聖書:イザヤ書60章19節~22節
ルカによる福音書4章16節~21節
説教題:今、救いが実現している
説教者 松原 望 牧師
聖書
イザヤ書60章19~22節
19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。
主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。
20 あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。
主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。
21 あなたの民は皆、主に従う者となり/とこしえに地を継ぎ
わたしの植えた若木、わたしの手の業として/輝きに包まれる。
22 最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。
主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。
ルカによる福音書4章16~21節
16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18 「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
19 主の恵みの年を告げるためである。」
20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
「 説教 」
序、
今日読んでいただいたルカによる福音書は先々週と同じ個所です。故郷のナザレの会堂で説教された場面ですが、その時手渡されたイザヤ書の言葉に焦点を合わせ、主イエス・キリストの人々を救う使命について話をしました。今日は21節の「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われた主イエスの言葉に焦点を合わせて、話をします。
1、ルカ福音書の「今日」
ルカ福音書にはいくつもの特徴がありますが、今日の聖書にも出てきた「今日」という言葉も、その一つです。
もちろん、他の福音書にも「今日」という言葉が出てきますが、その言葉が使われている数が多いということにも表れていますし、なによりも、主イエス・キリストの救いという事との関わりで多く使われています。
たとえば、主イエス・キリストがお生まれになった時、野原で野宿していた羊飼いたちに天使が現れ、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(2:11)と告げたことや、エルサレムへの旅の途中、人々から嫌われていた徴税人ザアカイを見かけ、「木から急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけ、喜んでそれに応えたザアカイを見て「今日、救いがこの家を訪れた」(19:5、9)と言われたこと、また十字架にかけられた時、一緒に十字架にかけられていた強盗の一人に「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(23:43)と声をかけた場面などです。これらは他の福音書には出てきません。そして、今日のナザレでの出来事は、マタイ福音書やマルコ福音書にも出てきますが、そこで読まれたイザヤ書の言葉や「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という主イエスの言葉は、他の福音書には出てこないのです。
ルカ福音書が、主イエスとその救いということについて「今日」という言葉をとても重要に考えていたことが分かります。
2、
救いについて、こんなにも素晴らしいと語られても、「そのうちに」とか「いつかは」と言われたとするなら、その救いは本当なのかと疑わしく思いますし、たとえ本当だったとして、いつまでも先延ばしにされたなら、救いが全くないのと同じだと思います。
ルカ福音書が書かれた時代、そして、この福音書を書いたルカの周りには、そう思う人が多くいたのではないでしょうか。それは決して信仰があるかないかの問題ではなく、だれもが抱く疑問であったに違いありません。
3、キリストの再臨
主イエスは終末と再臨(ルカ21:27)を約束され、キリスト教会もそのことを宣べ伝えていました。(ヘブライ9:28、他) しかし、なかなか主イエスの再臨は実現せず、再臨を疑う人が多く出てきました。そのような中で二つのことが説明されました。
一つは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます」(Ⅱペトロ3:9~10) 主イエスの再臨が遅れているように思われるのは、神が一人も滅びないようにと計らっておられるからで、神の方こそ、終末に主イエスを再びお遣わしになるのを忍耐しているということです。
もう一つは、終末の時までまだしばらく時間がありそうだが、いつその時が来ても良いように備えをしておくということです。
たとえば、マタイ福音書の「十人のおとめ」のたとえ(25:1~13)にそれが現れています。
ルカ福音書も終末までまだ時間があると理解し、マタイと同じようにそれに備えるようにと教えています。それとともに、終末を迎えるまで教会の働きの大切さを強調しています。それが現れているのは、使徒言行録です。言ってみれば、初代の教会の歴史が記されているわけですが、単に歴史を記すことが目的というより、終末までの期間、教会の働きの大切さを告げているのです。
4、救いの始まりと完成
少し、話がそれたかもしれません。
聖書が教える主イエスの救いは既に始まっていますが、まだ完成していないということです。と言いましても、その救いが不完全ということではありません。神の救いは完全ですが、完成の時はまだ来ていないということです。
少し複雑な言い方をしていますが、旧約聖書の出エジプト記を思い起こしていただくとよいと思います。
イスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、神に遣わされたモーセによってエジプトを脱出しました。これは確かに神の救いです。しかし、エジプトを脱出しただけでは本当の救いになりません。神に約束された土地に入った時、救いは完成するのです。
エジプト脱出は救いの始まりであり、約束の土地に入った時が救いの完成です。エジプト脱出から約束の土地に入るまで40年かかりました。ふつうはそんなに時間のかかる距離ではありません。しかしイスラエルの民は神を信頼する訓練を受けるために、荒野で40年の時を過ごしたのです。
私たちの救いもそれと似ています。救いは既に始まっているのです。完成へと向かっているのです。その完成の時まで私たちも旧約の神の民イスラエルと同じように神を信頼する訓練の時が必要なのです。
5、救いの始まりと救いの確かさ
救いの始まりは完成ではないからと言って、それが確かでないということではありません。救いが始まったその時から救いは確かなのです。
私たちの人生は、神を信頼する訓練を受けている期間です。様々な試練や失敗を繰り返すことでしょう。しかし、そのような中で、神がいつも私たちを守り導いてくださっていることを確認するのです。それにより、神をますます信頼することができるように訓練されるのです。
「『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブライ12:5~11)とある通りです。
6、救いの出発としての洗礼
救いはいつ始まるのでしょうか。主イエス・キリストの名による洗礼を受けた時が救いの出発です。その洗礼を受けるまでの期間は、助走期間と言ってよいかもしれません。
飛行機が離陸するまで、滑走路を走っていることを想像するとよいかもしれません。滑走路を走り、離陸した瞬間が洗礼です。離陸し、空を飛んでいる飛行機は着陸しなければなりません。目的地に近づき着陸した時が救いの完成ということです。
救いの出発をした私たちには、その救いは確かであるという保証を与えられています。私たちには神の救いを疑う弱さがあります。その弱い私たちのために、繰り返し、神の救いが確かであると確認できる時と場所が必要です。その救いを確認する時が礼拝の時であり、教会が救いを確認する場所なのです。
主イエスが、安息日に会堂で礼拝をしているときに、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言なさったことは、とても重要な意味を持っています。
「安息日」は神を礼拝する時です。「会堂」は神を礼拝する場所です。神を礼拝する「時」、礼拝する「場所」こそ、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という主イエスが宣言された言葉を聞くのに最もふさわしいことを示しています。
わたしたちにとりましても、神を礼拝する日曜日という時、神を礼拝する教会という場所で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、主イエスが宣言しておられるのです。救いが確
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