、とてつもない犠牲を必要としました。深刻な罪、深刻な隔たりなのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」
この方は、神の子羊。
このキリスト称号から、様々な旧約の聖書箇所が思い起こされますが、何よりも、神の民にとっての救いの大事件、エジプト脱出の当日の出来事を思い起こす必要があります。
エジプト脱出のその夜、イスラエルの民の家の門には、子羊の血が塗られました。
主の天使がエジプト中を巡り歩き、各家庭の長男を打ち、その命を取り去る時、ここはイスラエルの民の家だとわかるように、出入り口の鴨居に、子羊の血を塗って、しるしとするように神がお命じになったのです。
エジプトに対するこのような厳しい裁きは、イスラエルに生まれた男の子は、生まれ次第その場で殺せと命じたファラオの罪への報いでした。
この物語を読む時、深い思いに誘われるものがあります。
それは、主の天使によるこの死の裁きを避けるためには、神の民と言えども、子羊の血を必要としたということです。
子羊の血によって、しるしを付けなければ、主の天使は異邦人と神の民を見分けることはできなかったのです。
なぜでしょうか?天使が有能ではないからでしょうか?そんなことは考えられません。
ここからは黙想の領分ですが、二つの民自身の内には、根本的な違いはないからだったと私は想像します。その体も、その魂も、違いはない。だから、彼らのことをいくら眺めても、見分けることはできないのです。そうではないでしょうか?
しかし、子羊の血が門に塗られた家は災いが通り過ぎました。それゆえ、この出来事をイスラエルの民は災いが過ぎ越した日、過越の祭りとして代々祝いました。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」、と主イエスを指し示すヨハネの念頭にあったのは、この過越の子羊のことであったと思います。
さて、今皆さんの目の前には聖餐卓があります。この聖餐卓、教会の中心であるとしばしば言われます。
ここに置かれ、ここで祝される小さな食事は、主イエスが十字架におかかりになる前に、弟子たちと共に祝われた過越の食卓を源とするものです。十字架にお架りなる直前の最後の食卓が、過越の祭りの特別な食事であり、また、さらにイエスが特別に祝福してくださり、いよいよ特別な食事となったものです。
主はその夜、過越の食事のパンを取り、また続いて盃をお取りになり、これは、十字架で裂かれる私の体であり、またこれは十字架で流される私の血であると宣言され、私たち教会が、これを代々新しく祝うようにと聖別されたものです。
この主の制定によって、初代教会から現代に至るまで、主と弟子たちの十字架直前の過越の食卓において、新しく意味の込められた十字架を指し示す聖餐の食卓として整え直され、2000年館、記念され続けてきたのです。
だから、教会には、必ず、聖餐卓があります。特にプロテスタント教会では牧師と教会員は聖餐卓を間に挟んで向き合うことにより、この食卓が教会の中心であることを表現してきました。
私の前任地である鎌倉雪ノ下教会の牧師でもあった、実践神学者の加藤常昭先生がこの教会の中心とも言える聖餐卓について、こんなことを書いておられます。
この教会の中心とも言える聖餐卓、古代教会では、棺の形に作られることがしばしばあったと。
それは、迫害時代にカタコンベと呼ばれる地下墓所で、教会が礼拝を隠れてささげなければならなかった時、先に亡くなった仲間の棺をしばしば、聖餐卓として使ったことに由来していると言います。
確かに私たちの教会の聖餐卓もちょっと棺に似ているとも言えなくない。少なくとも、鎌倉雪ノ下教会の聖餐卓よりも、私たちの聖餐卓は、棺に似ていると私は思います。
その私たちの棺を模した聖餐卓の上に、キリストの命を私たちに吹き込む食事が置かれます。
そして、その食事は、私たちの教会でもそうであるように、いつでも白い布で覆われてきたと言います。
私は不勉強なことに、あまりその意味を考えたことはありませんでしたが、聖餐卓を必ず覆っているこの白い布には、主の命を持って、死に定められていた私たちを覆うという意味があるようです。素敵なことです。私たちの死は、主の命に取り囲まれ、主の命の中へ飲み込まれているのです。
主イエスの近付き、主イエスの歩み寄り、主の私たちの間への宿りは、私たちの死に至るまで追いかけて来られるもの、私たちの死を、ご自分の命で覆ってしまうものなのです。
最後にもう一度、申します。
私たちは自分の力で、主との関係を回復できるのではありません。
私たちの努力やアクションが、私たちをキリストのものとして、回復するのではありません。
知らない方が、知っている方になるためには、いつでも、主が近づいて来られることによって、成し遂げられるのです。主の方から、徹底的に私どもに、近づいてくださるのです。
どんな離れた所にいる私たちにも、どんなに低い所にいる私たちであっても、主が、主の方から、わかるまで、私たちがもう降参と言うまで、近づいてくださるのです。
それが私たちの間に宿ってくださった、クリスマスの奇跡であり、主の十字架です。
このお方は、私たちが倒れているところ、私たちが失われ切ってしまっているところに、来てくださるのです。
この主の近さを、洗礼を受けた者も、そうでない者も、信じ、受け入れることが許されています。
下まで迎えに来られる神の子羊イエス・キリストこのお方に、まさに文字通り、下から掬い上げられ、その命で覆って頂くのです。そういう私たちです。
私たちは恐ることなく、大胆に神のお側に近づく者とされているのです。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの元に歩み寄ることのできない、わたしたちではありますが、御子のゆえに、今は、あなたと再び結ばれた者として、あることを感謝します。私たちに日々、聖霊を送り、洗礼を受けていない者には、「あなたは、わたしのものだ」と語られるあなたの声を心の底に聴かせ、既に洗礼を受けた者には、「わたしがあなたを捨てることはない」との御声を心の底に聴かせてください。御子の諦めることのあり得ない十字架と陰府にまで至るその近付きのゆえに、必ず聴かせて頂けると信じます。
この祈りを、ご聖霊に満たされた、父の独り子、その心に適う方、イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げいたします。
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