「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」という言葉を聴いたことがあるでしょうか?
この言葉は、私の少年時代、父の書棚から取り出し読んだ作家の一人である開高健が、飲み屋でサインを頼まれると好んで色紙に書いた言葉だとされます。それだから、ネットでも開高の言葉として紹介されることがあります。あるいは、開高が、ルーマニアの作家、ゲオルグという人の小説から引用したものだと説明する人もいます。
けれども、キリスト教会に通う者は、この言葉の出所がどこであるかを聴いたことがあると思います。これはどの書物に記されているかは判然としないけれども宗教改革者ルターが語った言葉であると教会の説教壇で、時折、引用され聴いたことがあるのではないかと思います。
しかし、ある人が、このルターの言葉とされる格言を丹念に調べました。2015年に「ルターのりんごの木」というタイトルで、日本語にも訳され、出版されました。
その詳細な探求によると、この言葉は、ルターのものである可能性はないようです。そもそも、この言葉が頻繁に人の口に上るようになったのは、第二次大戦後、20世紀の半ばだと言われます。よく人に知られるようになって、まだ、100年と経っていない言葉だと言います。その意味で、ルターの可能性はほとんどない。
けれどもなお、一度聴いたら忘れられない心に響く印象深い言葉であると思います。また、聖書にも一致した言葉であると私は思っています。
たとえば、テサロニケという町の教会には、まもなく、世の終わりが来ると確信した結果、働くことを止めてしまった人々がいたようです。その人たちは、毎日、屋根の上で、天からキリストが降って来られるのを待つような過ごした方をしていたようです。しかし、使徒パウロは誰よりも、終末の到来を熱望しながらも、そのような過ごし方を良しとしませんでした。そのような者たちに向かって、使徒パウロは、はっきりと「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」(Ⅱテサ3:12)と忠告を与えました。
子どものころ、「明日世界が終わるとしたら、何をする?」なんて、質問を友達同士でふざけてした覚えがありますが、なんて答えたでしょうか?自分も含めて、悔いの残らないように、今まで、差し控えていた心に留まる何かをするとだいたいの友人は、答えたのではないかと思います。
その点、世の終わりが間近に迫ったものと信じたテサロニケ教会の人々が、中には、働くことを辞めてしまった人もいたというのも、その気持ちはよくわかると思います。
それは何も、世界の終末なんてことを考えなくても、良いかもしれません。私という個人の命の終わり、その意味での終末を間近に知った時、自分がどういう行動に出るかと考えてみるだけでよくわかることではないかと思います。
りんごの苗木を植えるという言葉が、誰の言葉であっても印象深いのは、この言葉は、終末に直面した時も、いたって普通のことを普通に続けると語っているようだからです。
こういう心境に生きられるというのは、一体どういうことなのか?なぜ、明日世界が終わるとわかっているのに、伝えるべき言葉をまだ伝えていない誰かに会いに行こうとしないのか?勇気がなくて手を付けずに置いた成すべきことを成しに行かないのか?
そう問うてみますと、今、与えられている一日、一日を、毎日、本当に悔いなく生きているような人ならば、こういう言葉を語ることができるのではないかと私たちは考えるのだと思います。今日を精いっぱい生きている。だから、あれもしていない、これもしていないという後悔がない。
明治時代のキリスト者内村鑑三は、「一日一生」という書物を書き、「一日は貴い一生である。これを空費してはならない。」と言いました。一日一日を、最後の日として生きるということだと思います。そこでは、当然、一日の時間を浪費したり、無意味に過ごすというわけにはいきません。一生懸命に生きる。そこに、「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」と語り得る後悔のない生き方が生まれるのではないかと思います。
そのような悔いのない人生を送るために、聖書の言葉を聴きたいという願いを持って、教会の門をくぐったのだという人は日本の教会では少なくないと思います。
私も思い返してみれば、自分の生き方に自信が無くなってしまった時、若くて何者でもない自分の思いに従って生きるのではなくて、強固な地盤の上に自分の人生を築きたいと考え、考えたというよりも、もう自分には頼れないと思って、聖書の教えに頼ろうと思った自分であったことを思い出します。
十八、九の自分の考えよりも、何千年も残った聖書と教会の確かな地盤の上に自分の人生を築いたら、心は揺るがないだろうと期待しました。
日本はキリスト教国ではありませんから、お家の宗教がキリスト教ですという人ばかりが教会にいるわけではありません。生まれた時は、教会には縁もゆかりもない人もたくさんいます。そういう中で、教会の門をくぐる人の中には、私のような思いで教会に通うようになったという人も、少なくないと思います。
たとえば、そういう思いをもって、教会に通うようになった人にとって山上の説教と呼ばれるマタイによる福音書第5-8章のイエス・キリストのさまざまな言葉は、聴き応えのある言葉の数々ではないかと思います。
主イエスは、山上の説教の半ばで、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と仰いました。これは、厳しい言葉ですが、言い換えれば、主イエスの教えは、他と比べようもない最高の教えだということだとも聞けます。神が喜ばれる人間の本当の生き方です。
この主イエスの数々の言葉に聞けば良い。そこに真の人生を築くことができると言うことができます。
今日の聖書の言葉は、それゆえ、少しも難しいところのない言葉です。私たちが主イエスの言葉に従って生きる時に、真の人生を築くことができると主御自身が宣言してくださる言葉です。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台にしていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
私が以前仕えていた教会で、幼児教育施設の建物の建て替え工事がありました。建築を開始する前に、建物がこれまでの間どれくらい傾いたかを診断するために、古い建物に専門家が入り調べました。その教会は讃美歌Ⅱ-189に歌われている「丘の上の教会」のモデルと一つとなった教会でしたから、丘の上に会堂をはじめとした建物がありましたので、特に、傾く危険性がありました。
実際に調べてみると、確かに傾いている。ビー玉を床に置くと、なるほど、転がってしまう。専門の装置を使ってどれくらい下に掘り下げれば固い地盤が出て来るか調べると何十メートルも下に岩盤があるということがわかりました。その為工事のはじめに、何十本と鉄の杭を地面に打ち込みました。何本も重ね合わせて、堅い岩の上に、建物が立つようにしました。地震にも大雨にもびくともしない建物がその何十本の杭を打ち込む作業によって成り立っているということを知りました。
わたしの言葉が、その固い地盤であると主イエスは仰います。この岩の上に、私たちの生活を作れば、それは、確かのものとなります。
しかも、多くの学者が指摘することは、雨や洪水や大風という試練は、ただ、私たちの人生を襲う苦しみや悲しみ、災いのことではないと言います。もちろん、それらを除外する必要はどこにもありません。主イエスの言葉は、人生の嵐に私たちが倒れないようにする岩です。けれども、ここで主が仰る大雨、洪水、大風は、終末の裁きのことだと言われます。
この世界の終末が訪れる時、主イエスの言葉の上に家を建てる者は揺るがないと言われているのです。主イエスの言葉というのは、そういう永遠を耐える確かな言葉だと請け負ってくださっているのです。
これは単純に有難いことだと思います。正しいことが一体何なのか?誰もが不確かな時代です。誰がどんな生き方をしても良い、何でも自分で決めて良いというのは、素晴らしいことですが、また一方では、不安も大きいと言えます。豊かになり、自由が増し、選ぶことが多いというのは、それだけ、まがい物を掴み、長時間耐えることのできない砂上の楼閣を自分は築いてしまっているのではないかという不安が掻き立てられます。
けれども、主イエスの言葉を聞くならば、全部自分で決める必要はありません。「兄弟に腹を立ててはならない」、「復讐してはならない」、「地上に富を積んではならない」、「人を裁くな」。これらのことで、何が正しいか悩む必要がありません。
主イエスが、何が正しいかを、世の終末に耐える確かさをもって、これが正しい、この言葉の上に生きれば、あなたが崩れてしまうことはないと太鼓判を押してくださっているのです。そこには、確かさがあるのです。
今日まで、山上の説教を聞き続けてきました。振り返りますと、昨年の10月1日から、山上の説教を聞き始めました。8か月間、集中して聴いてきたことになります。
この山上の説教を説くため、日曜日の説教準備の時、色々な書物を参考にしてきましたが、最初の方向を定め、ずっとそれを導いてくれたのは、トゥルナイゼンという牧師が書いた山上の説教に関する文章です。
色々な人の名前を引用してきましたが、この人の名前はあまり出さなかったと思います。けれども、理解できない言葉に出会う時も、同伴してくれていたのは、この人の言葉でした。
この人は、山上の説教を道徳的に解釈することに絶えず反対しています。たとえば、「教会はイエスから与えられた言葉を、すなわち山上の説教を自分で成就すべき律法として読むゆえに、もはや、塩でも、光でも、山の上の町でもなくなってしまっている」と言いました。
そのため、その教会の教えによって建てられた家は、堅固な家ではなく、砂の上に立てた家になってしまっているとまで警告します。
そして、最後に、今日私たちが読み終える山上の説教の最後の言葉に集中しながら、私たちを生かすのは、律法主義的な言葉ではなく、「彼は律法学者のようではなく、権威ある者のように教えられた」その主イエスの御言葉であると言います。
確かに、山上の説教は、その結びにおいて、主イエスが語り終えると、その言葉を聞いた群衆は、その教えが権威あるものとしてお語りになった言葉であったことに驚いたと記されています。
私たちも山上の説教を聞いてきました。今日も聞きました。けれども、このトゥルナイゼンの指摘によれば、それを律法学者の言葉として聞いたのか、権威ある方の言葉として聞いたのかで、教会が立つか、倒れるかの瀬戸際にいるとさえ言えます。
律法学者のように語るとは言うまでもなく、律法主義的に語るということだと思います。道徳的に語ると言っても良いでしょう。
今まで聞いてきたように、山上の説教における主イエスの御言葉の内容というのは、何も特別なものであったわけではありません。たとえば黄金律と言われる、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という言葉は、古今東西どこにでもある常識的な道徳の言葉だと言えます。
けれども、私たちが普通道徳として聞くであろうこういう言葉、山上の説教にちりばめられたその道徳的な言葉が、この聖書の記述によれば、主イエスがお語りになるとき、律法学者の、律法主義の言葉としては響かなかったというのです。
変わって、主イエスというお方がこれらの言葉を語るとき、律法主義の言葉ではなく、権威ある者の言葉として聞かれ、聴いた者は驚いたというのです。
それはいったいどういう響きを立てた言葉であったのか?引用ばかりで恐縮ですが、たとえば、私は、一方の律法主義の言葉がどういう性格の言葉であるかを語ったある神学者の言葉を思い出すのです。
その人は言います。「律法主義的な話とは、み言葉を与えたまま、人間を一人ぼっちに捨てて置くものなのである。」
同じ言葉どころか、それは、いづれも「み言葉」、神の言葉と呼ばれる正しい言葉であるかもしれない。けれども、律法主義的な言葉とは、その正しい神の言葉を与えたまま、人間を一人ぼっちにしてしまうような語り方だと言います。
道徳の言葉っていうのは、そういうものだと思います。私も10代のころ、人間関係に挫折し、ひきこもりのようになった時、教会の門を叩く前に、ある格言集を読みました。そこには、人と人とがうまくやっていくための大切な知恵が記されていました。気持ちが沈んだ時の気の持ちようも載っていました。そこに書かれているどの言葉も正しく素晴らしいと思いました。けれども、その正しい言葉を読むのはとてもつらいことでした。正しいと分かっていても、それを行うことができない者だから、自分は苦境に陥っていたからです。
けれども、常識的な道徳を語っているとも言える主イエスの山上の説教の言葉は、道徳的、律法主義的な響きを決して立てなかったと聖書は語ります。それは、権威ある言葉として聞かれました。
権威ある言葉というのは、どういう言葉でしょうか?たとえば、お巡りさんの言葉を考えれば良いのです。止まれと言ったら、バイクもダンプカーも止まらせる。権威ある言葉とは実行力のある言葉です。
主イエスの権威ある言葉がどういう言葉であるか、たとえば、来週聞くことになるマタイ8:9では、自分の部下の病を主イエスに癒して頂きたいと頼みに来たローマの兵士が、語った言葉によく表れています。すなわち、この人は、主イエスを兵営にお迎えするほどの権限がないので、ただ一言癒しの言葉をくださいと願いました。なぜならば、「わたしも権威の元にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、『行け』と言えば行きますし、『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりに」するからだと言いました。主イエスは、この言葉をお褒めになり、「あなたが信じたとおりになるように。」と言葉を与えられました。すると、ちょうどその時、部下の病は癒されたとあります。これが権威ある言葉です。
それが神の言葉です。イザヤ書55:11に神の権威ある言葉の力強さが神によって語られています。すなわち、「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むところを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」
律法主義ではない言葉、権威ある言葉は、私たち人間を一人ぼっちにしません。
私たちに語られた権威ある言葉は、私たちを素通りすることがありません。弱っている者に、正しい言葉を投げつけ、そのまま途方に暮れさせることはありません。権威ある言葉は、聴かせ必ず行わせます。私たち人間を捕らえて離しません。行いに必ず至る力ある言葉なのです。
そこで、私たちは、主イエスが語られた岩である言葉、権威ある言葉が、単なる思想とか、格言とか、そういうものではなくて、たとえば、福音書記者ヨハネがキリスト御自身を言葉と呼んだように、キリストの権威ある言葉とは、その言葉を語られたキリスト御自身の人格と切っても切り離せないものであることに気付きます。
つまり、空しくない神の言葉、人間を一人ぼっちにしない権威あるキリストの言葉とは、突き詰めれば、マタイによる福音書1:23で「『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神はわれわれと共におられる』という意味である。」と呼ばれた、世の終わりまでいつも私たちと共にいると約束してくださったイエス・キリストその方のことだと言って、何の差支えもないのです。
この方が、私たちを一人ぼっちにさせず、山上の説教を生きることができるように、人を裁かず、赦しに生きる、本当の人間らしい歩みをすることができるように私たちを導いてくださる。そのことに信頼することが赦されています。
そしてその時、私たちは、大胆に、「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」という言葉を、他のどの偉人の言葉としてでもなく、自分自身の言葉として語ることができるのだと思います。
すなわち、この自分はなお、山上の説教の言葉どおりに生きることはできていないかもしれない。その言葉の前に、ため息をつかなければならない自分であるかもしれません。
けれども、共にあるキリストのゆえに、終わりの日には、私たちは聖なる者になっている。昨日よりも今日、今日よりも明日、共に歩んでくださるキリストの権威のゆえに、私たちの歩みは必ず、清められていく。
しかも、それを言い換えるならば、こうも言えます。何事も遅すぎる、手遅れということはもはやないのです。完成を見なくても、今日一日分の歩みを安心して、成せばよいのです。人と人との和解にせよ、良い夫婦関係の構築にせよ、山上の説教に語られた神の喜ばれる生活を作る道半ばで、命を終えることがあっても、そのわたしの中断した人生は、完成しなかったから失敗した、無意味であったというのではありません。
この仕事を完成されるのは、主イエス・キリストだからです。その方の御手に中途半端な私の仕事も私自身のことも、お任せすることが許されています。
このようにして私たちは、その主イエスのなさりようにこの世にあっても、来るべき新天新地にあっても、驚き、喜ぶために生きているのです。
コメント