6月21日 マタイによる福音書27章1節~10節
誰の言葉であったか忘れましたが、ことあるごとに思い起こす言葉があります。
それは、私たちのキリスト信仰というのは、学者でなければ十分わからないほど難しいものではないけれど、片手間にわかってしまうほど単純なことではないという趣旨の言葉です。
世の中、何でも、手軽なわかりやすさを求める風潮があります。書店でも、「これ一冊でわかる~」ということを売り物にしている文章が溢れています。
私自身も新しい分野のことを知りたいと思うときに、手に取りがちですが、入り口としては良くても、信仰に限らず、世界はそんなに単純なものだろうか?と思います。
忙しい時代ですから、もちろん、そういうものの助けも賢く借りる必要はあると思います。けれども、自戒を込めて、何もかもそれで済ますわけにはいかない。
そうでなければ、私たちを深い生き方へと導くものとの出会いの脇を、足早に通り過ぎてしまうことになりかねないと思うのです。
そういう意味でプロテスタント宣教150年以上経って、以前よりも教会の存在は知られたし、教会の語る言葉も全く聞いたことはないという人は、ほとんどないけれども、表層的な理解に留まって、福音の深みの脇を通り過ぎられてしまっていることが、あるのではないかと思います。
幸いにして、北陸学院の尊い働きがあり、金沢では、新来会者がいないということはないのです。それだけでなく、皆さんのご家族も、非常に協力的に、皆さんを教会へと送り出し、私たちの教会生活を支えてくれています。有難いことです。
そして、そういう方々は、教会の語る言葉を聞いたことがないということは余りないと思います。既に、それなりに弁えていらっしゃると思います。私たちの伝道の課題は、既に、この教会のほとりに生きておられる方々に、もう一歩、深入りしてもらうことです。
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先日ある方が教会を訪ねて来られて、是非、キリスト教の本質を教えてほしいと、仰いました。それも、その場で、かいつまんで大事な所を教えてほしいということでした。
私は昔、30秒の福音というのを教わったことがあり、創造から終末までの聖書の流れを、わずか30秒で語ることはしようと思えばできますが、それって何か違うなあと思うのです。それでは、一番大切なことが伝わらない。
そもそも、良くその方のお話を聞くと、そういうキリスト教の世界観のようなものは、十分ご存じなのです。
しかし、我々の信仰というのは、聖書の語る世界観の問題ではなく、聖書が証言する生ける神との出会いの問題だと思うのです。そして、生きている方と出会うためには、立ち止まる必要があると思います。
時間をかけた出会いによってしか、開かれない真理、出会いの真理というものがあります。
だから、キリスト教の内容をかいつまんで教えてくださいと言われると、ちょっと言葉に詰まってしまいます。少なくとも半年くらい毎週礼拝に通い、説教に耳を傾けてみてくださいとしか、言いようがないなと最近、思うのです。
手軽さを求める文化の中で、私たち教会も世の中のニーズに合わせて、なるべくわかりやすい話をしなければという誘惑を持ちますが、それに完全に乗ってしまって良いのだろうか?むしろ、簡単には分かりませんよ。一つじっくり取り組んでみませんか?そう覚悟を決めて言うべきなのではないか?
やはり、しばらく礼拝に出て頂く他ない。一緒に聖書黙想をしてみる他ない。キリスト者達とじっくり出会って頂く他ない。それも一度や二度ではなく、半年とか、一年とか、時間を使って頂く他ない。
しかも、それで完全に分かるようになるともお約束はできません。人間同士であっても、その人のことが本当にわかったと言えるようになるまで、一年や二年では足りないのです。
まして、天地創造の神さまです。そんな簡単に分かり切ることなんてできません。分かったと思うのは冷静に考えれば、勘違いなのです。
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しかし、今日読んだ聖書に出て来たユダという人は、少なくとも一年、主イエスと寝食を共にしたにも関わらず、イエス・キリストから卒業できると、思い違いをしてしまいました。
初めは、このイエスという人の内に、自分が学ばなければならない事柄が詰まっていると思ったのです。自分が自分らしく生きるためには、このイエスというお方についていく以外はないと、思い定めたのです。
ところが、はっきりとどういう理由かとは書いてなく、おそらく、多少金銭が絡んだことと推測することができるだけですが、ユダはある時点で主イエスを見限ったのです。
それは、ある時点で、主イエスのことを知り尽くしたと思い込んでしまった。知り尽くした結果、期待外れだった。もう、この辺で潮時だと、主イエスを卒業しようとしたのです。
ある時点で、ここがイエスというの方の限界と、測り尽くしたのです。この方の価値を、自分なりに計算し尽くせたと思ったのです。
ユダが主イエスを計った金額は、銀貨30枚でありました。それほど大きな金額ではなかったと言います。
ユダというのは、しばしば計算高い人間のように思われがちです。壺を割って、主イエスの頭に香油を注ぐ女性をもったいないと非難したり、その計算高さから主を裏切ったのだと考えられることがあります。しかし、むしろ、この時は正しい計算ができなかったということでしかなかったのではないかと私は思います。
ユダが直ぐに後悔して、馬鹿なことをしたと言ったように、銀貨30枚で主イエスを売り渡したということは、むしろ、私たち人間という存在は、いつも忙しく損得の計算をしているようでいて、ある場面でそれが崩れてしまう。一時の衝動に突き動かされて愚かなことをしてしまうことがあるということを語っているのではないかと思います。銀貨30枚で裏切り者になるのは、割に合わないのです。
私たちは一時の衝動に負けて、価値あるものを、はした金のような小さな満足と交換に、手放してしまうことがあると思います。そして後から後悔する。もう取り返せないと。
ユダもそうであったのではないか?だから、後悔したのではないか?正気になって、正しく計算ができるようになって、「わたしは罪のない人を売り渡し、罪を犯しました。」自分の計算はくるっていたと。主イエスを計り尽くせてなんかいなかったと。だから、ユダの罪というのは、薄情で、計算高い種類の人だけに関係のあることではない。その真逆であるような人も、無関係ではないと思います。問題は、計算高さではなく、正しく計れないということです。
おそらく、私達も正しく損得を勘定できるならば、主イエスから離れて行くということはないのです。具体的には、日曜日に教会の礼拝に来ないなんて、計算はできないはずです。
私たちは礼拝に集いたくてたまらないのです。どうしても、祈祷会に参加したいのです。ご家族は、そのような皆さんの姿を見て、教会には、来たくて、来たくてたまらなくさせる何かがあるんだなと、どこかで思い始めているのではないでしょうか?コロナが本当に落ち着いたらちょっと行ってみようかなって。日曜毎に礼拝に集うというのは既に、立派な伝道なのです。
礼拝を慕い求める皆さんもそうお思いになるでしょうが、少なくとも、満たされない心を埋めるために、テレビやパチンコに時間やお金を費やすよりも、教会に来て、礼拝をした方が人間にとってずっと良いことなのです。
心に浮かぶあの人も、この人も、聖書や説教を神の言葉と信じることはできなくても、少なくとも、数千年の人間の知恵が詰まった聖書を説く説教を聴いて、教会で友達を作って過ごした方が、ずっと得だと、まして自分の家族や、信頼する教師が、熱心に教会に通っている姿を見ている者であるならば、落ち着いて考えれば、おわかりになることでしょう。
けれども、私たちは正しい計算ができない。思わず銀貨30枚でキリストを売ってしまう者です。それで後で、死ぬほど後悔する。そこに人間のもどかしさがあります。
しかも、私たち、今日ここに集う者は、そのような愚かさから自由なのか?ただ、礼拝に来ない家族や世の人々を批判していれば済むのか?
そうはいかないと思います。ユダは神に選ばれた12弟子なのです。
いや、ユダだけではありません。この時、主イエスを取り囲んでいた人々は、神の選びの民であったのです。
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このキリストの十字架の出来事は、預言者エレミヤを通して言われたことが実現したことであったと、9節に書いてあります。
「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
エレミヤの預言と言われていますが、正確には、銀貨30枚で値踏みしたという前半はゼカリヤ書の引用で、畑を買ったという後半が、エレミヤ書の引用です。
ゼカリヤ書が語る銀貨30枚で値踏みされた者、これはゼカリヤ書では、キリストではなく、主なる神であります。しかも、そこでは、裏切り者が、銀貨を受け取るのではありません。神が銀貨を受け取るのです。
神に銀貨を渡す者、それは神の民です。ゼカリヤ書において、神はその民においとまを申し出ます。散々あなたがたに仕えてきたが、あなたがたは私に従わない。それならば、もうあなたたちを導くのを辞めたい。ついては、今までの働きに従って、あなたがたが考える通りに、支払ってほしい。そう神が申し出ると、神の民は、銀貨30枚、たった30枚を今までの神の導きへの支払いとしたと言うのです。神はその恩知らずに憤り、彼らの支払った銀貨を陶器職人に投げ与えたという神の裁きの心を語る預言です。
ユダがキリストを銀貨30枚で売った行為とは、ユダ個人の罪ではない。このゼカリヤ書の預言の成就だ。神の民が、神を銀貨30枚で値踏みした行為であると聖書は語るのです。
しかも、ユダ自身に責任のあることでもあるのです。12弟子の一人であるユダ、古い神の民イスラエルから選びだされた新しい神の民、私たち教会の原型となる12弟子の一人のユダによる値踏みなのです。主イエスのこと、それだから主なる神様のことを正しく計れなかったのは、異邦人ではなく、新旧の神の選びの民だと言えます。
もちろん、未だ聖霊は降っていないのです。けれども、それだけに聖霊の助け、つまり神の助けを頂かない人間とは、いつでもこのように、取り返しのつかない計算違いをするものなのです。
ところが、聖書というのは、このような鋭くも暗い人間の洞察に終わるものではありません。
全く不思議なことで、どこにそんな必然性があるのかと思うのですが、ゼカリヤ書の預言と、エレミヤ書の預言が何の説明もなく、ぴったり結び合わされて、一つの神の言葉として語られるのです。
もう詳しくお話しする時間はありませんので、短く申します。
エレミヤ書において、畑を買ったのは、預言者エレミヤ自身です。神に命じられて畑を買ったのです。しかし、それは、裁きを告げるための象徴行為ではありませんでした。むしろ、裁きの後に、回復があるという神の言葉を告げるためでした。
エレミヤの預言の言葉も、基本的には、神の民の罪が限界に達し、神の民は、約束の土地から追い出されなければならないということです。
しかし、そのような差し迫った神の裁きによる約束の地からの追放を見据えているエレミヤが、なぜ、わざわざ間もなく外国の軍隊に占領されようとしている土地を購入するのか?
神は仰るのです。「私はあなたたちの滅びを喜ばない。裁きの後、私はあなたがたを連れ帰る。私の永遠の契約は、恵みを与えることだ」と。それで畑を買うのです。もう一度、やり直す機会が与えられるのだと。
そして、福音書記者マタイが、イエス・キリストの出来事において、この裁きと、回復が、成就したのだと語るのです。イエス・キリストの出来事において、裁きと、赦しが、同時に起こったと。
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キリストの十字架は、ゼカリヤの厳しい預言の成就として、人間の罪と神の怒りをきちんと指し示しながら、しかし、それがエレミヤの預言と一つに結び合わされ、しかも、ゼカリヤの預言と呼ばれず、エレミヤの預言、回復の知らせ、赦しの知らせ、福音と呼ばれて、キリストの十字架は、私たち人間の前に打ち立てられているのです。
そこに至って、はじめて計算は正しく終わるのです。
人間を待ち受ける運命は、真に愚かさと賢さの入り混じった人間らしいユダの二つの計算では終わらない。
神の恵みの計算、キリストの血によって、滅びこそふさわしい薄情者どもが、負債の肩代わりをされて、生きるようになるという計算が残されているのです。「あなたたちがどんな者であっても、わたしはあなたとあなたの家族を幸せにしたいんだ。」という神の絶対永遠の意志です。そしてそれが、神を銀貨30枚で値踏みするような人間である私たちのための最後の計算なのです。
そのようなゼカリヤ書と、エレミヤ書の融合がどうして起こるのか?合理的な理由はありません。不合理であるとすら言えます。しかし、その不合理は、ユダヤ人にも異邦人にも分け隔てなく注がれる神の愛、神の憐みと呼ばれるものです。
このような神をご紹介するのに、私たちは30秒では足りないのです。もちろん、それなりに長い今日一回の説教時間でも足りないのです。
一年、二年と教会へと通って頂く他ない。いいえ、洗礼を受けて20年、30年と経った私たちも味わい尽くしてはいない。知り尽くしてはいない。
私たちの誰もが、まだ神との出会いの途中であります。私は、このような底知れない恵みの神との出会いに、どうぞ、一生を費やしてください、共に費やしましょう、そういう価値あるものですと、皆さんに心から申し上げたいと思います。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま、
正しい計算ができずに、隣人と自分を浪費してしまう私たちです。
その過ちの底知れなさは、あなたの独り子を、絶望に引き入れるほどでした。
けれども、そのような私たちの底なしの罪を、真正面から引き受けてくださり、
滅びを御子において御自身に、命を私たちに、与えられました。
その不思議な計算によって、生かされている私たちであることを、
今一度、悟り、この一週間も新しく生き直すことができますように。
勘定の済んだ者として、あなたのために、それだから、隣人の祝福のために、
生きることを得させてください。
十字架とお甦りの主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
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