9月12日 コリントの信徒への手紙Ⅱ13章1節から4節
昨年の8月末から聴き続けてきたコリントの信徒への第2の手紙ですが、今日から最終章に入ります。予定では、10月3日に読み終わります。今日を入れてあと4回、一年一か月で、読み終えることになります。
ある人は、今日から4回かけて聴いていくこの第13章は、第Ⅱコリント書の要約とも言って良いと言います。いくつかの手紙の寄せ集めだと言われているこの複数の手紙において、パウロが何とかして伝えたかったことは、この第13章に凝縮していると言うのです。
あと4回気持ちを新たに、聴いていきたいと思います。
さて、その第Ⅱコリント書の凝縮であると言われる第13章は、「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。」という言葉から始まります。
パウロは、コリント教会への三度目の訪問を計画しています。
最初に訪れ、その地に教会を建てた時、その建った教会が独自のおかしな方向に進んで行こうとしているので、それを正しに行った二回目の訪問、しかし、少しも改善しないので、もう一度、訪れようとする三回目の訪問の計画です。
コリント教会が独自のガラパゴス的進化を遂げようとしている。けれどもそれは良い進化ではなくて、それによってイエス・キリストの福音から逸れて行ってしまっている。
そこで、三度目の訪問をして、2節後半ですが、今度は、容赦せずに、間違いを間違いと指摘し、きっちり指導すると言うのです。
「二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。」という言葉は、旧約からの引用です。これは人が神とその戒めに背く罪を犯している時、一人の人の証言ではなく、二人、三人の複数人からの証言によって、裏が取れなければ裁いてはならない、疑わしきは罰せずということです。しかし、パウロは、ここでは複数人の証人によってということではなく、二度、三度の訪問によって、君たちの状況を見極めたいという意味で語っています。
「今度計画している訪問は、あなたがたの信仰生活の過ち、神様の御前での罪を明らかにするために決定的な訪問になる」、そしてその時には、「容赦しません」と言っているのです。
かなり厳しい、怖い言葉だと思います。
けれども、こんなに厳しい言葉を語っているパウロではありますが、これを聴いたコリント教会の人々が正しく怖がることができたかどうかは、疑問です。
なぜならば、3節、「あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。」とあります。
コリント教会の人々はパウロの言葉を疑っています。パウロは神の協力者としてキリストの福音、神の言葉を伝えると言っているけれども、自分の言いたいことを言っているに過ぎないのではないか?もしも、そうでないならば、あなたが語る言葉がキリストじるしの言葉である証拠を見せてほしい。
こういう人たちにとってはパウロの厳しい言葉は本当の意味では怖くなんてなかったと思います。ただ単に、嫌な感じの言葉、怖かったとしても、パウロ個人のことが厳しくて怖い人だなって思ったに過ぎなかったと思います。
けれども、それでは、少しも、このパウロの言葉の怖さ、厳しさを正しく味わったことにはなりません。
自分たちの疑いにも関わらず、パウロの言葉がキリストによって語られている言葉であるならば、それを神の言葉として聴くことができないということは、本当に恐ろしいことです。
パウロの言葉から響く厳しさ、怖さを、パウロの個性としてしまい、こういう人柄の人とは自分は合わない、こういう人からは指導を受けたくないと言ってしまうことは本当に恐ろしいことです。
なぜって、それによって、自分では気づかない内に、キリストと神に敵対する者となってしまっているからです。
パウロに対して批判的なある学者は、こういうパウロの言葉を読んで、パウロは何と傲慢かと言います。教会の仲間に向かって、「あなたたちは福音のことを思い違いしている。だから、キリストによって語られる私の言葉を聴きなさい。」と詰め寄ってくるのは、パウロの思い上がりだとまで言います。
けれども、それは意地悪なパウロ理解です。伝道者が神から託された言葉をはっきり語らないで、熱すぎるか、冷た過ぎるか、人の顔色を窺ったような言葉を語ろうとすることはできません。それは、召してくださった神様を裏切ることです。
伝道者は大きな恐れと、その恐れ以上に神と教会に対する大きな信頼をもって、語るべきことをはっきり語らなければなりません。
神さまへの恐れと信頼です。また、教会に対する信頼です。
パウロの語る言葉をちっとも理解していない、福音を聴き取り損なっているコリント教会です。しかし、パウロは、語り続けます。自分の責任だけは果たし、「後は、お前たちの勝手だ」と言うのではありません。
必ず聴いてくれる。必ず、悔い改めて、福音に目覚めてくれると信じているのです。
だから、ある人は、2節後半の「今度そちらに行ったら、容赦しません。」という「容赦しません」という言葉は、強すぎる翻訳で本当は「遠慮しません」という意味だと言います。そう訳すことも実際にできます。
これまでのところ、強く厳しい調子で語ってきたパウロではありますが、それでもまだ、遠慮していたのです。こんな風に言ったら傷つけちゃうかもしれない。こんな風に言ったら躓かせちゃうかもしれない。コリント教会の人々は、どうも、福音の本当の味というものをわかっていないから、あんまり真っ直ぐに語るとショックを受けて、もっと強く反発してしまうかもしれない。
だから、小出しにしていこう。オブラートに包んで行こう。暗に示して、自分で徐々に悟ってもらおう。
そんなことはもう止める。もうはっきり語る。自分も疑っていたんだ。この人たちにはまだ、福音を真っ直ぐに聴ける力が育っていないと疑っていたんだ。でも、もう遠慮しない。真っ直ぐ語るんだ。
コリント教会を信じるからです。このあるがままの欠けだらけの教会を信じるのです。ある人は、第Ⅱコリント書の内に語られるパウロの率直な言葉に圧倒されて言います。
「自分がこれほど率直に自分の思いを語ることをするだろうか。あのことを考え、このことを考え、こんなことを言ったらひとをつまずかせる、こういうことを言ったらかえって腹立たしい思いを呼び起こすのであって、ますます理解されなくなる。そういうことを思ってしまう」と言います。
その人は、自分は、伝道者として、こういう配慮を持つことは必要だとも思っているけど、なお、このパウロの率直さに、心がとらえられると言います。
確かに、こういうパウロの率直さに、わたしたちの心は捉えられないでしょうか?
なぜでしょうか?何でパウロはそんな馬鹿みたいにコリント教会を信じることをするんでしょうか?
それは、4節「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられる」からです。
ここに、人心掌握術、人たらしの技術とは全く異なる福音伝道者の言葉が拠って立つ基盤があります。愚かな愚かな率直さに生きる伝道者パウロの言葉を形作っている秘密の源泉があります。
いいえ、秘密でも何でもありません。彼自身が山の上に置かれた灯火のようにして、公然と語って回っている福音の中身そのものです。
十字架につけられた殺された弱さの極みの中にあるような方が、キリスト、私たちの救い主であられる。私たちだけでなく、この全世界の救い主であられる。
この弱さを身にまとったお方が、私たちの主であられる。教会はユダヤ人には躓きであり、ギリシア人には愚かなことだと言われるこの福音の知らせを、神の力として受け入れ、告げるために存在する集まりです。
コリント教会の過ち、罪は、このキリストの弱さの力を忘れてしまったこと、あるいは誤解してしまったことです。このキリストの弱さを一時的な仮初めのもの、まるで葵の御紋の印籠を隠して越後のちりめん問屋を名乗る水戸黄門のように理解してしまったことです。
キリストは本当には弱いお方ではなく、それは強さを隠した姿にすぎなかったと。
けれども、パウロは言います。キリストは本当に弱くなられた。その弱さのゆえに、十字架につけられ、死んでしまったのだ。そして、このキリストの弱さこそ、神の力であった。本当に不思議な言葉です。
しかし、よく考えてみれば、その通りだなと思います。神の御子が、あえて、弱い人間、十字架で死んでしまうほどの弱い人間になることを選ばれたということは、よく考えてみれば、全然、弱々しいことではないのです。
不滅の神の御子が、全てを擲って、死すべき人間になられたという事件は、荒々しいほどの神さまの行動、まさに事件と呼ぶべき神の力強い行動だと言う他ないことだと思います。
たとえば、シュバイツァー博士が、一流の神学者、音楽家としての輝かしい立場を擲って、アフリカの医療宣教者となり、貧しさと不自由の中へと自分の身を投じ、命を使い尽くしたということを、弱々しいことだと思う人は誰もいないと思います。むしろ、エネルギーに満ち溢れたことだと言うでしょう。神の御子が人となられたということは、それをはるかに超えるエネルギッシュな大冒険を成し遂げられたということなのです。
子なる神は、その偉大な力により、私たちと少しも変わらない、私たちと同じ、私たちと一つである弱い人間、私たちの兄弟となってくださったのです。
私たちの抱える弱さというのは、キリストの選ばれたこのような弱さとは全然別ものです。パウロがこの手紙を通して、自分は弱く、みじめで、貧しい者、取るに足りない者だと言ってきたことは、謙遜でも何でもありません。本当は豊かなんだけど、キリストのように、あえて、それを捨てて、貧しさを選んでいるわけではありません。イエス様とは違い、私たちは本当に弱いのです。
けれども、本当に弱い私たちですが、私たちを生かすために、弱い私たちと一つとなる大冒険を選ばれる、本当に力強いキリストのゆえに、私たちは、生きられるのです。このキリストが、私たちの盾となり、鎧となって、弱い私たちを守るからです。
もしも、自分のことを強いと思い込んでいる人がいれば、それは幻想に過ぎません。本来、キリスト者とは、自分が強いと思い込んでいる幻想から目覚めた人たちであるはずです。
それなのに、コリント教会が、その自分の弱さを認めず、受け止めることもできないというのは、しかし、まさに、彼らが神さまの見立て通り、弱い者であることの証拠でありましょう。コリント教会の罪、弱さというのは、まさにそこにこそ完全に露わになっているのです。
けれども、3節後半です。「キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。」
その本当に弱く情けない者に対しても、キリストが強さを発揮してくださるのです。
それは、キリストがコリント教会を、その神の力で叩き直してくださるということではありません。キリストがコリント教会を捨てないということです。弱さを選び取る神の強さに生きてくださるキリストが、コリント教会をもご自分の兄弟として歩みを一つにし続けてくださるということです。
キリストが、コリント教会とご自分を同一視してくださる。ぴったりとその教会と寄り添ってくださる。いいえ、ある人は、キリストがコリント教会を抱いていてくださると言いました。
だから、パウロは遠慮しないのです。真っ直ぐ、率直に語っても、彼らが必ず悔い改めてくれると信じるのです。コリント教会を信じ切るのです。いいえ、キリストを信じ切っているのです。
だから、大丈夫なんです。本当に大丈夫なんです。真っ直ぐにイエス・キリストの福音を語ればいいのです。十字架と復活に余すところなく現わされた神の力なるキリストが、私たち自分のこともちっともわからない罪人を抱いておられるからです。
キリストの弱さは、真に弱い私たちを生かす神の強さ、神の力です。
このキリストの弱さは、正しく信じる者にとっての力であるだけではありません。間違って信じてしまっている者にとっても、神を少しも信じていない者にとっても同様に、人を生かす神の力であります。
キリストは、今日ここに神を礼拝している信じる者にとっても、教会の外にいる者にとっても、変わりなく、強い方、生きているお方であられます。
私たちもまた、遠慮せずに、宣言したいと思います。
キリストはすべての人間の貧しさを知っておられる。隠している罪をも知っておられる。自分で未だ認めることができない具体的な、忌むべき罪をも知っておられる。
それらを知っておられるキリストは、なお、あなたの友であられる。あなたのことをわたしの兄弟と呼んでおられる。
いいえ、そう呼ぶだけではありません。キリストは事実、あなたの友として、兄弟として、今、現にあなたを抱きしめておられる。
自分を大きく見せようとうする罪、自分を大きく見たい罪を悔い改めさせて頂き、キリストのゆえに、神に抱き留められているありのままの自分として、共に生きてまいりましょう。
そこにこそ、弱く情けなく見えても、神の力に生かされているゆえに、本当の意味で、強い強い人間がいるのです。
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