十字架にある王

7月5日 マタイによる福音書27章27節~44節

今日の聖書個所の半ば、32節に出て来るキレネ人シモン、この人は、主イエスのくださる十字架を初めて担った人だと言えます。

 神さまが私たち教会を用いて、人々をどこに招いているかと言えば、このキレネ人シモンのように、主が下さる十字架を担うようにご自分の業に参加するように招くのだという言い方もできると思います。

 これは一見、一章前の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という人気のある主イエスの御言葉と矛盾しているようにも見えます。しかし、そんなことはありません。その言葉の続きも、実は、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。わたしの荷を負いなさい。」ということであるからです。

 これは、伝道の使命を担う教会がよく弁えていなければならないことだと思います。私達が人を招こうとしている場所は、十字架のキリストの元で荷を降ろして休んだらいいということだけでなく、ここで改めてキリストの荷を受け取ってほしいということなのです。それは、言い換えれば、「自分の十字架を担う」ということであり、その最初の人として、キレネ人シモンがいるのです。

 「自分の十字架を担う。」この言葉は、教会の中だけでなく、世間的に認知されている言葉だと思います。

 それでその使い方というのは、私たちの多くの場合も、世間でもあまり変わらずに、自分に与えられている苦しみや悲しみを指して、「これがわたしの担うべき十字架だ」という言い方をしていると思います。

 治りきらない病であったり、どうにもならない生まれであったり、取り返しのつかない人間関係であったり、逃げ出したくなるような仕事であったり、「ああ、これは、わたしが担っていかなければならない十字架だな。」と、そう捉えるわけです。

 考えてみれば、皆それぞれ、思い当たるものがあるのです。イエスさまが、ゲツセマネの園で、「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたような、避けたいけれども、避けがたくのしかかってくる重荷が誰にだってあります。

 キリスト者だって、例外ではありません。洗礼を受けたら、問題はなんでも解決するなんてことではありません。

 何か違いがあるとすれば、教会に通う者は、その十字架を担うことは、神がお望みになってくださることだと、信じることができるということだと思います。

 私たちキリスト者は、病を過ぎ去らせてくださいと三度祈っても、癒されなかったパウロに聞こえてきた神さまの言葉、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という言葉を自分でも聞き、キリストのゆえに、「自分の弱さを誇ろう」、「わたしは弱いときにこそ強い」と告白させて頂きます。違いというのは基本的にはそれだけだと思います。

 病の癒しにしろ、現在抱えている問題の解決にしろ、速やかな解決や、結果を得ることができると言える者こそ、一見、確信に満ちた真実の信仰者のように見えます。しかし、そういう者は、使徒パウロによれば、「勝手に王様になっている者」(Ⅰコリント4:8)に過ぎないのです。それは今という時が、クリスマスと再臨の間の時であることを忘れているのです。

 むしろ、この二つの時の間を生きるキリスト者というのは、人に見えるところによれば、「死刑囚のような見世物」(Ⅰコリント4:9)であり、そこそが神の御心だと言うのが本当なのです。

 いわば、キリスト者とは、人の目には、一見「世の滓」のように見えるにも関わらず、その「わたしに倣う者になりなさい」と世に向かって呼びかけるものなのです。それがパウロの自覚した使徒の役目であり、だから福音と分かちがたい宣教の内容として、私たち教会の使命でした。はっきり言ってしまえば、誰が進んでそんな者のようになりたいかと思われることなのです。

 けれども、こういう主イエスから受け取り直して、自分の十字架を担った人間こそ、「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」、イエス・キリストのものとなったしぶとい人間なのだと、パウロは、ずっと言っているんです(Ⅱコリント4:7以下)。

 これは、不思議な救いなのです。必ずしも、人間のニーズに合う、私たちの期待通りの救いではないと思います。

 私は最近、日蓮宗に帰依する方とお話する機会がありました。その方とお話している内に、私たちの信仰と似ている部分があることが分かり、たいへん驚きました。

 私たち教会が、イエス・キリストが、ただの人間ではなく、真の人であり、また真の神であると信じるように、日蓮宗のある一派の方々も、日蓮を、単なる預言者のような存在ではなく、仏の化身と見なしておられると知りました。しかも、主イエスと同様、日蓮にとっても、受難は大きな意味を持つことであったと言うのです。

 思わず、「似てますねえ」と、お互いに喜んだのですが、でも、その方にすれば、キリストの出来事には納得いかないところがあると言うのです。

 迫害と受難にあった時、日蓮には天よりの助けがあった。けれども、キリストは十字架で助けなく死んでしまった。だから、天の助けが来た日蓮の方が、道理に適っていると仰いました。

 皆さんどう思われますか?私は、本当に仰る通りだと思ったんです。この方は、本当によく考えていらっしゃる。それだから、躓くべきものにきちんと躓いたのだと思いました。

 教会は敷居が高いと思われることがありますから、なるべく敷居は低くしなければいけない。バリアフリーにしなければならない。いらない段差、いらない躓きは、残らず取り去ればいいのです。その点、私たちの教会も、もっともっと、工夫できる部分はあると思います。

 けれども、余計な敷居を取っ払って、私たち教会がこの場に訪れてくださるようになってくださった方にして頂きたいことは、本当に躓くべきものにきちんと躓いて頂くことです。主イエスというお方にきちんと躓いて頂きたい。

 その躓きは何かと言えば、それは十字架にお架かりになり、息絶えた方を、本当の神の子であり、だから、わたしたちの主人であり、この世界の王であられると告げ知らせる福音の知らせそのものです。福音の躓きとは、枝葉末節ではなく、福音の中心そのものなのです。

 キリストの福音というのは、人間的に言うならば、道理に反するものなのです。私たちの表面的なニーズからすれば、完全に期待外れなのです。

 だから、この方に対する私たち人間の自然な心からの言葉は、まさに、39節以下で十字架に向かって発せられた人々の声に集約されていると思います。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」

 私たちが、真の王だと信じるお方は、そのようなお方であるから、その点で、教会の伝道が振るわないということは、当然のことなのです。だって、主イエスは、石をパンに変えませんから、十字架から降りて来られませんから、信じる者を、超人にはしませんから、主イエスは、私たちのこうあってほしい、こうしてほしいという願望からすれば、期待外れですから。

 キリストときちんと向き合うならば、必ず躓くんです。聖書は、キリストの出来事を「ギリシア人には愚かなもの、ユダヤ人にはつまずきである」と語ったのです。それはまた、他の個所では、「十字架のつまずき」、「人の賢さよりも賢い神の愚かさ」と呼ばれるのです。

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 けれども、不思議なことに、この期待外れな方、今日の聖書個所では、からかいと嘲りとして、深紅のマントを着せられ、茨の冠を被らされ、打ち叩かれて、その十字架の上に、「ユダヤ人の王」と、殴り書きされた主イエスのことを、「本当にそうなんだ。このお方は、真の王さまなんだ」と、告白する者たちが生まれたんです。

 確かにその輝きは隠されているのです。見る影もないのです。しかし、その見る影もない十字架のキリストのお姿の中にこそ、全身全霊を込めて、私たちの真の王として、御自身をお示しになっている神の子のお姿が見えているのです。

 それは、私たちの期待にそぐわない王さまの姿だと言いました。けれども、その期待外れの姿は、私たちの期待を越えて、強烈に語っていると思います。

 神さまがこの方こそ、あなたがたの王だと指し示すことによって、私たちの弱さは新しい意味を持つようになる。私たちの貧しさは新しい意味を持つようになる。

 もしも、十字架にお架かりになる方が神の子であるなら、神さまは、分かりやすい強さ、誰もが認める輝きには、興味がない。むしろ、神の子は、それらのものを捨てて、世に来られた。天国もその王座も全部後ろにして、飼い葉桶の中にお生まれになった方の道は、当然、十字架に至るし、それによってこのお方が、目を注がれるのは、見栄えのしないものであることを力強く語っている。

 ここで、改革者ルターの言葉を少し噛み砕いた形でご紹介することは意味のあることだと思います彼は、十字架のキリストを指さしながら言います。

 「この十字架は、私たちが曲がった仕方で追い求めてきた神理解の幻想を打ち砕き、それによって私たちが曲がった仕方で、見捨ててしまった人間性と、蔑んできた肉の弱さを取りあげてくださる。」

 弱い神の子は、強い王さまを求める私たちには期待外れかもしれないけれども、弱い神の子は、私たちの弱さ、貧しさに触れることがおできになるということです。ヘブライ書4:15に、このお方は、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたから、「私たちの弱さに同情できない方ではない」と言われている通りです。

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 しかし、どうやって、私たちはこのような弱い救い主を、この私の王さまとして、知れるようになるのか?この世が一所懸命追いかけている強さを求める強迫観念から目を覚まして、私たちもキリストがお引き受けになった弱さと貧しさを受け止め、認めることができるようになるのか?私たちは自分の弱さや貧しさを認めたくないからこそ、主を十字架に追いやる者です。

 このような大転換がどうして起こるかと言えば、これは、今日の物語におけるキレネ人シモンの姿が、象徴的に語っていると思います。それは、自分で選び取れるようなものではなくて、半ば、強制的に背負わされることによるのだと思います。

 キリストの十字架を傍観者として、眺めているような所で、そんな考え方もあるかもしれないね、私には関係がないけれどと、第三者的に眺めているところで、突然、指さされ、これをお前が担うのだ、お前が引き受けるのだと、呼び出されるのです。

 北陸学院中高、大学の入学式には、いつも語られる聖書の言葉があると聞いています。ヨハネによる福音書15:16の御言葉です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」

 「君たちは、自分でこの学校を選んだつもりでいるかもしれない。けれども、本当はそうじゃないんだ。神さまが君たちをこの学校の生徒、学生として選び、ここに集められたのだ。」と聞かされる。

 これを聞くと、多くの者が、不思議に思うそうです。けれども、反発よりも、むしろ、新鮮に響くようです。自己責任とか、自己実現とか、自分の思いとか、自分の判断とか、そういうことばかりがクローズアップされる時代の中で、自分の選択を越えた、それこそ、ミッション、自分には上より与えられた使命があるという感覚に、初めて触れるからだと思います。

 私は、その子どもたち、若者たちが、その新鮮で、不思議に響いた召し出しと使命があることを、本当にそうだと、少しづつ実感していくのは、たとえば、毎朝の礼拝の時間であり、また、学校から送り出されてくるこの教会の礼拝との出会いの内にあるのではないかと思います。

 国家権力によって、無理やりにということでは決してありませんが、学校の行事として、宿題として、また進路のために、内的な迫りというよりも、外から促されて、キリストの出来事を知るようになるのです。

 北陸学院の生徒、学生ばかりではありません。キレネ人シモンの気持ちが分かるという方は、案外、多いのではないかと思います。生まれた家が、キリスト者家庭だった、結婚した相手が、クリスチャンだった。親しい友や家族に誘われて、断り切れず、義理を果たすために、教会の門をくぐったという方もあるかもしれません。

 また、それだけではありません。負いたくて負ったわけではない重荷に引きずられるように、教会を訪れるようになったという方もあると思います。そういう自分の自発性を越えた、外からの偶然や必然の促しによって、不思議にもキリストの出来事が語られる礼拝に集められることから始まったのです。まさに巻き込まれていくのです。

 そこで、思いがけず、自分の王さまを発見する。いや正確に言えば、真の王さまに発見される。

 マタイでは、簡単にキレネ人シモンと呼ばれている人、強いられてキリストの十字架を担ぐことになったシモンですが、同じ出来事を語るマルコによる福音書では、「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」という紹介が付されます。

 これは、マタイの教会では、知られていない未知の名前であったために、省略されてしまったのでしょうが、マルコの教会ではよく知られた、「あのアレクサンドロとルフォスのお父さんですよ」という意味で、語られている部分です。

 つまり、主の十字架を無理やりに担がされたキレネ人シモンの息子、アレクサンドロとルフォスは、マルコの教会では知られたキリスト者であると考えられるのです。

 アレクサンドロとルフォスがどうして教会に結び付けられたかと言えば、その父を通してだろうと想像されるのです。父シモンが、強いられて担った十字架をきっかけに、キリスト者になったと推測されるのです。

 自発的にではなく、無理やりに担がされた十字架、巻き込まれたキリストの出来事、しかし、この人は、自分の王さまにであい、その方と結びつけられた重荷を、自分の命丸ごとを自分に与えられた使命として選び直したのです。

 自分が無理やり担がされた十字架、自分のものではないと言いたかった十字架、最後には、自分から取り除かれ、イエス・キリストという方が担われ、そこで死んでいかれた十字架、しかし、その十字架は、本当はやっぱり、自分のものであった。それを肩代わりして頂いたのだと、自分の命を、主イエスのもの、主イエスに担われているものとして、その端にそっと手を添えるようにして、受け取り直したのです。

 今日の物語を聴きながら、やはり多くの人が思い起こすのは、イザヤ書第53章の苦難の僕の預言です。

 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった…彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。…彼は自らの苦しみの実りを見て/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい人とされるために/彼らの罪を自ら負った。/それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。

 人の強盗の真ん中に釘付けられている十字架のキリストは、弱さ、貧しさ、罪を抱える人間をご自分の戦利品として神より頂く王であります。そして、弱さ、貧しさ、罪を抱える者はおびただしいので、キリストの戦利品は、おびただしいのです。

 ここにいる私たちは、そのキリストの戦利品の一部です。キリストのものです。ここで気づくべきは、私達がここにいること、また、ある者が洗礼を受けたキリスト者であるということは、一番深いところでは、私たちの選択を越えているということです。私たちの王キリストが、作り出してくださっていることなのです。

 しかも、私たちの良さではなく、私たちの貧しさ、弱さ、罪を、じっと見つめながら、そのような私たちをこそ、ご自分のものとしたいんだ、ご自分の戦利品としたいんだ、そのために御自分の命を十字架でなげうって下さったのです。

 こんな王さまを他のどこに見つけ出すことができるでしょうか?人の目からも、自分の目からも、どんなに取るに足りない自分であっても、そのような私たちを情熱的に追い求めてくださり、今、ここに招いていてくださっているお方に、私達も、あなたこそ、この私の真の王さまだと告白させて頂くことができるのです。

 

祈ります。

 天地万物の造り主であり、十字架とご復活の御子にあって、私達の父となって下さった主よ、王宮ではなく、家畜小屋にお生まれくださった御子のゆえに、私達はあなたを見つけることができました。いや、あなたがそのような低みに来られて、私達を見つけ出してくださったのです。あなたは、御子に分捕りものは多いと仰り、そこに、今もへりくだり続け、小さな者を追いかけ続けるあなたの気迫を感じます。宣教の愚かさと呼ばれるほどに、見栄えのしない、しかし、私達人間にとっては、救いそのものである福音宣教の業を、飽くことなく続けらて下さるあなたに、私達も喜んでお従いすることができますように。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

             

 

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