5月16日 コリント人への手紙Ⅱ 10:1-6
コツコツと読んできました第Ⅱコリント書です。今日から第10章に入ります。度々申し上げました通り、第10章から最後の第13章までは、一つのまとまりと見られています。元々、独立した一つの手紙であったろうと考えられています。
この第10-13章は、第Ⅱコリント書において、おそらく一番有名な部分だろうと思います。たとえば、「わたしは弱いときにこそ強い」というパウロの最も有名な言葉の一つは、この部分にあります。
「心の貧しい人は人は、幸いである。」、「悲しむ人々は幸いである。」と語られた主イエスのお姿を紹介するマタイによる福音書の次に読む聖書箇所として、「わたしは弱いときにこそ強い」と語るパウロの手紙を読むのがふさわしいと思い、取り組み始めた第Ⅱコリント書です。その意味では、いよいよクライマックスに差し掛かってきたと言うことができます。
ところが、度々感じてきたことではありますが、厳しい手紙を選んでしまったという思いがわたしには少しあります。
パウロとコリント教会の関係がこじれに、こじれている状況で書き送られた手紙です。皆さんも聴いていてしんどくなることもこれまであったと思います。
単なる別の時代の、別の教会に宛てられた他山の石ではなく、この私たちに向けて語られた生ける神の言葉として、聞くことを大切にしている私たちだからこそ、心突かれる言葉がたくさんあったと思います。
そして、第10章、とうとうこの手紙のクライマックス部分を聞いていきます。先に言っておきますと、この部分は、パウロと教会の関係が一番悪い状態の時に書かれているものだと言われています。しばしば、「涙の手紙」と呼ばれる箇所です。
「どうしたらわかってもらえるだろうか?どうしたら、コリント教会を、偽りの福音から、真の福音に立ち返らせることができるだろうか?」とパウロが涙ながらに書いている部分だと言われています。それをこの私たち自身に向けられた生ける神の言葉として、読むのですから、正直、しんどい個所です。
けれども、その厳しい箇所、コリント教会が心頑なになり、まさに心の貧しい者になりきってしまっているその箇所、パウロが、もどかしさに悶絶し、悲しむ者になりきってしまっているその個所においてこそ、「心の貧しい人々は幸いである、悲しむ人々は幸いである」と宣言してくださった主イエス・キリストの福音が、鮮やかに輝きだす個所でもあります。そのしんどさ、その貧しさ、その悲しみにもかかわらずではなく、そうであるから、輝き出さずにはおれない病める者の医者であるキリストの福音です。
今日の個所で、パウロの語る福音は「理屈を打ち破る」と言います。別の翻訳では、「様々な議論を破る」とあります。それは、偽りの教えの理屈、偽りの教えが持ち込む議論が、打ち負かされることが、まずは考えられていると思います。どんなに筋が通って、明快な教えだと納得させるようなものであっても、コリント教会をとりこにしていた偽りの福音の理屈は、やがて打ち破られるのです。神の知識に逆らう自称福音は、やがて馬脚を現し、教会から退場していくのです。最後まで残るのは真の福音のみです。
けれども、使徒の語る言葉が、理屈を打ち破る、議論を破るというのは、言い負かされる者だけに関係のあることではないでしょう。あらゆる偽りの理屈を打ち破る言葉を語ったパウロ達自身も含めたそこに関係したすべての人々の議論が止み、それに携わった全ての者達の従順が完全なものになるということだと思います。
従順が完全になるとはどういうことでしょうか?難しいことではありません。皆で礼拝をするということだと思います。
福音を巡る白熱した議論を交わしていた者たちの議論に決着がつくとき、パウロたちが勝利に酔いしれ、負けた者達が、肩身が狭くなって教会にいられなくなるということが起こるのではありません。
皆が十分に従順にされる。そこでは、皆が、議論を止めて、一緒に神様の御前に膝を屈めて、神様を拝む。
それが要塞をも破壊すると言われる神様に由来する福音の言葉の力が造り出す教会の姿ではないでしょうか?理屈は理屈のままではない。議論は議論のままではない。礼拝に至るのです。福音の正しさが現れ出るために、交わされた議論に勝った者も、負けた者も、皆が、神様に従順になり、礼拝をするのです。
パウロは、今日の最後の節である6節後半で、「すべての不従順を罰する用意ができています」ということを言います。
これは、「私たちが、コリント教会内で主流派を取ったときは、覚えていろよ。惑わした者たちのことは容赦しないぞ」というような、脅し文句にも聞こえます。「私たちが、そういう強硬な態度に出なくてもいいように、早く降参しなさい」という調子が、今日の聖書個所全体に行き渡っているようにも見えます。
でも、そうではないことは、和解の手紙の一部である2:7のパウロの言葉を既に読んだ私たちには明らかです。パウロは、そこで、議論に決着がついたとき、パウロの反対者達に対して、「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」と、受け入れるように勧めたのです。まさにキリストの優しさと心の広さが、パウロを突き動かしていたのです。
使徒の務めは、信仰の純粋性を保つことそのものではありません。福音は、手垢の付かないように博物館に大切に飾っておくものではありません。福音は生ける福音です。人々を真の福音に立ち返らせ、神さまの恵みに驚かせ、ただただこの福音に生かされている者として、語る者も聞く者も、神さまを共に拝むようにするのです。そこにキリストの思いがあります。
語る者も、聴く者も共に礼拝に至るまで、福音に突き動かされるパウロの歩みが止まることはありません。その渦中にある間は、コリント教会の人々は気付くことができなかったかもしれません。礼拝を目指しているパウロの言葉が、脅し文句にしか聞こえなかったかもしれません。
今日の個所など、その第一節から、嫌味で嫌らしい言葉に聞こえたと思います。「さて、あなた方の間で面と向かっては弱腰だが、離れている強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。」
「なんて、意地悪な言い方なんだろう。何か企んでいるような言葉だなあ」と、コリント教会の人々には、聞こえたに違いありません。
でも、それは、議論に決着がついた時のことをまだ知らないからです。「もう、その人たちは、あなたがたが真の福音に立ち返ったということで十分な罰を受けたんだ。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」というキリストの優しさに突き動かされた使徒パウロの言葉を知らないからです。
けれども、私たちは、複数の手紙が順序バラバラに一つにされてしまっていると考えられるこの手紙をここまで読み進めてきたので知っているのです。後の時代の人間の特権として、パウロの真意を知っているのです。誤解することなく、穿って考えることなく、真っ直ぐに聴くことができます。
そうすると、どうでしょう?今日の個所のパウロの言葉、ユーモラスにさえ見えては来ないでしょうか?威張っていて、上から目線と言うよりも、格好悪くて、たどたどしくて、コリント教会のことで、はらはら、そわそわして、自分の足りなさ、ふがいなさを感じている普通の伝道者、普通の牧会者であるパウロの一生懸命な姿が見えて来ないでしょうか?わたしは見えるような気がします。
今は全体を見通せる位置から眺めている私たちですから、もっと、うまいやり方があるだろう、もっと通じる言い方があるだろうと思うとしたら、それは、その通りです。
パウロの言葉はいつも完ぺきで間違いがないということはありません。そういうものではありません。ここでのパウロの言葉もまた、パウロ自身が、別の機会に、ガラテヤの信徒への手紙5:20で語ったような「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」という試行錯誤の言葉の一つだと思うのです。思うにあまりに無防備すぎる、あまりに正直すぎる、あまりに正面衝突過ぎる、それだから結局、あまりに神と教会を信頼しすぎている言葉です。
「あなたたちに対して、もっと強硬な態度に出れば、わたしの話が聴けるようになるんですか?もっと物腰柔らかく語れば、聴けるようになるんですか?でも、神さまの福音の言葉は、どんな語り方をしたって最後には、聴かざるを得なくする力があると私は信じています。」
正直すぎると思います。もっと、上手な言い方があると思います。でも、やっぱり、これ以外の言葉である必要はないなと思います。福音に生かされる者の本物の言葉だと思います。
神様がお語りくださる以外にはない、神様が聴かせてくださるより他ない。その時、私たちも、あなたたちも、福音に心打たれ、従順にされて、一つになって神様を拝まざるを得なくなる。
妥協の上でその日が来るのではありません。妥協して一緒に礼拝するのではありません。要塞をも破壊する神の言葉が、私たちを丸裸にしてしまうのです。パウロたちのことも、コリント教会の人々のことも、あるがままの貧しい者にしてしまうのです。そして、自分は神の御前に立てると思い込んでいたすべての不従順は、福音によって十分に罰せられるのです。
それは、裁きの経験ですが、それ以上に恵みの経験です。ただ、キリストの赦しの内に、自分が生かされることを知るのです。そこに至るまで、神の力ある言葉は、私たちに人間に対する手を休めることはありません。
悔い改めさせられるのです。皆が、神様に降参するのです。そして、一緒に神さまを拝むのです。誰が勝って、誰が負けたではなく、ただ神様だけが勝利者です。私たちの思惑は福音のとりこにされ、従うのです。そのことが、やがて、コリント教会において起きたのです。第Ⅱコリント書は、その記録であり、私たちに対する福音の生きていることの証言です。
人を礼拝者とする真の福音の勝利は、コリント教会の範疇に留まるものではありません。偽使徒の温床になっていた疑いのあるエルサレム教会にもパウロを召された神の福音は貧しいキリスト者たちの奉仕という形になって届いて行くし、やがては、パウロを捕え処刑するローマ社会もまた、十字架のキリストを拝む礼拝者と成って行きました。そして、新約聖書においては、この勝利は、天と地と、陰府に妥当するという広がりを持つのです。それが福音の力、神の言葉の力です。
確かに、私たち自身の歴史においては、まだそれがどうなって行くか見ることはできません。だから、不安がいっぱいです。教会と一緒にイエス・キリストの福音の言葉も、消えてしまう未来さえ、予感されます。けれども、それは決して不確定な未来ではありません。
なぜなら、ヨハネによる福音書に記録されるように主イエス・キリストが十字架の上で、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と仰った時に、人間の協力なしに神さまの側で、確定したものだからです。この勝利は、やがて、天と地と陰府の現実となるのです。
しかし、その神の生ける言葉は、私たちと無関係な所で働くものでもなく、私たちの言葉と一つになってくださるものでもあります。旧約で難攻不落のエリコの城壁が、先立つ神の箱に従う神の民の勝鬨の声によって、不思議にも崩れ去ったという物語があります。4節でパウロが語る要塞も破壊する神に由来する力とは、実は、この神の民の勝鬨の声のことを言っていると思います。
私たちが福音を語る。それは、イエス・キリストの父なる神の勝利を語る言葉です。私たちが従うから、勝利するのではありません。福音とは、勝利の伝令の声のことです。ただの声です。しかし、その勝鬨の声が、悪夢にうなされたままの人々の目を覚ますのです。そして、目覚めた物を必ず礼拝者とする神の勝利が現実のものとして、今ここで、生きられ始めるのです。それが今日この場所で、また、それぞれが散らされながら捧げている礼拝の場所で起こっていることです。
祈り
主イエス・キリストの父なる神様、厳しい離散の日々を過ごす私たちに、あなたの定められた終わりから今を見るように、導いてください。また、万事を益とし、私たちを福音の伝令として召してくださるあなたを信じ、散らされた所でも、喜んで与えられた使命に生きることができますように。優しく寛大な十字架と復活の主、私たちの裁き主であり、救い主であられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。
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