主の祈りの第5の祈りに耳を傾けています。日毎の糧を求める祈りに続いて、罪の赦しを求める祈りを祈るようにと勧められる箇所です。
主の祈りの真ん中は、食べ物のための祈りだと先週お話ししました。主イエスが教えてくださった祈りの真ん中から食べ物の匂いがしてくるということは、愉快なことだと私たちは、思いました。
それに続くのは、罪の赦しです。日毎のパンのための祈りとはかけ離れた、突然、日常生活とは縁遠い宗教的なテーマになってしまったと思われるでしょうか?
けれども、実を言えば、この二つの祈りには緊密な関係があり、主の祈りの真ん中は、正確に言うならば、日毎の糧を求める祈りと、罪の赦しを求める祈りであると言った方がよいほどのようです。
それというのも、主の祈りの原文には、日毎の糧を求める祈りと、罪の赦しを求める祈りの間に、他の主の祈りの言葉の間にはない小さな言葉、日本語にも訳されないほんの小さな言葉、英語で言えば、andという言葉があるからです。
つまり、原文に即せばこうなります。
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。そしてまた、わたしたちの負い目を赦してください。」
ある説教者は、他の願いにはないこの二つの祈りの間にある小さな翻訳すらされない「そしてまた」という言葉こそ、日毎の糧と罪の赦しの間には特別な関係があることを示しているのだと言います。すなわち、わたしたち人間が生きるためには二つのものを必要としている。それは、体のための糧と魂のための赦しだと言います。
そして、ユーモアたっぷりにこういう趣旨のことを言います。わたしたちは、自分が生きるに必要な食べ物のことを忘れることはない。なぜって、食べることを忘れれば、お腹がゴロゴロ鳴っていやでも食べ物が必要なことを知らせる。けれども、魂は胃袋よりももっと控えめである。魂はただため息をつくだけだ。
魂の食べ物、それは赦しです。聖書はそのように語ります。魂という言葉がわかりにくかったら、心と言い換えても、大雑把なところ、間違いではないと思います。わたしたちの心にも糧がある。それは、神のくださる罪の赦しだと聖書は語るのです。わたしたちが生きるためには、日毎のパンと日毎の赦しが欠かせないのであり、主の祈りの中心は、この二つだと言うことができるのです。
とても、印象深いことですが、ドイツのキリスト者の家庭では、毎日、このような食卓の祈りがなされるそうです。
「主よ、私どもになくてはならないものが二つあります。それを、あなたの憐みによって与えてください。日ごとのパンと罪の赦しを!」
私たちは、日毎の糧と同じように、罪の赦しを必要としています。どちらも生活必需品です。一週間のうち、六日パンを食べ、日曜日に、赦しを頂けばよいというものではありません。毎食の食卓の祈りで、パンと共に罪の赦しを願います。
罪の赦しの必要ということが、日ごとのパンと同じレベルにある生活必需品なのだということを教えられる時、私たちが同時に気付くことは、この罪と赦しということが、生活レベルに密着したことなのだということです。
わたしたちの魂が必要としている赦しは、わたしたちが作る具体的な生活の中にもたらされる赦しの必要性だということです。
たとえば、こういうことを考えてみれば良いかもしれません。
わたしたちが今日読んでいるマタイによる福音書では、赦しを必要とするわたしたちの罪のことを、「負い目」と記しています。負債のこと、借金のこと、借りのことです。つまり、相手がいるのです。借金を負うゆえに、債権者がいる。
教会は、身に覚えがないのにお前は罪人だということが面白くないと言う人がいます。けれども、負い目がある、負債があると言われると、たちまちに、一つや二つ思い浮かぶ私の歴史があると思うのです。過ぎ去ったことかもしれないし、その渦中かもしれません。
けれども、自分が人と築いてきた関係の中に、確かに自分には負債があるのです。負い目があると認めないわけにはいかない出来事があるのです。
たとえ、神に対して借金を負っているということが、なんであるのかわからなくても、自分には負い目があるということは万人の認めるところと思います。自分はある人に対して果たすべき責任を果たし得ないでいるので、負債がある。そういう人間の誰しもが抱えている負い目を指して聖書は罪だと言うのであれば、それは厳しい表現であるかもしれないけれど、確かに自分は罪人であるし、やはり、自分が負っている負い目は、それだけ厳しいことだと言わなければならないのかもしれない。
まだ洗礼を受けていない者も、罪という言葉を毛嫌いしないで、自分の生活を振り返れば、自分の心が生きるための赦しの必要性が、すぐにわかると思います。
自分の日々を振り返ればわかります。共に生きる者に赦しを請わなければならない自分だと思います。たとえば、子育てしていると思います。自分は本当に良いものを与えることができているだろうか?良かれと思ってやってることが、子どもの人格を歪めることになってはいないだろうか?しかも、良いと思えることばかりを与えているわけではありません。自分の体力にも、自分の忍耐にも限界があります。こうしてあげられれば良いのに、こうしてあげれば良かったと思うことの連続です。
それは、夫婦間も同じですし、親に対してもそうですし、友人との関係も同じことです。本当にすべきだと思うこと、やってあげられれば良かったのにということを、自分の足りなさ、余裕のなさ、自分の欠けのゆえに、やらずに過ごしてしまう。わたしたちの心はそこで負い目を負います。だから、日常の人との具体的な生活において、赦しということは、本当に日ごとのパンと同じくらいわたしたちの具体的な生活において切実なものだと思うのです。
けれども、赦しは、おそらく日毎のパンよりも得難いものです。なぜ、それが得難いかと言えば、わたしたちが人を赦すことがなかなかできないからです。
主の祈りの第5の祈り、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ」という祈りは、難しい祈りだと牧師として、教会の仲間からしばしば聞くことがあります。
主の祈りの、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」というところで、どうも立ち止まってしまうというのです。自分にはどうしても赦せない人がいるからです。
このことも自分の日常を振り返ってみれば、私などが詳細に語って見せなくても、説明抜きに良くわかることだと思います。
本当に私たちは、赦しを必要とするほどに、負い目を負った者ですけれど、また、赦せない者でもあります。そのようなわたしたち人間の具体的な状況に生まれてくる不幸な痛みの連鎖を誰もがよく承知していると思います。
しかし、だからこそ、私たちは、日毎の糧を求める切実さと同じテンションでもって、罪の赦しを求めることを忘れてしまっているのだと思います。
第4の祈りから第5の祈りには飛躍があると感じたり、日毎の糧を求める祈りと、罪の赦しを求める祈りが、一つの食卓の祈りであるということに新鮮さを覚えるのだと思います。
赦しを乞うても赦されないから、そもそも私がいつまでも人が私に対して犯した罪を許さず覚え続けているものだから、魂が、胃袋とは違ってため息をつくだけだから、その心の飢え渇きを、忘れてしまうのです。
主の祈りの第4の祈りと第5の祈りが、「そしてまた」という言葉によって、結び合わされるのは、主イエスがそのことをよくご存知であるからだと思います。わたしたちが生きるために、パンと共に、赦しを本当に必要としていることをよくご存知であるということです。そのことに改めて気づかせてくださるのです。「あなたは赦しを必要としているんだ。そのことに気付きなさい。」
教会には牧会という言葉があります。羊の群れを牧するという意味の言葉です。教会には、使命がある。それは、説教と牧会だと言われることがあります。
最近では、この牧会という言葉は、「魂の配慮」という言い方で表現されることが主流になってきています。
具体的には、しばしば牧師が、教会にしばらく来なくなっている人に手紙を書いたり、入院している人をお見舞いしたり、そういう働きを、牧会的働きと言うことが多いものです。
けれども、気の利いた優しい牧師が、教会員との親密な交わりを作ることが、牧会の働きではありません。
トゥルナイゼンという神学者は、牧会、魂の配慮を、説教で語られることを、個人的な対話のレベルで、一対一で語り直すことだと定義しました。
そしてまた、その核心において言います。教会の説教とは何か?罪の赦しを語ること、だから、教会のなす魂の配慮とは、説教の使命と同じ、罪の赦しを語ることだと言いました。
この人は、こんな風にも言います。なぜ、教会は罪について語るのか?しばしばキリスト教はお前は罪人だと迫るからいやだと人が言うように、人間を罪人だと責めたいからではない。赦しを語るためだけに、人の罪を問題にするのだという趣旨のことを語りました。つまり、教会の使命とは、説教にしろ、キリスト者が人となす個人的な対話にしろ、人を罪に定めることではなく、赦しに結び付けることです。
私たちが罪に鈍感になるのは、おそらく赦しがないからです。自分の足りなさ、失敗によって、負債を背負う時、損害を与えてしまった相手にわたしたちが必要とする赦しを乞うことができないのは、責められてしまうと分かっているからです。だから、自分の罪を認めることができない。責められると、すぐに、相手の落ち度や、足りなさを責めることに転じてしまう。責任を負うべきなのが本当は誰なのか、犯人捜しに夢中になってしまう。
けれども、神が、わたしたちの罪を語るのは、失敗しても、過ちを犯しても、責められることのない、赦しの中でのみです。主イエスは、神に赦しを願って良いと仰るのです。それは、神は赦しの中でのみ、わたしたちを見てくださるという意味です。
赦されて生きることができたら、自分がある人との関係において赦されていると知ることができたら、本当に力が湧いてくると思います。その関係は力を与えるものだと思います。
それこそ、本当に、生きる力を与えるものだと思います。
宗教改革の時代に生み出されたハイデルベルク信仰問答の有名な問1とその答えは、わたしたちの命を支える唯一の慰めについてはっきりと今見てきた線に沿って語ります。
ハイデルベルク信仰問答問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。/この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。」
この信仰問答は、生きる時も死ぬ時も私たちにとっての唯一つの慰め、それは、わたしが自分自身のものではなく、イエス・キリストのものだということだと言います。
しかも、わたしがキリストのものだということとは、わたしの罪がキリストの血によって完全に償われ、悪魔のあらゆる力から解放されたということだと言います。
わたしが、悪魔のものではなくキリストのもの、わたしの罪がキリストの血によって完全に赦されているということ、それが、生きるにも死ぬにも、わたしの命全体における唯一の慰めだと言います。
慰めというのは、ドイツ語で、Trostと言いますが、この言葉は、わたしたちが普通日本語で、慰めという言葉を考えるよりも、力強いニュアンスを持った言葉だと言います。
それは、確信、信頼、助け、希望、力という訳も可能な言葉だと言われます。だから、わたしたちの命を支える唯一の確信、信頼、助け、希望、力とは、わたしが自分自身のものではなく、キリストのものだということ、わたしの罪はキリストにあって全部許されているところにあるということもできるのです。
わたしの罪はキリストによって完全に赦されている。そこにわたしの命の力が湧いてくるのです。これは神秘的なことではなく、よくわかることだと思います。
わたしたちが日々犯す過ち、失敗、そのすべてを責め続けられたら、本当に力が減っていきます。無気力になります。喜びが無くなります。
けれども、わたしたちの日々の失敗の数々にもかかわらず、「大丈夫、失敗してもやり直せる。その過ちを赦す。」と何度でも何度でも繰り返し、キリストにある神に語ってもらえるならば、わたしたちはいじけて捻じ曲がることはないのです。
慰めという言葉は、漢字でも、意義深いものだと以前お話ししました。慰めという感じは、下に心という字を書きます。その心の上に載っている文字は、ひのし、今でいうアイロンを意味する言葉だと言います。
いじけてしわくちゃになってしまった心の上に、アイロンが当てられます。心の皺を伸ばすのです。それが慰めです。その私たち人間の心の皺を伸ばすものは、赦しであると語ります。それもキリストの赦し、神の赦しだと信仰問答は語るのです。
「あなたの罪は赦された。」
この言葉を自分への言葉として聴くことを妨げる、どんな理由もありません。どんな理由もないと主なる神さまはおっしゃいます。神さまは私たちがどんな者であっても、一切の条件なしに、一切の保留なしに、「あなたの罪は赦された。」これを、今私が聴くべき私めがけて語られている神の言葉として聴きなさいと仰います。「あなたの罪は赦された」という神の言葉の中で自分自身を知るように招かれているのです。
足りないだらけのわたしたちです。失敗だらけのわたしたちです。人に赦してもらえないばかりではありません。自分で自分が赦せなくなります。こんな私が生きることに何の意味があるのかと思う時があります。
けれども、自分で自分を赦せないほどの私たちのことを神は赦してくださったのです。その為に立てられた主イエスの十字架です。その為に流された主イエスの血です。そこにわたしたちが赦されていることのリアリティーがあります。
わたしたちが自分自身のものではなく、キリストのものであることの喜びとは、わたしたちが自分自身の思いに逆らうほどに、キリストの赦しの中に、今は、入れられているのだということにあるのだと思います。
ここに生きる時も死ぬ時も、わたしたちの命の湧き出る力の源があります。
この主の赦しに支えられて立つとき、今まで私たちには難しかった「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」という第5の祈りのもう一つの言葉も新しい響きを立て始めるのではないでしょうか?
すなわち、ここでは、わたしが徹底的に赦されているように、隣に座る者も、神が赦したいと願っておられる人間であり、事実、その者のために御子が送られた一人一人であるということをわたしたちが忘れることはどうしてもできないのです。
それは、この第5の祈りの福音書自身による解説と呼ばれることもあるマタイによる福音書18:21以下の、莫大な借金を完全に赦してもらった家来のたとえ話の通りです。
たとえ話は語ります。日本円に換算すれば、数千億円の借金を帳消しにしてもらった、そのような徹底的な赦しの中に生かされている者が、仲間の100万円の借金をチャラにしないということは、あり得ないことなのです。
しかし、このたとえ話を読む時に、大切なことは、これは、イエスさまが厳しい顔でお語りになったたとえではなく、いたずらっ子のようなユーモアをもって語ったのだろうと想像してみることです。
このたとえを聞いた者は、わたしも隣人を赦さなければと身を固くしたのではなく、そんなことはあり得ないときっと笑ったに違いありません。
けれども、主イエスのたとえに微笑んだ者の心には、そこに大きな風穴が開いたのだとも信じます。
「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」、この祈りをどうしても祈れないと思っていた自分を笑うのです。
その笑いはとて健やかな笑いだと思います。本当に人間的な笑いだと思います。
「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」
わたしたちはそのように祈ることが許されています。そのように息を吐き出すことが許されています。主イエスが、わたしたちが隣人を赦すことが私たちにとって最も自然なこととしてくださるのです。
主イエスのくださる赦しに生かされる私たちにとっては、神の赦しを味わうこと、自分の罪深さを笑うこと、ほっと一息つくこと、人を赦すことは、ほとんど同じことではないかと思うのです。
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