私たちの病を担う方

私がしばしば引用しますカール・バルトという神学者は、20世紀最大の神学者と呼ばれることがあります。

彼が最大の神学者と呼ばれる理由の一つは、1万ページに及んで、なお未完に終わった大きな本を書いたことによると思います。

それだけ大きな仕事をした学者ですから、名前はよく知られているけれども、実際、読んだことがないということが、教会員だけでなく、神学生にも牧師にもあります。なんだか、難しそうでとっつきにくいというイメージがあります。

ところが、晩年のバルトの説教を読んでみると、ものすごく力強くて、励まされます。翻訳だから、どうしても言葉が堅くなってしまうところはありますが、決して難しくはありません。

彼は、あるジャーナリストから、あなたが結局言いたかったことは何ですか?と尋ねられた時、「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ♪」と子どもの賛美歌を口ずさんで見せたと言います。

しかも、実は、バルトという人のこのような単純さは、晩年になって初めて生まれたものではありません。

このような率直な信仰はどこから来るものなのか?井上良雄という人は、若いバルトが親友トゥルナイゼンという人の紹介で出会ったブルームハルトという人物との出会いに起因するものだと言います。

バルトという人は、生涯、このブルームハルトの影響を受けた。ブルームハルトから、神は生ける御方だという単純な信仰を学び続けた。だから、バルトの仕事を理解すようとすれば、このブルームハルトを知る必要があると考える人も多いのです。

ブルームハルト、説教でも一度だけ名前を出したことのある人です。正確に言うと、ブルームハルトという人は一人ではなく、父と子の二人のブルームハルトがおります。しかも、この教会を設立した長尾八ノ門と巻親子を切り離して理解することができないように、ブルームハルト親子も切り離して理解することができず、特別な響きをキリスト教会に響かせている存在だと思います。

父ブルームハルトは19世紀の人、子ブルームハルトは、19世紀から20世紀の初めに生きた人、日本で言えば、それこそ長尾親子に重なるような明治から大正の時代の人です。

20世紀最大の神学者バルトに決定的な影響を与えた人達であると言われながら、二人とも、優れた神学者というのではありません。それどころか、全く学者と言えるような者ではありませんでした。

二人とも基本的には、生涯、田舎の牧師であった人だと言えます。しかし、その二人が、今も忘れられない存在として、教会に記憶され続けています。

その全ては、父ブルームハルトが、ドイツのメットリンゲンという村の牧師として赴任したことから始まりました。

この村は、500名あまりの小さな村でした。しかも、ブルームハルトの説教は、前の牧師と比べて、単純素朴過ぎて、その働きは大きな関心を惹くものではなかったと言います。

しかし、彼がその村に来て数年後、ある出来事が起こりました。

住人の一人であるゴットリービンという若い女性の家庭で奇妙なことが起きたのです。彼女が食卓で祈っていると、突然発作に襲われ、床に倒れてしまう。すると、同時に、物を叩いたり、何かを引きずる音が家中に鳴り響き始める。その物音は、家族の者にも、二階に間借りしていた別の家族たちにも聞こえる。断続的に聞こえる時もあれば、一日中、聞こえ続けることもあったと言います。

彼女の家の奇妙な現象はどんどん激しさを増していき、痙攣の症状の悪化と共に、奇怪な物音は、近隣にも聞こえるようになっていきました。

長い話を短くすれば、ブルームハルトは困惑しながら、この出来事と向かい合いました。まるで、聖書の世界が、現在化したように感じました。

ブルームハルトはこの病気の背後に、聖書が「闇の力」と呼ぶもの、悪霊の存在を感じたと言います。彼は新約聖書の物語を思い出しながら、ここでは悪の力に取りつかれた状態が問題であると理解し、そうであるならば、自分ではなく、主イエスが戦ってくださるはずだと信じて、この戦いを開始しました。

彼は、医師の助けを借りながら、牧師として、この娘とその家族に神の言葉を語り続けました。彼が本腰を入れて、問題に取り組もうとすると、不思議な現象は物音に留まらず、痙攣したゴットリービンの口から、獣のような吠え声を聞くようになりました。

しかし、その二年に渡る戦いに、突然幕が引かれました。1843年のクリスマスの期間、その奇怪な現象が、ゴットリービンだけでなく、その姉や、兄にも飛び火していったときのことです。

状態がますます悪化の一途をたどっていた12月27日から28日にかけての真夜中、それまでで最大の痙攣がゴットリービンの姉を襲いました。しかし、その最も激しい痙攣の内に、その娘の口から、「イエスは勝利者だ、イエスは勝利者だ」という言葉が告げられると、痙攣は断続的になり、明け方頃にはとうとう止み、それ以来、その家には二度と、不思議な現象は起こらなくなったと言います。

ブルームハルトは、自分が巻き込まれたその出来事を回想して後に語っています。「それは、暗黒という人格的存在に対しての人格的な戦いであった。なぜかと言えば、主イエスの御名における私か、それとも活ける神に敵対する昔ながらの暗黒という人格的存在か―それを知るために、私たちは共に、一年九か月戦ったのである。私は、主イエスにより頼んで、勇気を持ち続けた。そして、過酷な事態の中を通過しなければならなかったけれども―そしてその中に私は巻き込まれたけれども、『信仰の創始者また完成者であるイエス』(ヘブライ12:2)への思いが、私を力強く支えてくれた。そして最後には、暗黒も、『イエスは勝利者だ』と叫び、私の戦いは終わった」。

バルトは、大学の講義の中で、このブルームハルト親子に言及しました。これは異例のことで、バルト自身が、ブルームハルトは神学者と呼べるような存在ではないと断りを入れます。けれども、彼とその出来事によって、我々に突き付けられている問いがあると言います。

つまり、キリスト教会の戦いとは、多くの人が考えるように、主イエスと、悔い改めない人間の対決ではなくて、主イエスと、人間を立ち上がれないように抑えつけている暗黒の現実の力との戦いだということを、ブルームハルトの出来事は明らかにしたのだという趣旨のことを語ります。

教会の戦いは、血肉に対するもの、人間に対するものではなく、人間の背後にあって、人間を抑えつけている力に対するものだというのです。

説教の導入としては、少し長すぎるような話をしました。しかし、私たちが、今日の聖書個所からきちんと聞くべき、主の言葉は、もう聞かれ始めていると思います。

マタイによる福音書8:14以下の記述は、病と悪霊を追い出して頂き、主イエスに従うようになった者たちの姿を描いています。

ある説教者は、ここには主イエスの一日の様子が描かれているのだと言います。主イエスの一日を、第5章の描き始め、その終わりを、今日の個所までで描いているのです。しかし、おそらく、実際にあったある一日を切り取って描き出したというよりも、主イエスの典型的な日常を描いて見せたという方が良いだろうと言われます。主イエスは朝語り、昼、癒し、夕方、帰途に着かれるという毎日を送られた。

けれども、主が弟子と共に戻った宿、ペトロの家においても、病が人間を捕らえているのです。その病人の所に主イエスというお方が弟子たちと共に入って来られるのです。主イエスはその床にいる病人、ペトロのしゅうとめをご覧になります。熱病のため、床に伏し、起き上がることができません。

しかし、主イエスがその病人の手をお取りになると、熱は去り、その人は主イエスをもてなすのです。

ここにある熱は「去り」という表現は、注目すべき言葉であると思います。前の翻訳では、「熱は引いて」とありました。その方が自然な日本語であったと思います。けれども、新共同訳では、原文に即し、「去る」と訳します。人が立ち去るという時に用いるような言葉です。

まるで病を人格的力と見ています。その力が人の両肩を抑えつけて、立ち上がれないようにしているから床についていたと語るかのようです。

ところが、主イエスが手を取られると、その人間を寝床に抑えつけていた力は立ち去ります。ペトロのしゅうとめは起き上がって主イエスをもてなすことができるようになるのです。まるで憑き物が落ちたようにすっかり良くなったということでしょう。

さて、ここで熱病が去って後、この女性が、主イエスをもてなすことができたという記述は、深い含蓄があるように思えます。

「もてなす」という言葉は、ただ世話をすることだけを意味する言葉ではありません。「仕える」と、広く訳すことのできる言葉です。

多くの人は、癒されたこの日、ペトロのしゅうとめは、ただ食事の世話をしたのではなく、これから後、主イエスの弟子となったのだろうと言います。

そうであれば、この人に起きたことは、ただ肉体が癒されたというのではないのです。体だけでなく、その心、その魂が癒されている。その全人格が癒されたとのだと言うことができます。癒され、主に従う者になったのです。

主イエスが、私が来たのは正しい人のためではなく、罪人を招くため、医者を必要とするのは、健康な者ではなく、病人のためと仰ったとき、数ある病が指し示している本当の人間の病は、実は、神に従うことのできない病だと見ています。

たとえば、預言者エレミヤが、「人の心は、とらえ難く病んでいる」(エレミヤ17:9)と言う時、その、人の病んでいる心とは、神を見捨て、それゆえ神に見捨てられ、神を見失った心であると語ったのと同じです。

だから、癒された婦人が、起き上がって主をもてなしたということは、示唆に富んだことです。ただ肉体が癒されたのではなく、もっと深い癒し、主にお従い出来ない人間の心が癒されているのだと読むことができます。癒された者は従う者になる。むしろ、従えるように、神に従うことを阻む力が取り除かれるのです。そういう主イエスの作りだす癒しの典型例として紹介されている。

今日、司式者に17節まで読んで頂きましたが、18節まで読んで頂いても、良かったかなという思いがしています。

18節は、私たちの新共同訳聖書では、次の段落の括りに入れられています。主イエスが、群衆に取り囲まれた時に、主が弟子たちに向かって、向こう岸に行くように命じられたとなっています。しかし、実は、このご命令は、原文を見ると、必ずしも、弟子に向かってなされたとだけ考えられるものではありません。

そこには弟子という言葉は一言も書かれていません。誰を名指しているのかはわかりません。主が御自分を取り囲んでいるその群衆に向かって、向こう岸に渡れとお命じになっているとも取れます。

そう考えますと、向こう岸に渡れと主イエスに命じられている群衆とは、段落を区切らずに、直前で悪霊を追い出して頂いた、癒された人々であると読むこともできます。岩波文庫から出ている翻訳ではそちらを採用します。

16-18節を一つの段落と見做し、18節では、主が癒された群衆に向かって、「そしてイエスは、自分のまわりの群衆を見て、向こう岸に行くように命じられた」とされています。

私は、癒された婦人が起き上がり、主にお仕えしたように、悪霊を追い出され、癒された人々が、向こう岸へと主イエスに派遣されていく姿が、ここに描かれているのだと読むことは、ふさわしいことではないかと思います。

それというのも、この二つ目の出来事では、率直に悪霊の追い出しが問題となっているからです。人間を抑えつけている神に反する人格的な力です。

神に反対するということは、どういうことかと言うと、旧約ヨブ記などの典型的な箇所を読めば、わかります。神を拝ませず、神を呪わせようとするのです。それが悪魔の力として描かれています。

だから、この二つの癒しの物語は、キリストが人間の内に潜む神に敵対する力を追い出され、癒された人間が、神に仕えるようになったふたつの典型例を紹介するものと読むことができると思います。

そして、この二つの報告によれば、そのような神への服従は、人間が自分で獲得するものではなく、与えて頂くものです。

私たちは、信仰というのは自分で持つもの、神への服従は自分の努力で生み出すものだと思っている節があります。だから、信仰が浅いとか、信仰が深いとかそういうことを問題とします。

私の前任地である鎌倉雪ノ下教会でかつて牧師であった加藤常昭先生の奥様のさゆり先生もまた、教会の教師でしたが、教会では求道者会を担当されていました。

その求道者会でこんなことがあったと聞いたことがあります。何年も教会に通いながら、なかなか洗礼を受けることができないでいた男性がいました。その方はいつかは洗礼を受けたいという願いを持ちながらも、なかなか信仰を持てないでいた。自分の気持ちに正直でありたいから洗礼は受けられないと求道者会で話された。さゆり先生は、その話を聞いて目を丸くして驚いたように仰ったそうです。

「信仰を持ちたいですって?私でも、無理よ。信仰は、持つんじゃなくて、与えられるものよ。」

信仰は自分では持てない、神が与えてくださる。

ペトロのしゅうとめの癒しにおいて興味深いことは、主イエスに手を取っていただき、起き上がらせて頂いたというその「起き上がる」という言葉は、主イエスのお甦り、主のご復活を表す言葉と同じ言葉だということです。

つまり、ペトロのしゅうとめの癒しは、死者からの復活と比べることができる出来事だと福音書記者マタイが理解しているということだと思います。

一人の人が、主イエスを信じ、主イエスにお従いするということは、死者が復活したということ、それは、肉体の病が癒されるという奇跡以上の奇跡です。

そして、病の癒しが当然、人間の力ではなく、主イエスの力によって起こるように、主イエスへの服従、信仰もまた、主イエスの力によって、与えられるものです。

それだから、ここで、ブルームハルトの出来事について語るバルトの評価が思い起こされます。

キリスト教会の戦いとは、主イエスと、悔い改めない人間の心の対決ではなくて、主イエス御自身と、人間を立ち上がれないように抑えつけている暗黒の力との戦いであるということです。

今日の聖書個所で一番大切であると言える16節の預言の引用の言葉に触れずにいましたが、今ここで読んでみることが適切だと思います。

「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現する為であった。『彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。』」

イザヤ書第53章に記された古代のキリスト者の特別に愛した聖書の言葉です。

苦難の僕と呼ばれる人物について語られた言葉です。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」それは主イエスのことだとマタイは語ります。

主イエスこそが、数百年前にイザヤ書に記された私たちの患いと病を取り去ってくださる御方だと万感の思いを込めて言うのです。けれども、そのお方はどのように私たちの患いを負い、病を担ってくださるのか?

マタイが最後まで引用しなかったこのイザヤ書の言葉は次のように続きます。「わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。/彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

まるで主イエスの十字架を見たかのような人の言葉です。苦難の僕の苦しみこそ、私たちを癒す力の源だと語ります。主イエスの十字架が私たちを神の子とする、私たちの救いであるという信仰にぴったりと重なるものです。

私たちの主であるイエス・キリストは、その十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望し叫びながら、私たちの救いを達成してくださいました。苦難の中の苦難を背負ってくださいました。

宗教改革者カルヴァンという人は、キリストは、その叫びをあげながら、そこで地獄に降られたのだという趣旨のことまで語りました。

しかし、主イエスのそのような苦しみこそが、人間の解放と癒しの源泉であると最初のキリスト者たちは理解しました。

弟子となったペトロのしゅうとめもまた、最初の教会において、十字架のキリストの苦しみが自分の病を癒したのだと、その力がわたしを起き上がらせ、仕える者としたと力強く証したでしょう。教会の伝道は、そのような病を癒して頂いた者、悪霊を追い出して頂いた者たちの証によっても、力強く進展していったことと思います。ゴットリービンの癒しの出来事が知れ渡ると、ドイツだけでなく、ヨーロッパ各地から、ブルームハルトと癒された娘と会おうと、人々がメットリンゲンを訪れたというのと同じだと思います。

けれども、その癒された婦人もまた、再び病を得、やがて、死ななければならない日が来たと思います。その時、彼女は、キリストの力は、病と死、罪の力、それらの元締めである悪魔の力には、最終的には勝てなかったと絶望しなければならなかったでしょうか?

そうではなかったと思います。たとえば、自分の癒しを証しする時にいつも共に語られたイザヤ書第53章を口ずさみながら、キリストの苦しみのお姿を思い起こしたと思います。そして、ペトロのしゅうとめは、安心して死んでいったのではないかと思うのです。

陰府に降られ、また、天に引き上げられたと教会が告白するキリストは、天に昇ろうとも、地獄に身を横たえようとも、そこにおられ、私たちのことを祝福しておられる神だからです。

私たちに与えられている信仰とは、そのような信仰です。ここに集う私たちの中には、肉体や心に重荷を抱えながら、それが癒された者もいるでしょう。それが取り去られなかったという者もいるでしょう。けれども、等しくキリストを主とし、神を仰ぐ者とされています。等しく、主イエスに手を取られ、起き上がらせていただき、キリストを希望とさせていただいているのです。

とても印象深く思い出すのは、かつて私が共に教会生活を送った全盲の神学生が、礼拝説教を託された時、ルカによる福音書18:35以下のエリコという町の近くで主イエスが出会った盲人の癒しの記事を彼が選んだということです。

目を癒され、主イエスに従ったという男の物語を、目の見えないままの彼が選び説教しました。自分も同じなんだ。自分も主イエスに立ち上がらせていただいたんだ。自分も主イエスに従うんだ。

苦難の僕、十字架のキリストが、病と死をもって私たちを脅そうとする悪魔の業を骨抜きにしてしまわれたのです。病を得、やがては死んでいく私たちがなお、主イエスに従い、神を崇める者とされているのです。そこに人間の本当の健やかさが実現しているのです。

私たちは、そのようなキリストの弟子として、ここから遣わされていきます。主イエスは、ペトロと共にその家に行かれましたが、それは、今日私たちの身に起こることでもあります。私たちは、この礼拝を終え、キリストの元を去り、一人で家路に就くのではありません。

この福音書において、キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と仰います。だから、私たちが帰るその所に、キリストがご一緒してくださいます。そして私たちが赴くその所で、キリストが床に伏しているような私たちの家族と友人と私たちを通して出会ってくださるのです。16節には、主は「病人を皆癒された」とあります。この「皆」から、自分や自分の隣人を除外する謂れはありません。主は、必ず、その手を取り、甦らせてくださるのです。そこに信仰が生まれます。死に打ち勝つ命が与えられます。

それが伝道です。そのように今週も私たちは向こう岸に遣わされていきます。そこで、キリストの力が勝つのです。

コメント

この記事へのコメントはありません。