聖書:ヨエル書3章1節~2節
使徒言行録2章1節~12節
説教題:神の偉大な業を伝える
説教者:松原 望 牧師
聖書
ヨエル書3章1~2節
1 その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
2 その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
使徒言行録2章1~12節
1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
「 説教 」
序、
使徒言行録2章1節に出てくる「五旬祭」というのは、過越の祭から数えて五十日目に行われる祭りで、旧約聖書では「七週祭」と呼ばれていました。新約聖書の時代になってその当時の世界の共通語となっていたギリシア語で50日目を表す言葉から「ペンテコステ」と呼ばれるようになっていました。
過越の祭が春分の後の満月の日に行われていたため、今の暦に換算すると、毎年3月から4月の間を移動します。そのため、五旬祭(ペンテコステ)も5月から6月の間を移動することになります。
もともと七週の祭は小麦の収穫を祝う祭りでしたが、後にモーセがシナイ山で律法を授けられた日として重んじられるようになりました。
とにかく、旧約聖書の時代から過越の祭、秋の仮庵の祭と並んで、七週の祭が重んじられ、エルサレムに巡礼のため、遠方から来るユダヤ人たちも多くいました。
使徒言行録2章は、祭りを祝おうといろいろの場所から集まった人々の中で起きた出来事を記しています。
1、聖霊が使徒たちに降る
ペンテコステ(五旬祭)の日に、聖霊が使徒たちに降り、教会が誕生しました。聖書には「教会が誕生した」とは記されていませんが、伝統的にそのように理解されてきました。このことは、「キリスト教会とは何か」、「何をもってキリスト教会と位置付けるか」を考えるうえで、とても重要なことです。
教会ということを考える時に、まず思い浮かべるのは、「教会はキリストの体」(エフェソ1:23)、「キリストは教会の頭」(エフェソ5:23)という言葉だろうと思います。
そして、使徒言行録が記していますように、教会は聖霊が降ったことによって誕生したということです。
なぜこのことを強調するかと言いますと、目に見えるところでは、教会は人間の集まりですし、同じ信仰を持って集まっているからです。そのこと自体は全く問題ではありませんが、どうかすると、教会がいかにあるべきかを考えるとき、人間の常識、社会の常識で考えようとすることがあります。あるいは集まった人々が多数決で物事を決めようとすることもあり得ないことではありません。
そのような私たちに、聖書は聖霊の働きを強調するのです。例えば信仰について、使徒パウロはコリントの信徒への手紙 一 1~2章において、聖霊の働きによって、キリストを信じる信仰が与えられたと告げていますし、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12:3)と、はっきり言っています。
2、「あなたがたに聖霊が降ると」と告げた主イエス
使徒たちに聖霊が降ることは、主イエスがあらかじめ語っておられたことでした。その時主イエスは、「あなたがたは私の証人となる」(使徒言行録1:8)と告げています。これは使徒たちに与えられた使命です。この使命こそ、使徒たちの存在理由であり、教会の使命なのです。教会がキリストの体であるということも、キリストが教会の頭であることも、教会がキリストの証人であることに、重要な意味があるのです。なぜなら、旧約聖書の時代から神の民は神の証人として立てられていたからです。(イザヤ書43章)
新約の神の民、キリスト教会も神の証人、キリストの証人として立てられているのです。ですから、主イエスが聖霊が降る時、使徒たちがキリストの証人となると言われたのは、新しい神の民が立てられる、キリストの教会が建てられるとおっしゃったのです。
3、いろいろの国の言語で話し出した使徒たち
しかし、使徒たちがいろいろの国の言語で話をしたという現象は、万能ではなかったことは、使徒たちの言葉を聞いた人々の中には「あの人たちはぶどう酒に酔っている」(使徒言行録2:13)とあざけった人々がいたことが示しているとおりです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリント12:3)と使徒パウロも告げている通り、語る者も聞く者も聖霊によってこそ、神の御言葉を語るようにされ、聞くことが出来るようにされているのです。
いろいろの言語で話をするという現象はその時限りで、永続しませんでした。その現象は聖霊の働きを象徴するものでしたが、主キリストの十字架と復活による救いを宣べ伝えることは続けられていきます。これこそ、聖霊の働きで重要なことでした。
4、神の偉大な業を語る使徒たち
聖霊によって語った使徒たちの言葉が、「神の偉大な業」と言われているのはそのことです。その出来事に続いてペトロの説教が、使徒言行録2章14節以下に記されていますが、その内容は、主イエス・キリストの十字架と復活による神の救いです。使徒言行録には、いくつかの使徒たちの説教が記されていますが、いずれも2章のペトロの説教に近い内容になっています。
主イエスがおっしゃった「地の果てに至るまで、私の証人となる」が、使徒たちと教会に与えられた使命です。教会の誕生を記念するペンテコステの時は、神から与えられた大切の使命を思い起こす時なのです。
5、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」 ニカイア・コンスタンティノポリス信条
ニカイア・コンスタンティノポリス信条は使徒信条と並んで「基本信条」と呼ばれます。プロテスタント教会やローマ・カトリック教会だけでなく、ギリシア正教会、ロシア正教会もこのニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白しているからです。おおよそ、キリスト教会と呼ばれる教会はすべてこの信条に表された信仰を告白し、反対にこれを受け入れない宗教団体は、いかに私たちの教会に似ていてもキリスト教会と認めることはできません。
使徒信条もニカイア・コンスタンティノポリス信条も教会を聖霊の働きの中に位置づけています。「我は聖霊を信ず」のすぐ後に「聖なる公同の教会を信ず」の言葉が続いています。聖霊と教会がそれぞれ独立しているのではなく、聖霊についての告白の中に位置づけられているのです。
そして、ニカイア・コンスタンティノポリス信条が、教会を「使徒的教会」と告白していることは重要です。キリスト教会の使命をはっきりと宣言しているからです。
使徒たちが語った「神の偉大な業」、それは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いです。使徒パウロは、これを神の業であると告げ(Ⅰコリント1~2章)、この主イエスを「主」、「神」、「救い主」と告白することは聖霊の働きだ(Ⅰコリント12:3)と告げました。
キリストを証しし、人々に伝えることは特別のことではありません。私たちが信じていることをそのまま語ればよいのです。私たちがキリストに救われた喜びを語るのです。あとは、聖霊が働いてくださるのですから、聖霊に委ねるだけで充分なのです。
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