4月26日 マタイによる福音書26章14節~25節
今日もまた、礼拝堂と家庭に分かれ、私たちは一つの礼拝を神さまにお捧げ致します。しかも、このように場所の分かれた礼拝をお捧げすることによって、改めて、気付かされますのは、教会がキリストの体と呼ばれる時に、決して一つの個教会の塊、同じ会堂に集まる仲間、たとえば、金沢元町教会が、ただ一つで、キリストの体を形作っているわけではない。私たちが、会堂と家庭に分かれても、一つの金沢元町教会の礼拝を神さまにお捧げ致しますように、教会がキリストの体だと言われるのは、一つの教会の塊によって完結するものではなく、日本中、世界中に散らばっているキリスト者、諸教会を合わせて、一つキリストの体と呼ばれるものだということです。
そのような信仰に基づき、ある先輩牧師は、こんな時に、本当ならば、それぞれの教会がそれぞれにネット礼拝をするのではなくて、地区とか、教区レベルで、一つの礼拝を経験するということがあってもいいんじゃないか?本当は、そういうことをしてもいいはずだと仰っていました。
私も本当にそうだと思いました。それが、使徒信条が告白する「聖なる公同の教会」の告白が可能とする教会の交わりではないかと思いました。
聖なる公同の教会とは、時代を超えて、地域を越えて、言葉を越えて、民族を超えて、一つ一つの教会の塊を越えて、神様の目にキリストの体なる教会は、ただ一つなんだ。同じ日本基督教団に属する教会だけではありません。公同の教会の信仰、使徒信条をはじめとする古代の基本信条を告白する諸教会は、たとえ、教団教派が違っても、一つキリストの体と言って良い。神さまのまなざしにおいては、一つの教会なんだ、そう信じて良い。それが、公同の教会を信じるということです。
*
そのようなことを考える中で、私は最近、オーソドックス教会、正教会と呼ばれる教会が大切にしている祈りの言葉を聞き、私たちがなくしてしまっているかもしれない信仰の姿勢、祈りの言葉を教えられた気がいたしました。
それは、正教の信徒が毎日祈る朝の祈りの中の言葉です。衝撃的な祈りです。プロテスタントの人間である私がごく近くまで近づいても、恐ろしくて祈れない祈りの言葉を、正教会の人々は、朝毎の祈りとして、持っているのです。こういう祈りです。
「我が欲するも、我を救い給え。欲せざるもハリストス・救い主よ、急ぎ急げよ、我ほとんど滅びんとす」。
すごい祈りの言葉です。ハリストスというのは、我々の言葉で言えば、キリストです。「救い主、キリストよ、私が願おうが、願うまいが、救ってください。急いで来てください。もう滅びてしまいそうなのです。」こういう祈りです。「我が欲するも、欲せざるも、、、」
私たち、プロテスタントの人間は簡単に忘れていませんか?行いではない。信仰だと言う。でも、その信仰がいつの間にか、行いに代わる功徳になってしまっていないでしょうか?自分の信仰が大事だ、自分の意志が大事だ。キリストを救い主として欲さなければ駄目だ。求めなければ駄目だ。
でも、私たちの一つ体である公同の教会の決して小さくない部分では、毎朝、毎朝、「私が願おうが、願うまいが、急いできて救ってください」と、主イエスに向かって祈っている人たちがいるんです。
私たちが願うことに疲れて、私たちが信じることに躓いて、しかし、そういう私たちに代わって、私たちの体の一部として、私たちの願いや求めを超えて、キリストは、私たちをお救い下さる方だという信仰を、単なる個人の信仰ではなく、教会の信仰として祈り、毎日毎日告白している人がいるのです。これは、有難いことだと思います。
**
私は、このような祈りの言葉の中にも教会の本質を見る思いがいたします。祈りの言葉が違う者、信仰の形が違う者、神を呼ぶ言葉すら違う者を見て、なぜ、同じ教会と言えるのか?私たちは、同じルーテル教会の礼拝の形を見たって、とてもじゃないけれども同じ教会とは思えないと言ってしまうに違いない。狭く言えば、改革長老教会以外の教会の信仰に対して、違和感を覚えることもあるでしょう。けれども、それらの群れを数えながら、私たちは「聖なる公同の教会」を信ずと、告白しているのです。
なぜそんなことが言えるかと言えば、どんな違いがあるとしても、その教会を建設されたお方は、人間ではなくて、ただお一人の神だと信じるからです。教会を立てるのは、突き詰めて言えば、人間の思いではなくて、人間を用いてご自分の意志を実現される主なる神様であることを信じるからです。
教会というのは、元の意味は、「呼び出されたもの」という意味です。自発的に集まって来たのではありません。召し出されたんです。欲するも、欲せざるも、突き詰めて言えば、関係ないのです。神様が教会の主催者であり、召喚者なのです。私たちの救いが100パーセント恵み、100パーセント恩寵であるならば、正教の祈りのように、欲するとか、欲さないとか、私たち人間の意思が入り込む隙間なんてありません。ただ主なる神が望まれ、私たちは、プレゼントとして救いを頂く。
だから、教会というのも、見えている部分が教会の全容だとは、言えません。私たちがたとえば改革長老派、メソジスト、カトリック、正教徒と、ここからここまでが教会と一般的に認めているものが、教会の全体像とは限りません。
公同の教会の信仰には必ず、「見える教会」と「見えざる教会」という言い方が、付きまとっています。つまり、まだ私たちの目には見えていない部分も、神様は一つ教会と見ている可能性があるんです。
私たちがこの人は教会なんかじゃないと思っているその人が、神さまの目には、教会の一部であり、見えざる教会として、今も、神さまに数え挙げられている可能性があるんです。私たちの目には、教会の枠からはみ出してしまったように見えるし、そう判断せざるを得ないかもしれないけれど、あるいは、まだ教会の一部と数えるには要件を満たしていないと思えるかもしれないけれど、神の見えざる教会の中には、数え上げられているかもしれない。そういう人がいる。そういう群れがある。それを見分けることは今は誰にもできません。私たちの見る教会の標識は、揺るがせにできないものですから、将来を見通すことのできない人間である私たちには、現在、教会の基本的な信仰から逸脱しているならば、その人を、その群れを教会の一部と言うことは決してできません。
けれども、だからと言って、今私たちが見ているものが全てではない。そこに見えざる教会があるかもしれないと、神様の隠されたまなざしの余地を、私たちが奪うことは許されないことだと思うのです。
***
今日、共にお聞きした聖書の御言葉はまさに、その神のまなざしの不思議に、満ちていると思うのです。すなわち、裏切り者は、弟子であったのです。主イエスを、銀貨30枚という安値で十字架へと売り飛ばしたのは、12弟子の一人のユダであったのです。
ある説教者はだいたいこんな風に言います。なぜ、ここで「十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。」と記したのか?もっと正確に書いてもらいたいと思わないか?我々であれば、主イエスを売るような人間は、最早、弟子でも何でもない。弟子であることをもう止めてしまっている。だから、ここは正確に、「かつて弟子であったユダ」とでも書いてもらいたいところだ。なぜ、福音書はそういう風にはっきりと書いてくれないのかと我々は、思うだろうと。
しかし、福音書はユダのことを度々、「十二弟子の一人であった」という仕方で記すのです。福音書記者は、ユダは、かつては弟子であったけれども、主イエスを裏切って弟子で無くなったのではなく、たくさんたくさんいた主の弟子の内、多くの者が、世の憎しみや、蔑みに直面して主のもとから去っていく中で、最後の最後まで残った弟子たちの中核、最後まで主イエスに対する忠誠を誓って生きようとしていた者たちの中から決定的な裏切りが起こったと福音書は語りたいのです。だから、このことを重んじる人は、12人の弟子たちは後に12使徒と呼ばれて教会の中核になる人たちであるから、教会の中から裏切りが生まれたということだと言います。教会の外に出て行ってしまった者ではなく、なお教会の中にいるとしか言いようのない者が、主イエスを十字架へと売り渡したのだ。教会の歴史の始めに、既に、こういうことが起きていたと言うのです。
しかし、なぜこのような裏切り者を「十二人の一人」と福音書が呼び続けるかと言えば、主イエスが、このような者を弟子の一人として招き続けておられたからだとある説教者は言います。
これは、私もその通りだと思います。このユダの裏切りの直後に、私たちの聖餐の祝いの原型となる主の晩餐、最後の晩餐が祝われています。その箇所は次週に取りあげる個所ですが、裏切った後の、過ぎ越しの食卓にも、主が聖餐を制定された時にも、ユダは十二人の一人として、その食卓に就き続けているのです。この過ぎ越しの祝いの食卓に関しては、今年の2月に発売された説教者のための聖書黙想の雑誌の特別増刊号に、私たちの教会のみずき牧師が書いた文章の中で、私も深く教えられました。
そこでみずき牧師はヨハネによる福音書の最後の晩餐、その席では、聖餐の代わりに、洗足、主が弟子の足をお洗いになるという出来事について書いたのですが、色々な研究書を繙きながら、足を洗う行為は、洗礼に結び付く行為であると結論付けていました。そして、また、ユダの足も主によって洗われたのだと言うんです。事実として、ユダの足も洗われたのだと指摘するのです。これは、大事な指摘だと思います。最後の晩餐も同じです。洗礼と並ぶ教会の命である聖餐制定の場である過ぎ越しの食卓に、事実として、ユダが与っていたのです。
このことは何よりも、私たち教会の恥です。私たちは決して、胸を張って主イエスを信じる、死んでも着き従うと言い張ることなんかできない情けない人間なんだということを、よく弁えるようにと、福音書記者が自分への戒しめとして書いたことだと思います。恥を知るためにこそ書かれているのです。自分の掘り出された穴を見ろということです。しかし、同時に、神の恵みは本当に恵みなんだということを告げているとも思います。
私たち主の弟子は自分がユダよりもマシだなんて、少しも思うことなんかできません。主イエスが「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と仰ったとき、「自分は違う」と安心していた者は一人もいませんでした。「それはお前だ」とユダを指せる者は誰もいなかったのです。皆が動揺し、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わるに言う他なかったのです。
ペトロも、ヤコブも、ヨハネもそう言わなければならなかったとしたら、誰が、「自分は違う」と安心することができるでしょうか?そういう安心を求める信仰は、一般的な宗教の信仰の成長と言えるかもしれませんが、少なくとも、聖書の語る信仰、私たち教会の信仰とは関係がありません。
つまり、私たちの信仰というものを、私たちの意思の力と結びついている限りは、それはいつだって明日にはなくなってしまうかもしれないものなのです。私たちの意思を打ち砕く大きな苦難や、長い困難が続けば、そのうち無くなってしまうものなのです。
けれども、そのような危うい私たちの信仰が無くならないのは、主イエスがご自分の元へと私たちを招いてくださるからです。呼び出してくださるからです。召し続けてくださるからです。
私たちは誰一人ユダと変わらない貧しい信仰者です。けれども、今朝、そのような私たちが礼拝者として、神を拝んでいるとしたら、そこにはキリストの働きがあるのです。恵みがあるのです。恩寵があるのです。滅びんとする私たちを、急いで救いに来られた主イエス・キリストの御業が今、ここにあり、私たちを礼拝者としているのです。
その意味では、十二人の一人、すなわち、弟子の中の弟子、信仰者の中の信仰者と目されながら、主イエスをたった30枚の銀貨で売り飛ばしてしまったユダの裏切りは、もしも、神さまの恵みがないならば、誰一人例外なく、どんな者であっても、信仰を全うすることはできないという人間の罪に落ちていく勢いの恐ろしさを物語っている実例であると言ってよいと思います。主が守って下さらないならば、主が私たちをただ私たちの意思にお委ねになるならば、私たちの信仰は、裏切りへと変質していく他ないのです。
そのことを知る者の正直な祈りは、当然、自分の意志を超えたところに助けを求めざるを得ない。はじめの一歩だけでなく、日ごとの歩みにおいて、朝ごとに、「私が願おうが、願うまいが、急いできて救ってください」と祈るのです。
****
しかも、このような祈りが身勝手な祈りではないのです。無責任なわがままな祈りではないのです。そして一番大切なことですが、このような朝ごとに祈る必要のある祈りが、毎日祈らなければならぬほど、私たちは貧しい者であり続けながら、実現するかしないかわからないというのではない。いつ恵みが止み、信仰から落ちていくかわからない不安な祈りではないのは、キリストの体が裂かれ、血が流された十字架、私たちの新しい命となった十字架が立ったからです。汲めども尽きない恵みの水、渇きを癒す信仰の水が、キリストの十字架から今もなお、こんこんと湧き続け、溢れ続けているから、わがままな祈りでもなければ、不安な祈りでもないのです。
すなわち、神の永遠の御意志、神の力の全体、すなわち、御子の存在の全てをかけて、打ち立てられた我々のための十字架なのです。この十字架は、私たちの代わりに主イエスが不信仰の罰を身に受けたものだと言われます。どんなに神に従おうとしても、最後の最後まで従いきれない私たちのために、主イエスが引き受けてくださった裁きとしての十字架であります。
そうであるならば、本当は、ユダのことも単純に、恵みが注がれなかった実例と理解するだけでは足りないかもしれません。「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉は、単に御自分を裏切るユダへの呪いの言葉ではない。意地悪な言葉ではない。ユダのために、ユダ自身も理解できないほどの罪の大きさを、ユダのために、ユダに代わって嘆かれる主イエスの嘆きではなかったかと思うのです。
そして、考えてみれば、ユダだけではありません。自分では背負いきれない罪を、その重さを理解しないままに、平気な顔で犯し続けている私たち全ての人間を、神が憐れに思われたところに、主の十字架が立ったということに、思い至るのです。
主イエスが、この私たちのためにも、私たちが怖くて、自分の本当の姿を見れなくても、主イエスだけは、真っ直ぐに見ていてくださり、「辛いね、苦しいね、不幸だね」と、私たちの悲しみの深みを、一番深いところから受け止めてくださる。ユダへの言葉は、呪いなんかじゃない。その究極の深みでの主の共感の言葉だと思うのです。
しかも、このお方は傍観者として、私たちの苦しみ、悲しみ、不幸を眺めておられるのではなく、あの十字架でその全てを私たちから取りあげ、自分の命をもって贖い、ケリをつけてしまわれたのです。
ある神学者は、イスカリオテのユダについて書きながら、最後に、ペトロの第一の手紙の3:18-19を引用します。そこにはこうあります。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」
この御言葉から悪魔の虜になり、後悔の中に死んでいった者たちの所まで、キリストが下りて行かれたのは確かなことです。その中には、ノアの箱舟の時代の人々だけではなく、ユダもいるだろうとこの神学者は、言いたいのだろうと思います。
別にユダ一人の問題ではないのです。そのような主イエスでないならば、誰一人として、教会に来ることができない私たちなのです。陰府にまで降られ、天に引き上げられた主イエスのゆえに、この大きく広く、広げられた救いの網に、捕らえられた私たちなのです。それ以外ではありません。
天より地に降り、それでは済まない。十字架まで、陰府にまで、私たちを追いかけてきてくださるキリストのゆえに、どんなに不信仰に傾きやすくとも、私たちが永遠に信仰を失ったままだということは、考えられない事なのです。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたは全ての人を救うために、御子を世に降し、人とされました。救い主、イエスさま、私たちを恵みにより救ってください。あなたが私たちの行いを見て、救うと言うならば、それは、恵みでも賜物でもありません。慈しみ深く、限りない憐みのキリスト・イエス様、あなたはわたしを信じる者は永遠の命に生きると仰いました。信じる者は、望みを失っている者をも救ってくださるのならば、私たちは信じます。どうぞ、お救い下さい。私たちが願っても願わなくても、お救い下さい。主イエスよ、急いできてください。そうでなければ、私たちは滅びてしまいます。あなたはわたしたちが母の胎にいる時から私の神さまです。造り主よ、私たちのうちに、あなたへの愛を作り出し、かつて罪を愛していたように、今は、命の続く限り、あなたを深く愛する者としてください。今日も明日も、永遠に私たちの主でいてくださるイエス・キリストのお名前によって祈ります。
コメント