7月12日 マタイによる福音書27章45節~56節
コロナの自粛期間中、いわゆるSNSと呼ばれる、インターネット上での、人と人とのやり取りの中で、7日間ブックチャレンジというのが流行りました。
毎日、毎日、七日連続で、自分のお気に入りの本の写真を撮って、ネット上に載せるのです。
私も、友人から、参加するように誘われまして、七日間、七冊ご紹介いたしました。
その内の一つに、田中小実昌という方が書いた、『アメン父』という本があります。
田中小実昌という方、ご存じでしょうか?私は、リアルタイムでは、ほとんど知らない方ですが、神学生の時に、授業の脱線話で、こういう方がいるということを知りました。
年配の方の中には、11PMというテレビの深夜番組に出ていた毛糸の帽子を被った風変わりなおじさんとして、覚えていらっしゃる方もおられるでしょう。
外国の推理小説を翻訳したり、自分で小説を書いたり、CMに出演したり、俳優をやってみたり、新宿ゴールデン街に毎晩のように出入りする酒飲みで、いいかげんな感じがまた味のある方だったようですが、実は、あまり知られていないかもしれませんが、牧師の子どもです。
その父親のことを書いた『ポロポロ』という題と、『アメン父』というタイトルの二冊の小説があります。
田中小実昌の牧師であるお父さんの名前は、田中遵聖と言いますが、ものすごく独特な、信仰理解を持っていた方です。
元は、九州の西南学院という大学を作ったバプテスト派というグループの牧師でしたが、そこには収まらず、アサ会というグループを独自に展開していきました。
長い間、この方のことは、田中小実昌の小説を通してしか、知ることが難しかったですが、最近、説教集が出版されて、誰でも身近に田中牧師の説教を読めるようになりました。機会があれば、お手に取ってみても良いと思います。
残念ながら、その説教集の中にはないのですが、この田中牧師が説教中に語られた印象深いエピソードを紹介している文章を最近、読みました。
田中牧師が、末期がんに侵された教会員を訪問した時の話です。
その教会員の名は近藤定次と言い、西南学院大学の先生で、神学者として将来を嘱望されていた方らしいのです。しかし、若くして、末期の肝臓がんになり、最後の日々を、病院で過ごしているとことろを、父親ほどの年の差が離れた田中牧師が訪問されました。
一頻り色々なお話をされて、そろそろ、帰ろうかという段になって、この近藤という人が、「先生、お帰りですか?」と聞かれた。田中牧師は、「そうです」と答えた。
病状がよほど重かったのでしょう。「また来るよ」と言う勇気もなく、「そうだ」としか、言えなかったそうです。
きっと、病床にある人もこれが最後の時になるだろうと思い、意を決して仰ったのでしょう。「先生、讃美があがりません」と悲痛な叫びを挙げたと言います。
自分は洗礼を受けたキリスト者なのに、これが自分の牧師が訪問する最後の機会であるかもしれないのに、今この時、信仰が湧き上がり、神への賛美に至る思いにならないという動揺を自分の牧師に正直に仰ったのです。
この二人は信仰によって結ばれた、信仰がつないでいる関係であるのに、その最後の叫びが、二人が共に仰ぐ神への「讃美があがりません」というのは、本当にどうしていいかわからないような気もちであったと思います。
しかし、その言葉を受けて、田中牧師はすぐにこう仰ったそうです。
「讃美はイエスさまがなさるのだ」。すると、病床の人はハッとした面持ちになった。
田中牧師は、言います。
「痛ければ痛い、それだけ。アーメン、ありがとうございますと、それしかないのだ。それが讃美だ、それが人間の方の讃美だ、と私は申し上げたが、しばらくたって別れるときになって彼は、半身起き上がり、『ハハハハ』と大笑いしたのです。喜びに満ちて、『先生、嬉しいです』と言って笑顔を見せて、あふるる涙と共に私と別れたのです。最後の時です。」
このエピソードを紹介してくれた人は、自分は神学的なコメントを付ける資格も能力もないけれども、田中先生はここで、キリストの先立つ恵みの中で、痛いは痛いと言うことができるのが喜びだ。十字架で苦しまれたイエスさまの恵みがここにあるのではないかと言います。
「痛ければ痛い、それだけ。アーメン、ありがとうございますと、それしかないのだ。それが讃美だ、それが人間の方の讃美だ」。そしてその私に代わって、 「讃美はイエスさまがなさるのだ」。
今日読んだ聖書個所、そこに露わになっている主イエスのお姿がどのようなものであるか、ご紹介するために、このようなお話を紹介しました。
このエピソードに皆さんがアーメンと言って頂けば、それでいいのです。これ以上、私がつけ足すようなことは何もありません。それで、今日の聖書の言葉は皆さんに通じたことになります。
しかし、一度聞けば誰でもたちまち了解されるような話でもなかったかもしれません。論理が破れてしまっているような、かえって言葉足らずのような謎めいた不思議な話に聞こえたかもしれません。
その意味では、その輝きを減ずることになってしまったとしても、私の言葉によって、もう一度、語り直すくらい、それくらいの明るさが今は、まだちょうど良いという方もいらっしゃるかもしれない。それだけ、深い汲み尽くすことのできない豊かな恵みを湛えた主イエスの十字架であると思います。
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今日読んだ46節には、「三時頃、イエスは大声で叫ばれた。」とあります。
なんと叫ばれたのか?
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだと言います。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると言います。
ここからして既に、謎めいていると言えます。不可解だとも受け取れるのです。
救い主が、こんな弱音を吐いて、情けないと思ってしまうような言葉なのです。
今日の聖書個所はたいへん豊かな箇所なのですが、今回は、この一つの言葉を説くだけでも、十分時間が取れないというような不思議な言葉であると思います。
こういう叫びを挙げなければならない人間の心持というのは、どのようなものでしょうか?
普通考えれば、自分の人生は失敗してしまった、自分の人生は呪われていると、そう思う者こそが、挙げる叫びです。
だから、少しでも、ラディカルな解説書を読めば、ナザレのイエスという人物は、神より遣わされて行っていると信じていた自分の宣教活動が、神の助けなく、この十字架刑に至ったことに、困惑しつつ、挫折と絶望の叫びをここに挙げているのだと、解説いたします。
あるいは、保守的で、信仰深い解説書は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びは、イエス様自身の十字架での心境の全てを吐露した言葉ではない。実は、この言葉は、詩編第22篇の言葉だ。
そして、この詩編第22篇は、確かに、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と始まるのだけれども、その終わりは、「わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来るべき世に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。」という言葉で終わっている。
だから、本当は、十字架のイエス様はここまで語りたかったのだ。けれども、息も絶え絶えで、そこまでは暗唱できなかった。あるいは、詩編というのは、冒頭の句を引用すれば、全体を引用することになるという習慣があった。だから、十字架のイエスさまの心は、挫折と絶望ではなく、勝利の喜びに輝いていたのだと解説されます。
それぞれになるほどと思わされます。方向性は正反対ですが、分かりづらい言葉を合理的に分かり良くしようと努めています。
けれども、この二つの読み方はそれぞれに、正反対のように見えて、主イエスというお方を一方向でしか見ていないように私には思われます。
一方は、この方が、我々と少しも変わらない血と肉を備えた人間であることを、十分に捉えている。しかし、真の神であることを忘れている。
他方は、このお方が、救い主であることをよく弁えている。けれども、そのお方が選び取ってくださった貧しさの深みがどれほどのものであるかを忘れてしまっていると思います。
そして、両方とも、一つのことを共有していると思います。それは、神の子、救い主であるならば、こんな叫びはあげないということです。
だから、この叫びを真面目に取るならば、イエス様は、神の子ではないと言わなければならないと思い込んでいる。反対に、イエスさまが真の神の子であるならば、この叫びは、本当は、讃美に続いていると、補って理解しなければならないと思い込んでいるのです。
けれども、それほど神の子が苦しむ、救い主が苦しむということはおかしなことでしょうか?
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カトリックの司祭、ブリュックベルジュという人が書いた『キリスト伝』、だいぶ昔に翻訳出版されたものですが、そこにこういう話が書かれています。
画家ブリューゲルの作品「十字架の道行き」をかつて見たことを思い出しながら、だいたい次のようなことを語ります。
主イエスの十字架を描いたブリューゲルの絵、その絵は、遠くから見ると、美しい花束のように見えると言います。
けれども、近づいてみると、花束を作る一つ一つの絵に見えたそれが、色々な人の悩みの姿であると言います。
捨てられた女、背中を刺されて死んでいる男、自分の子供が死んでしまって、手放すことができないままに、死んだ子を抱えて嘆いている母親。囚われている者。ハンセン病を患う者が、自分の存在を周りに知らせるために鈴をつけられている姿。
そのようなたくさんの苦しむ者の中で、十字架を負っているイエスさまの姿が描かれている。
この画家は何が書きたかったのか?
そこで、司祭は言います。「キリストがわれわれと共に苦悩に加わることを妨げる力はわれわれにはない。われわれが抵抗しようのないほどの力で、キリストはわれわれの苦しみに関わってくださる。神が人間とその苦しみや死において一体となるというのは、まさに神でなければ思い及ばぬこと」だ。
神は、その御子の苦しみにおいて、私たちと一つになっていてくださる。いや、本当は、私達の苦しみを一身に背負って、叫んでいてくださっている。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
そのように子なる神がお叫びになるとき、私達の側では、もう二度と、神に捨てられたということはできなくなっているのです。
なぜならば、私達がそう叫ぼうとすると、私達の隣に、いや、もっと深い苦しみの中にキリストがおられ、私達は、神に捨てられて一人きりにされているわけではないことを知るのです。まさに、キリストのゆえに、神に捨てられたと嘆く私たちのすぐそばにいて下さるとしか、言いようがないのです。
私達は嘆きから救われることによって、そこで救い主に出会うのではなくて、嘆いているそこで、神に出会うことができるのです。
しかも、そのキリストが深いところで担っている苦しみは、ただの苦しみではありません。私達の罪のための苦しみであると言われます。
理由なき苦しみを苦しむ者の傍らに神が共にいて下さるというのは、わかりやすいかもしれません。けれども、キリストは違います。
キリストが担う苦しみは、無辜の民、善人が苦しまなければならない苦しみを一緒に担う、代わりに担うというのではなくて、罪人が自分の罪の結果として担わなければならない自業自得の苦しみを、担うのだと言うのです。
我々が苦しんでいる苦しみで、キリストが関わろうとされない苦しみなどないのです。
そして、そのようなことがおできになるのは、真の神以外にはおられないのではないでしょうか?十字架こそ、神が神として、私達の前に現れてくださった姿ではないでしょうか。
父なる神は、御子イエス・キリストにおいて、私達の苦しみ、私たちの嘆きをご自分のものとしてくださるのです。
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私達は、洗礼を受けてキリスト者になった後に、何もかもハッピーになるわけではありません。嫌なことも人生には起き続けます。
洗礼を受けても、悪いことが起きるのは、祈りが足りないからだという乱暴な言葉を、キリスト教会の中でも聴くことがあります。しかし、皆さんはそんな言葉に惑わされないと思います。
まともな教会で、まともに聖書を読み、説教を聴いていれば、それが、どんなに間違っていることかすぐにわかります。むしろ、キリスト者は、主イエスから新しく重荷を頂き直すのだ。自分の十字架を背負うのだと聞いた通りです。
教会生活を続けていく内に、我々の信仰は御利益宗教とは違うという言葉をあちらこちらで聞くようになります。
けれども、ここにも、危険が潜んでいます。変に思い込んで自分を責めてしまうことがあります。
重荷を背負うのがキリスト者らしい。そうであるならば、嘆いている私は信仰が浅いのではないか?いつも、小さな不幸に動揺し、食事も喉を通らなくなるような私は、信仰が足りないせいではないか?
信仰者であるのに、いつもニコニコできない、感謝感謝と言っておれない、そういう自分は、中途半端な半人前の信仰者だと、どこかで思い込んでしまうことはないか?
今日はたくさんの人の名前が出てきて恐縮ですが、福田正俊という方がいました。この教会にもお世話になった方がいるようです。
著名な高倉徳太郎牧師の跡を継いで東京の信濃町教会の牧師となった方です。福田牧師は、戦争が終わった直後、戦争に反対しきれなかった自分のあり方を恥じて、いったん牧師を辞められた方です。それだけ、人間の罪と深く向き合った方です。人間の貧しさ、弱さと徹底的に向き合った方です。
その福田牧師は、ローマの信徒への手紙8:23のパウロの言葉、「被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」という言葉を指し示しながら、キリスト者こそ、嘆くのだと言います。
なぜならば、神の恵みを、深く知るということは、それだけ、まだ誰も知らないような、自分の罪深さを知るようになることが伴うことだからです。
また、やがて、来る神の国の支配の素晴らしさを知る者は、この世にどんなに理想的な世界が打ち立てられても、自分がどんなに良い人間になれたとしても、神の支配が打ち立てられた時に比べれば、まだ世界も自分も、本当にほんのわずかしか、完成に近づいていないことを知るからです。
しかも、その完成は、私の手の業ではなく、神の恵みとしてやがて来るものです。だから、嘆く。しかし、完成する力は自分の手の内にはないと嘆くことによって、正しく自分に絶望し、人を人とし、いよいよ神により頼む。
神さまが下さる赦し、そして終末の復活の約束に支えられれながら、安心して、悲しいことは悲しい、痛いことは痛いと言うことができるのです。嘆くことによっても、神を神とする。嘆き即讃美です。
そうすると、今日の最初にご紹介した田中牧師の、「讃美は、イエス様がなさるのだ」という言葉も、ご復活のイエス様には、もはや、嘆きは、無関係であり、私達嘆くものに代わって、讃美だけをその仕事としてくださるという風には理解できないことが分かります。
なぜならば、嘆きはキリストの霊である、聖霊の業だからです。
今、私たちの内に聖霊として、私たちに代わって呻いてくださる霊として、私達の嘆きを、他の誰でもなく、キリストは、ご自身の嘆きとしてくださる。
父の御心のままに、讃美があがらない私たちの兄弟となってくださる。そして、それによってこそ、そこでこそ、神を神としてくださる。
聖霊は、十字架上のキリストの叫びを、今、私たちの内にあって、神への祈り、讃美として、献げ続けてくださるのです。
このお方のゆえに、嘆くことを、我慢しないで頂きたいと思います。教会の中で、悲しみを押し殺そうとしないで頂きたいと思います。讃美があがらないと、嘆いてもちっとも構いません。
むしろ、嘆きは、私達の内なるキリストの霊の共におられるしるしであり、だから、キリスト者のしるしですらあり得るのです。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま、
あなたが私たちに下さる命は、
ダイヤモンドのように硬いものではなく、
小鳥のように柔らかでしなやかなものです。
しかし、その傷つきやすい命が、
今、ここですでに永遠の命と呼ばれるのは、
この私達を生かすために、あなたが全力を尽くしてくださるからに他なりません。
感謝いたします。
いよいよいあなたの真実により頼む信仰を私達にお与えください。
私達よりもずっと深い苦しみに降り、下から支えてくださる
十字架のキリストのお名前によって祈ります。
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