個人的な思い出ですが、私にとって主の祈りの言葉で、初めて自分に響いたと感じた言葉は、今日共にお聞きします「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者より救ってください」という祈りの言葉でありました。
教会に来ると、すぐに唱えるようになる主の祈りの言葉、けれども、それが文語体であるということも関係があると思いますが、主の祈りは、直ぐには自分の心に沿った祈りにはなりませんでした。
私にとって主の祈りを祈るということは、長い間、いつでも、自分の祈りをささげた後に、祈り足りないところがないようにと、付け足して祈るといった具合でありました。
ところが、ある時から、この主の祈りの最後の言葉にとても強く惹きつけられるようになりました。普段祈りなじんだ言葉で言えば、「我らを試みにあわせず悪より救いいだしたまえ」という言葉を、本当に自分の心からの願いだと思うようになりました。
そう思うようになったきっかけはなんであったか、よく覚えていません。特に、劇的な出来事を通して、この祈りを愛するようになったっというわけではありません。
けれども、はっきりと思うのは、この祈りにいつのまにか心惹かれるようになった自分の心は、信仰の英雄とはほど遠い心だということです。
牧師までしているキリスト者が情けないと思われるかもしれませんが、自分は弱いんだ。本当に弱い者だと思っています。「我らを試みにあわせず悪より救いいだしたまえ」という祈りは、その思いと一つになるような、その弱い自分に与えられている祈りだと感じています。
讃美歌の483番の第3節に、こういう歌詞があります。「きたれ、きたれ、くるしみ、うきなやみもいとわじ、いさみうたわん主を愛するあいをば、あいをば」。
とても勇ましい祈りです。けれども、わたくしは、決してこのように歌うことができない自分であることを認めざるを得ません。私が認める自分は、どんな試練においても、決して自分の信仰は揺るがないから、どんな試練でも、ドンと来いと言うようなものとはとても言えません。
むしろ、ハイデルベルク信仰問答が、私たちが今日聞いている主の祈りの第6の祈りを説くときに語る言葉に一致していると感じます。
その信仰問答は、この第6の祈りを祈る理由を次のように語ります。
「すなわち、わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。そのうえわたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです。」
信仰問答は言います。「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。」
だから、祈らなければなりません。「誘惑から守ってください。悪い者から助けてください。」
ある人は、第6の祈りに至って、改めて主の祈り全体を概観して言います。「主の祈りは、天の高みから、神の最も内なる本質において、その名において始まっている。誰も見ることのできない光の中で、その光の中で主の祈りは始まっている。そのことを表しているのが、『御名が崇められますように』という祈りである。祈りの中間に人間のパンの問題が置かれ、今や祈りは地を深く掘り、最後の地獄にまで到達した。そこで今や大きな叫びが上がる、わたしたちを悪い者から救ってください。」
第1の祈り、第4の祈り、そして今日の第6の祈りを見つめながら、主の祈りは、天と地と、陰府を包む祈りだと言うのです。悲鳴のような祈りだと言った人がいます。けれども、神に向けた悲鳴は、祈りになるのだと言います。
つまり、主の祈りにおいて、わたしたちはわたしたちの一切を神さまに投げかけてただ「助けてください」ということが神がお喜びになる祈りとして私たちに単純に許されているということです。
ところがある説教者は言います。主の祈りを学ぶときに色々な質問が出るけれど、この第6の祈りに関しては、あまり質問が出ない。ひっそり陰に隠れたような位置を占めているようだ。「助けてください」というのは自分の弱さを認めるということです。もし、「こころみに遭わせないでください」という祈りが私どもの切実な祈りの中核になっていないとすれば、それは、もしかすると私どもは祈りにおいても自分の弱さを本気で認めたがらないところがあるからではないか?
私たちキリスト者に対する悪口の一つは、信仰を持つのは弱い人間のすること、軟弱な人間が神を必要とするというものがあります。そう言われると、わたしたちも躍起になって否定するかもしれません。信仰は逃げ場所なんかじゃない。むしろ、そこから打って出ていくような砦だ。信仰があるから、強く戦える。もちろん、その通りだ。けれども、信仰に逃げ込む自分の弱さと指摘されるものを一生懸命に打ち消し、弱いと言われることを嫌がっていることによって、そこで、実は、大きな過ちを犯しているのではないかと言います。
洗礼を受けて、私たちは神の王子とされ、王女とされます。私たちの支配者は罪と死ではなく、王なる神さまです。
けれども、私たちが神の王子となり、王女となったことと、わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできないということは、両立しないことなのか?
リビングプレイズに「御翼の影に」という歌があります。いかなる時も、御翼の影に守られ、安らかに主と共に過ごすと歌います。詩編61篇から取られた言葉です。「あなたの翼を避けどころとして隠れます」という詩編を歌うのです。
信仰を持つというのは、自分の弱さをはっきり認めることです。どこまでも弱く、神の助けを必要とし続けることです。それなのに、いつのまにかヨブの友人やファリサイ派の人たちのように、神を信じる者でありながら、強い者になりすぎてしまうことがあるのではないでしょうか?
パウロの手紙を読んでも、そのことがはっきりわかります。特にコリントの教会にあてて書かれた二つの手紙は、洗礼を受けて、自分は完全な者になったと思い込んでしまった者に、誤った強さの幻想から、弱さの自覚に立ち返るように、何度も何度も呼び掛けている手紙だと言えます。
パウロはその手紙の冒頭で言います。あなたがたは、神に選ばれ、キリストに結ばれ、聖なる者とされたその通りだ。あなたがたは、キリストに結ばれ、全ての点で豊かにされているその通りだ。あなたがたは確かに賜物に何一つ欠けるところがないんだ。確かにそうだ。
けれども、間違った強さを誇っている。その強さとは、コリントの信徒への手紙1の第4章において、パウロが、「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており」、「勝手に王様になって」いると、嘆いた偽りの強さです。パウロは、キリスト者になったのだから、自分が完全だと思い込むのは間違っていると言います。罪赦され、洗礼を受けた以上、もう完全な人間だと思い込むのは誤りだと言います。
洗礼を受け、キリスト者になり、自分は強い者になった、完全な人間になったと言い出したコリントの人々に対してパウロは、自分のことを次のように紹介せざるを得ませんでした。
この自分に関して言えば、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(Ⅱコリ11:30)と。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。」
私たちは、「弱い時にこそ強い。」このことを理解させることは、本当に難しいことであったようです。聖書学者に言わせれば、コリントの信徒への手紙は、二つの手紙ではなく、最低でも、5通の手紙が、含まれているものと考えられています。わたしたちがキリスト者の弱さと強さを誤解しやすいからであると思います。弱さの中に自分はダメだといつまでもとぐろを巻き続けるか、あるいは、真の回心を経験した他とは違う一段高いクリスチャンという強いだけの者になってしまう。
私は、ホーリネス派と呼ばれる教会の伝統から、信仰生活を始めた者です。多くの日本基督教団の教会では聞いたことすらない言葉であるかもしれませんが、そこでは、「キリスト者の完全」ということが、親しく言われました。
キリスト者の完全とは、キリスト者になれば、もう罪を犯さないということです。自分で意図したわけではない不利益を相手に蒙らせてしまうことはあるかもしれないけれども、自分で人を赦さなかったり、侮辱したり、そういう罪は犯さなくなり、人を愛するようになるというのです。このことで、私はだいぶ苦しみました。このことを本当に苦しんだ仲間も知っています。
けれども、神学を学び、この教会もその伝統に属する改革派の信仰を教えられました。非常に大雑把な言い方をすれば、キリスト者の完全というものは、わたしが失敗も罪も犯さない完全な者になるということではありません。神が私を完全にご自分のものとされたということです。
正しい弱さと正しい強さがあります。それは、ほんの一時も、自分で立っていることのできない弱い私たちが、神さまに向かって「助けて」と叫ぶことが許されている、神さまによって支えられているという強さです。つまり、私たちの強さ、強みとは、どこまで言っても自分自身の内側にあるのではなく、神さまがどこまで言っても私たちを捨てずに守り続けるということの中にあるのです。
ヨッヘン・クレッパーという人がいます。讃美歌21にも、何曲かその作詞した曲が載っている人です。このドイツの詩人は、この私たちの弱さと強さをよく知っている人だったと思います。その「クリスマスの歌」という詩の中でこういう風に歌いました。その一部をご紹介します。
やめなさい、あなたの罪と弱さの中で
あなたが何者かを見つめるのは。
あなたの弁護のために来られた
御子に目をとめなさい、
見なさい、今日あなたの身に起こることを。
今日救い主があなたを訪れ、
あなたを再び故郷へ導いていく、
鷲のように力強い翼に乗せて。
自ら己のものを奪い去る
罪人である自分の貧しいさまを見つめるのは、やめなさ
い。
助け主イエス・キリストを見上げなさい。
御子のことばにひたすら依り頼みなさい。
御子の慈しみのほかは何ものも助けをもたらさず、
御子こそがあなたを救うために来られると信じるなら、
いかに大きな罪であれ、
あなたは忘れてかまわないのだ。
自分は弱い。弱いままなのです。けれども、神は強いのです。神がその力強い御翼の影に私たちを置いてくださる。だから、自分は弱いままであるけれども、それに頓着する必要はないのです。御子こそが、私たちを救いに来られたお方だから、私たちは、信仰の英雄になって、「苦しみよ、来たれ」と強弁するのではなく、単純に神に向かって、「助けて!!」と叫ぶことが許されています。
このクレッパーという詩人は自死した人です。自分の命を自分で断ちました。自分の妻と連れ子がユダヤ人であり、八方手を尽くしたにもかかわらず、もはや、強制的に離婚させられ、二人を強制収容所に連れていかれることを、まぬかれないことが明らかになった時、家族三人で心中したのです。
今から、70年前のヨーロッパにおいて、自分で自分の命を断つということが、どれほど、罪深いことであると見做されたかは、わたしたちが、想像することが難しいほどのことです。キリスト教詩人が、決して赦されない大罪と教会によってみなされていた罪を追い詰められた結果、意図的に犯したと言えます。信仰者としての正しい在り方は、たとえ、体を殺すことができても魂まで殺すことのできないこの世の権力者を恐れず、殉教の覚悟で、抵抗するということであったかもしれません。だから、それはクレッパーという人間の弱さを語るような最期と言わなければならないかもしれません。
けれども、クレッパーは終わりの日々の日記にこう記します。
「すべてことは人間に許されている、すべての善いことも悪いことも。なぜなら、神と神を信ずる者とのあいだの決済はイエス・キリストによってなされているからだ。私は、どうして自殺を例外だとすることができたのか。どんな権利をもって限界を引くことができたのか。どんな権利をもって、この罪について、それは許されるはずがないなどと言ったのか。…自殺は他の全ての罪のように神の赦しの中におかれている、と信ずる」。
東北学院大学の教授であった宮田光雄先生は、これは安易な結論ではなかったと言います。自殺は罪ではないと正当化したのではない。それは神のまなざしにおいて、はっきりと罪だとクレッパーは認めていました。けれども、他のあらゆる罪と同じように、キリストが十字架で赦してくださった罪の一つだと、ぎりぎりの苦闘の中で信じるに至ったのだと言います。
このクレッパーの日記の中に、死ぬ二日前に書きとめてある聖書の言葉があります。「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてを御存じだからです」。ヨハネの手紙Ⅰの3:20の御言葉です。
もう一度申しますが、自殺というものは、最も恐るべき罪と当時のキリスト者は考えてきました。今は違いますが、カトリック教会では長いこと、自殺をした人の葬儀を教会堂では行いませんでした。教会墓地にも入れず、四辻に埋め、人々にその上を踏ませる。死の後も、辱めを受けなければならない大きな罪とされました。
わたしがこのような話をするのは、昔の人はむごいことをしたということではありません。教会ですら赦してくれない罪を、主イエスは、十字架で赦してくださったと真剣に信じることが許されているのだと言いたいのです。わたしと神の間にある罪は、今現に私たちが犯し続ける罪も、キリストが十字架において完全に決済してくださったのです。
それは、もはや、我々が弱い者ではないということでは、全然ないと私は思います。弱い者であり続ける。しかも、その弱さとは、単に力がないということではありません。私たちの心が責めを負わなければならない私たちの責任、私たちの罪と言わざるを得ない弱さが含まれるのです。けれども、私たちの救い主、キリストが示された天の父は、責められる私たちの心よりも大きい。洗礼を受けてなお、神の助けなくしては、ほんの一時も立つことができない者であり続ける。けれども、その自分の罪と弱さはもう見なくて良いのです。
やめなさい、あなたの罪と弱さの中で
あなたが何者かを見つめるのは。
あなたの弁護のために来られた
御子に目をとめなさい
自分の罪と弱さを見つめない者は、いったい何を見るのでしょうか?神がキリストにおいて変えてくださった自分の強さでしょうか?聖霊の力によってやがてたくましいものに変えられていくに違いない自分の手足と、その業を誇らしく見るのでしょうか?そうではありません。御子をのみ見るのです。
キリストから目を離して、自分は良い信仰者か?悪い信仰者か?少しは、信仰者らしい歩みを作れているだろうか?昨日よりも今日、わたしの信仰と行いは成長しているだろうか?そういうことを問題にする必要は全くないのです。
内村鑑三という信仰者は、自分の信仰は本物か?と洗礼を受けてなお信仰の確信を持てなかったとき、恩師に言われた次の言葉によって、転機を迎えました。
「内村、君は君の内側のみ見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。なぜ自分を省みることをやめて、十字架の上に君の罪をあがなってくださったイエス様を仰ぎ見ないのか。君のしていることは、子供が植木を鉢に植えて、その成長を確かめようとして、毎日その根を抜いてみるのと同じだ。なぜ、これを神と日光に委ねて、安心して君の成長を待たないのか。」
内村は、「わたしはこの時初めて信仰の何たるかを教えられた」と述懐します。私たちも同じです。
主の祈りを学んできました。けれども、祈りは学びで終わるものではありません。祈りは祈るものです。祈らないかぎり、これをいくら学んでも価値がありません。
けれども、祈るというのは、どういうことか?もう言うまでもないと思います。神が私たちと共にいて下さるということです。そこでわたしは語ります。夜の暗闇の中へ語りかけるように、むなしさの中へ語っているのではなく、神はわたしを聞いていてくださるからです。
わたしたちが「助けて!!」と叫びながら、すがる相手がいるということ、子供にも大人にも、わたしたち全ての者のために打ち叩くことのできる胸を神が開いていてくださるということ、主イエスが祈りをわたしたちに教えてくださるということは、神が今、そのようにして私たちの前に立っていてくださるということです。
しかも、ある聖書学者は言います。我らを試みにあわせず悪より救いいだしたまえとは、詰まるところ「主よ、われらが信仰より落ちることをからお守りください」ということだと。それは、神がすがる心すらも与えてくださるということだと思います。信仰が無くならないように、働くのはわたしたちではなく、神です。そう信じて良い、そう願うが良いと主が第6の祈りをくださったのです。
私たちは神をお待ちして良いのです。心に責められることがあろうと「助けて!!」と天の父に向かって叫んでよい。わたしたちに主の祈りをお与えくださるイエス・キリストとは、わたしたちを助けるために人となって来られた生ける神だからです。
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