マルコによる福音書15:34
イースター前の最後の日曜日、主イエスが十字架につけられた際、発せられたお言葉を聞きました。これはマルコによる福音書においては、主イエスが十字架の上で発せられた、意味のある唯一のお言葉です。ですから、たいへん重い位置を持つお言葉であると思います。私たち教会が、その救いの象徴として掲げる十字架、それがいったい何であるのかを知るためには、何よりも、このお言葉に耳を傾けることができます。
これは実に重い言葉です。その重みは、十字架の理解において重要な位置を占めているということに留まりません。そのお言葉は、重苦しく、聖書を閉じてしまいたくなるほどに暗い言葉だという意味でも重い言葉です。私たち教会が主イエスの救いの業がまさにそこで貫徹されていると信じる十字架、その上で、キリストは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。かつて、主イエスは弟子たちに語られました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と。そして、この十字架の道のりを否定することは、サタン、悪魔の考えだと厳しく弟子を戒められたと伝えられています。十字架へと至る道が、主イエスの御意志に反したものではなくて、神の子らしく、自由に選び取られた道であるならば、この十字架上の叫びは、果たしてその救い主にふさわしい言葉であるだろうかと私たちは訝ります。まるで主イエスは、ここで私たちの事なんか、忘れてしまっているように見えるのです。主イエスを真の救い主と信じる者たちは期待することでしょう。主イエスは、私たちを救うという固い決意をもって、十字架への道を選び取られた。そうであるならば、その苦しみに雄々しく耐える方であって欲しい。それでこそ、私たち人間を救おうとされる固い決意が伝わってくるというものだと期待するのです。 しかし、マルコの伝える十字架の主イエスの叫びは、自分で自分をどうすることもできない者、意図せずに、絶望へと追いやられてしまった者、運命に翻弄される私たち無力で弱い人間の言葉と、ちっとも変わらないように聞こえます。だから、わかりにくい聖書の言葉の一つだと言われています。この十字架上の主イエスの叫びは、マタイとマルコだけが留めていますから、その言葉を記録しないルカとヨハネは、この主のお言葉が理解できずに、削除してしまったのだと推測する者がいるほどなのです。
けれども、ここまで考えて、私は思います。これは本当にわかりにくい言葉なのだろうか?受け付けることのできない言葉なのだろうか?と。 私たちの人生にも「なぜ?」と問いたいことがあります。「なぜ?」と問わざるを得ない苦しみの経験があります。だから、本当のところ、私たちには、十字架の主イエスの心がよくわかると思います。それがどのような叫びであるか、直ぐにわかると思います。もしも私たちが、絶望を知っているならば、この主イエスの叫びの中に、自分の声を発見できるに違いないのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」との主イエスの叫びは、かつて「なぜ?」と問わざるを得なかった者、また、今、「なぜ?」と問わざるを得ない者にとって、「それは私たち自身の叫びと同じ叫びである、それは私の叫びである」と、自分の思いと一つとなってしまうような言葉であると思うのです。この十字架の主イエスのお言葉が、自分で自分をどうすることもできない者、意図せずに、絶望へと追いやられてしまった者、運命に翻弄される私たち無力で弱い人間の言葉そのものであるように見えるからこそ、私たちは、自分自身の思いをこの主イエスのお言葉の中に発見することができると思うのです。そしてそれは、単純に、今日この御言葉を通して、私たちが、主イエスから頂く力強い慰めとなりうると私は信じます。絶望している者は、慰めを得ます。いや、慰め主を得ます。今、「なぜ」と問うている者は、この主イエスの叫びを聞き、主イエスに出会い、主イエスを、自分の友として、兄弟として得ることになるのです。
私たちは、改めて十字架のキリストの叫びに耳を傾け、その十字架の主イエスを見つめ、気づき直したいと願います。私たちが、キリストを友と呼び、兄弟と呼ばせて頂くとき、それは一体本当には何を意味しているのか?そのことをこの主イエスの十字架のお言葉から、もう一度、教わるのです。私たちの救い主はこうあってほしいという願望を越えて、聖書自身が語る救い主イエス・キリストの姿を尋ね求めていくならば、たとえば私たちは、ヘブライ人への手紙第4章15節以下に突き当たります。 その手紙は、主イエスをこのように紹介いたします。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されれなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」 教会の大切な信仰の一つに、神の独り子が、肉を取り、真の人となってくださったと告白する、受肉の信仰があります。その告白は何を意味するのか?今読んだところに従えば、受肉は、まさに、私たち人間の弱さを知ってくださるためだと、語られています。私たちが受ける試練を同様に受けるためであったと語ります。そこに主イエスの憐みと恵みが、あふれ出ていると語ります。 20世紀最大の神学者カール・バルトは聖書が語るこのことを、このように新しく言い換えました。「神がみ子においてなさった自己謙卑(へりくだり)は、…本物であり、現実のことであった。」と。だから、「み子がわれわれと連帯されたという事柄において、いかなる留保もなかった。」と。「み子は、人間の兄弟となられた。」それはつまり、この方は、私たち人間と「共に脅かされ、共に憂い、共に試練を受け、墜落に向かう流れの中に共におられ、人間と共に、死に」、そして、滅びに向かう道を共にされたと言うのです。神の子と呼ばれるイエス・キリストは、聖人として達観し、常人を超越し、英雄的に十字架の苦しみを耐えられているのではありません。私たち凡人と同じように、脅かされ、憂い、試練を受け、滅びへと向かわれました。それこそが、イエス・キリストが真の人となったという信仰が言い表そうとしていることです。その証言は、天におられた御子が、本当に、現実に、私たちの友となり、兄弟となってくださったと告白するのです。私は本当にありがたいことだと思います。己を振り返ってみれば、私自身、はっきりとその恵みによって、生かされている者だと気付かされます。
「いつしみ深き」というよく知られた讃美歌があります。日本中の人が唯一知っている讃美歌であると言っても良いと思います。「いつくしみ深き友なるイエス」、私たちの友となってくださった主イエスの恵みを歌う歌です。二回続けて、家族の話をして恐縮ですが、私がこの賛美歌に出会ったのは、小学生のころです。それまで、教会とは縁もゆかりもなかった我が家でした。しかし、家族関係で、心塞がれていた私の母が、知人に誘われて、教会に通うようになり、やがて洗礼を受け、明るくなり、以来、ずっと口ずさむようになった愛唱歌です。我が家では、まず母が洗礼を受け、姉が受け、私が受け、とうとう、3年前には、先日亡くなった父が洗礼の恵みにあずかりました。特に父の洗礼は、家族にとって、思いがけないものでした。彼が、なぜ、洗礼を受けるつもりになったのか。洗礼諮問会の席上で話したことを私も後で教えられました。「自分の作った家庭は、たいへんな家庭であった。商売もしていたし、同居の両親の世話もしなければならなかった。当初は、小姑もいた。今思えば、自分が、家庭でただ一人の味方にならなければならなかったのに、それができなかった。そんな彼女の支えになったのは、イエス様だった。わたしに代わって、唯一の友となってくださった。イエス様に、そのお礼をしなければならないと思っている。」そう語ったそうです。 私達の家族は、主イエスが重い心を抱えていた私の母の友となり、兄弟となってくださったことによって、守られた家族だとはっきりとそう言えます。54年版の讃美歌312番の第2節は、こういう風に歌います。「いつくしみ深き/友なるイエスは/われらの弱きを/知りて憐れむ」。
なぜ、主イエスが、私たちの弱さを御存知であると言えるのか?私たちとは違う神の独り子が、本当に私たちの苦しみを御存知であるのか? 十字架の主イエスのお言葉を聞けばわかるのです。この方は、本当に私たちと共に脅かされ、共に憂い、共に試練を受け、滅びに向かう流れの中に共におられ、共に叫んでくださるのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と。主イエスは、そのようにして人間の友となってくださったのです。
とても大切なことであると思いますが、聖書が、この十字架につかれたお方が、「罪を犯されなかった」と言う時、このお方において十字架への道は、逃れられないものであったのではないということを示していると思います。どんなにこの道が、主イエスにとって「この杯をわたしから取りのけてください」と父に祈らなければならないものであり、父に強いられるように歩んだ道であったとしても、これは主イエスが報いとして必然的に受けなければならなかった運命ではありませんでした。主イエスにとって、十字架に至る必然とは、ただただ、「罪人である人間の兄弟となる」という決断によります。それゆえ、主イエスの苦しみは、われわれ一人一人が、引き受けなければならない己の苦しみを苦しむということではなしに、我々人間との連帯の苦しみでありました。だから、主イエスが担っておられる苦しみは、主イエスのものではなく、まさに、我々の苦しみだと言えます。この方は、「罪を犯されなかった」からこそ、この方が、担われたのは、他人の十字架であり、私たちの担うべき十字架であることが明らかです。どんなに親しい友も、家族も、一緒に担うことができない苦しみ、一人一人が自分のものとして担う他ない苦しみを、主イエスだけは共に担ってくださっていると言うことができるのです。
このキリストによる人間との連帯がどれほどのものであるかを、改革者ルターはとても鋭い言葉で表現いたしました。「われわれの罪が、キリストご自身の罪となるのでなくてはならない。そうでなければ、われわれは、永遠に滅びるであろう。」そして、続けてこうも言いました。「キリストは最大の罪人である」と。それはもちろん、キリストが罪を犯す者となったということではありません。しかし、十字架のキリストの叫びは、まさに私たち人間と一つのものとなり切ってしまった神の子の叫びなのです。しかも、さらにこう言わなければなりません。その方が担った私たちの苦しみは、私たちが知っているものをはるかに超えているのです。
十字架の主イエスは私たちに代わって、私たちよりも、深く私たちのための絶望の叫びを挙げておられます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びは、絶望する人間の誰もが共感する叫びであると見えます。けれども、この叫びに耳を傾ければ傾けるほど、それは、実は、私たちの経験し得ない底なしの叫びであることに気付かされます。人に捨てられたという経験に留まる絶望ではありません。自分に失望しただけの絶望でもありません。さらに深い絶望、神に捨てられた絶望の叫びです。時として我々も思うかもしれません。「わたしは神に見捨てられた」と。愛する者に裏切られる時、自分自身を諦めなければならない時、例えば、そういう時です。さらに、その極まった形が、愛する者を突然失わなければならなくなる時、この私自身が死ななければならない時、私も主イエスのように叫んでいると思うかもしれません。しかし、おそらく私たち現代人が、自分は神に見捨てられたと言う時、おそらく神に見捨てられたという裁きの元にある自分の状況を表明しているのではなく、人生や世界の虚しさの表明であるのではないかと思います。私たちは、全ては空しいと思う時、絶望の極みにいると思っています。だから、主の叫びを聞いて共感する現代人は、十字架の叫びとは、主イエスが、その働きに挫折して、己の存在と働きが全くの無に帰することを嘆いている言葉だと自然と理解して納得しているのではないかと思うのです。ところが、主イエスの叫びに注意深く耳を傾け、その言葉通りに受け取るならば、主は人生が無意味で空虚であることを嘆いているのではなくて、まさに、神に見捨てられたということ、神の裁きの元にあることを苦しんでおられるのです。
この金沢とも縁の深い雪ノ下教会の前々任の牧師である加藤常昭先生は、この聖書個所を説く説教の題名を「死の中の死」と名付け、このように述べました。「死の中の死というのは、別の言葉で言えば、私どもはこんなに深い死に方はしないということです。私どもはどんなに絶望しても、こんなに絶望することはないということです。私どもの心は罪のために鈍くなっていますから、私どもが神に捨てられるということがどんなに恐ろしいことかがわからないのです。だから平気な顔をして、われわれ現代人は神を信じることはできないと言う。神を信じない者にとって死というのはおよそ虚無であります。それでいいではないかなどと開き直るのです。その点では主イエスと聖書は、現代のすぐれた思想家よりももっとさめた目をもって、われわれの姿を見ていたのです。」と。そして、カルヴァンの言葉を引用し、主イエスの叫びは、陰府を経験している者の叫び、すなわち、主イエスが、文字通りの地獄を経験しておられる叫びであると述べます。
私たち人間は苦しみの出来事に直面し絶望するとき、神がおられるか、おられないか、わからない、そんなあやふやなところで生きています。そして、私たちは、苦しみの出来事に直面し、「この世に神はいない」と叫ばざるを得ないところにこそ、絶望の極みがあると思い込んでいます。けれども、主イエスが味わっておられる絶望は、はっきりと神の御前における絶望です。はっきりとした神よりの拒否です。神はいないという嘆きを、はるかに超える絶望の極みがそこにあります。神がおられることは、そこで何の慰めにもなりません。だから、主イエスは、虚しさよりも、はるかに厳しい裁きとしての死、呪いである死を死なれたのです。それゆえに、主イエスの十字架の死は、「死の中の死」と呼ばれるのです。
確かに私たちには、私たちの本当の絶望がわからないのだと思います。神の存在を信じる古代人であるか、無神論的な現代人であるか関係ありません。聖書が明らかにする人間の姿とは、神の子を十字架につけてしまう人間、神を捨ててしまう人間ですから、神様に捨てられるということがどういうことかわからないのです。私たちは、神さまに背を向けても平気な顔をしていられる。けれども、だからこそ、私たちが捨ててしまって自由になっていると勝手に思い込んでいる神の裁きを、主イエスは味わわなければなりませんでした。これが、私たちの罪、担わなければならない私たち人間の本当の絶望です。しかし、さらに言えば、主イエスが私たちよりも深く絶望しておられるということは、私たちが己の罪ゆえに、自分の置かれた本当の絶望の状況を知ることができないということに留まらないと思います。主イエスが、この叫びを挙げてくださったことにより、我々は、主イエスのように叫ぶことはもはや、できなくなってしまっているのだと言えるのではないかと思うのです。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙2:6以下で語ります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」すなわち、このお方が地獄に下られた故に、神に捨てられた場所は、我々にはなくなってしまったのです。私たちの友となり、兄弟となってくださったキリストのゆえに、私たちは、絶対に捨てられることのない、神の宝となり切ってしまっている自分を見出すことになります。たとえ、私たちが陰府に、つまり、地獄に身を横たえようとも、神の御子が、私たちのためにそこにいらっしゃり、そこは最早、地獄ではないのです。
最後に、我々が目を止めるべきは、神はこのキリストを捨てたままにはしておかれなかったということです。多くを語る時間は残っていません。ただこのことだけを指摘しておきたいと思います。まさに一時、完全に捨てられたに違いないキリストが、なお、「わが神、わが神」と、神との関係の内に生きられたように、父なる神も、キリストとの関係を完全に廃棄し、捨て置かれたままにされることはありませんでした。主イエスの十字架の叫びとぴったりと重なり合う、詩編第22編の祈りが、絶望で終わらず、命の約束と、讃歌で閉じられるように、父なる神の裁きによるキリストの死は、同じ父による三日後の復活へと至りました。
このことは、私たちにとって、極めて大切なことであると思います。それは、キリストの出来事が、我々に神に祝福された穏やかな死を約束するのではなく、最終的には、死の滅びを約束する出来事であったのだということを物語っていると思います。それは、キリストの兄弟とされた私たちの愛する者と、この自私自身のあらゆる局面における復活を約束してくれていると思います。そうであるから、私たちは大きく呼吸をすることができます。十字架のキリストに支えられて、牙を抜かれた絶望に耐えるだけでなく、復活されたキリストの命において、今、この時、死の向こう側の来るべき世界、復活の命の世界の空気を大きく呼吸することを始められると思います。 この命の終わりが来ることよりも確かに、復活の命がやってきます。キリストが私たちの兄弟となってくださったからです。その方の十字架の叫びが、リアルに我々の絶望を語り、また、神の赦しをリアルに語っているとするならば、その方の復活もまた、全く私たちの現実であるのです。
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