礼拝

1月25日(日)主日礼拝

聖書:イザヤ書56章6節~7節
   ローマの信徒への手紙 1章5節~6節
説教題:異邦人のための使徒パウロ
説教者:松原 望 牧師

本日は大雪のためオンライン礼拝となりました。

聖書

イザヤ書5667

6 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら

7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。

わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

ローマの信徒への手紙156

5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――

説教

序、

パウロは、この手紙の冒頭での挨拶で自己紹介から始めましたが、福音について、次にキリストについて説明してきました。挨拶の文章とは言え、これらのことについて、説明せずにはいられなかったため、パウロの他の手紙と比べると、とても長い文章になってしまいました。しかし、ただくどくどと長く説明しているのではなく、パウロを使徒として立ててくださったのはキリストであるという事、またこのキリストを宣べ伝えることこそ、パウロに与えられた使命であることをはっきりさせなければならないと、強く感じていたからにほかなりません。

1、「恵み」

5節で、パウロは「恵みを受けて使徒とされた」と言っています。この文章は「恵みを受けて使徒とされた」と翻訳できますが、もう一つの翻訳の仕方としては「恵みと使徒の務めを受けた」と翻訳することができます。実際、新改訳聖書という聖書はそのように翻訳しています。その翻訳の違いを、今、ここで詳しく説明するつもりはありませんが、パウロは、キリストから「恵みを受けた」という事を強調しているということです。

パウロが受けたキリストからの恵みとは何か、という事を考えると、真っ先に思い起こすのは、かつて教会を迫害していたパウロが、キリストを信じる者へと変えられたことでしょう。このことは、使徒言行録9章1~31節に記されています。またパウロ自身、第一コリント書(15:9)やガラテヤ書(1:13~24)、フィリピ書(3:6)において、教会を迫害していた過去を告白しています。そのパウロがキリストを信じようになったのは、復活のキリストとの出会い(使徒9章)によってでした。この出来事によって、パウロの人生は大きく変えられたのです。ぱうろが過去、キリスト教会を迫害したことを告白しているのは、キリストによる救いを信じるようになったこと、キリストの救いを宣べ伝える務めを与えられたことなどを、キリストが与えてくださった恵みであると感謝しているからです。

教会を迫害したという罪を、キリストが赦してくださったという感謝と共に、キリストとその救いを宣べ伝える使徒の務めを与えられたことを感謝しているのです。このことをはっきりしているのがコリントの信徒への手紙 一 15章9~10節です。

「9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」

2、「使徒の務め」

「恵み」と共に与えらた「使徒」という言葉ですが、1節にも「使徒」という言葉が出てきます。5節の「使徒」は、厳密に言いますと1節とは少し違う言葉で「使徒の務め」「使徒職」とする方が良いと思います。実際そのように翻訳している聖書(新改訳)もあります。

「使徒」も「使徒の務め」も大して変わらないようですが、5節の「使徒(の務め)」は、「使徒の身分」とか「使徒の権威」という事ではなく、「使徒として為すべき任務」ということです。具体的には、「『主イエス・キリストが救い主である』ことを宣べ伝える任務」ということです。

「使徒」というのは、「派遣された人」という意味ですが、「伝令」、すなわち、メッセージを伝えるために派遣された人」という意味です。伝令は身分が低くても、その人を派遣した人の言葉を伝えるので、派遣したその人の権威ある言葉として受け止められます。

パウロもまた、自分勝手にメッセージを伝えているのではなく、神が遣わしたのであり、神の御言葉を携えて伝えているという事です。

3、「御名(キリストの名)を広めるため」

パウロは使徒の務めを説明するのに「御名を広めるため」と言っています。「広める」という言葉は説明のために付け加えられたもので、もともとは「御名のために」となっています。「キリストの名のために」という意味で、「キリストの名を広める」と理解して良いわけです。

ただ名前を宣伝するという事ではありません。むしろ、キリストによる救いを宣べ伝えるという事です。

ペトロは、エルサレムの神殿で主イエス・キリストを宣べ伝えていたため、神殿を警備する人々に捕らえれられ、大祭司をはじめとする議員の前で詰問されました。それに対してペトロは「ほかの誰によっても救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか、人間には与えられていないのです」と大胆に語り伝えました。

パウロもペトロと同じく、私たちを救うのは、十字架にかかられよみがえられたキリスト以外にはないとの確信をもって、人々にキリストを宣べ伝えているのです。

4、「信仰による従順へ」

パウロは、「キリストの名を広めるため」と言いましたが、その目的は「異邦人を信仰による従順へと導くため」でした。

「従順」というのは、「聞く」という言葉が元になった言葉で、「聞き従う」とか「応答する」という意味です。ですから、こちらから積極的に働きかけていくというより、神からの働きかけに応えるという意味が強いのです。パウロはローマ書の中で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(10:17)と言っているとおりです。

「信仰による従順」という言葉によって、パウロは「信仰によって聞き従う」とか「信仰によって応答する」という事を言いたいのです。実際、この手紙の中では「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:22)、「イエスを信じる者を義とする」(3:26)という言葉が多く出てきます。

「信仰義認」という事です。ここでは「信仰義認」という言葉はありませんが、ローマ書の重要な主題の一つであり、私たちが救われたのは「キリストを信じる信仰による」という事を、挨拶の中でも触れておきたかったに違いありません。

5、「異邦人を導くために」

パウロは、すべての人々をキリストの救いにあずからせるために、使徒の務めを与えられたわけですが、パウロが「異邦人」という言葉を使っているのは、「異邦人のための使徒」という自覚から来ています。そのことはローマ書11:13でも言っていますし、特にガラテヤ書では

「7 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。8 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。9 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。」(ガラテヤ2:7~9)と語っています。

6、異邦人のための使徒パウロ

パウロという人物が異邦人をキリストに導くために選ばれたことは、まさに神の御計画であったと言わざるを得ません。

彼はローマ市民権を持っており、その特権を最大限に利用することができました。また、当時の世界共通語であったギリシア語に堪能で、異邦人に伝道する最大の武器を手にしていたことになります。さらには、彼はユダヤ人として律法学者の訓練を受けており、旧約聖書に精通していました。とにかく、パウロは非常に異邦人伝道にふさわしかったと言えます。

7、「召される」

パウロは、ローマの教会の人々に対して「あなたがたもイエス・キリストのものとなるように召された」と告げています。

「召される」という言葉は、「呼び出す」という言葉から来ています。神様に名前を呼ばれて召し出される、という事です。自分から積極的に行動するというよりは、神様から呼び出されて行動するという意味が強いと言えます。この場合、単に「招待される」というだけではなく、「召集される」という意味が強いかもしれません。

実は「教会」(エクレーシア)という言葉も「呼び出す」という言葉から来ています。古代ギリシアでは、町の指導者が市民に召集をかけることがありました。そうして集まった集会をエクレーシアと呼び、これが教会を指す言葉として定着したのです。ただし、教会の場合、呼び出すのは神であって人間ではありません。

このように見てきますと、教会とは、「神に呼び出された人々の群れ」「神に召された人々の共同体」であることがわかります。

ニカイア・コンスタンテイノポリス信条に、「私たちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます。」とあります。教会は「使徒」としての務めを担っているという事です。その意味では、ペトロやパウロと同じだという事です。

8

パウロは、福音を宣べ伝えるために、使徒として召されたことを告げると共に、教会とそれに連なる信徒も神からの救いを受けるために召し出されたと告げています。

私たちを救うことは神の御心であり、そのためにご計画を立て、その喜びのメッセージを伝えられています。このことを覚え、神に感謝しましょう。また、私たちもこの務めを与えられていることを恵みとして感謝し、力強く、大胆に主イエスの救いの福音を宣べ伝えていきたいと思います。

 

 

 

 

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