聖書:詩編32編1節~11節
コリントの信徒への手紙一 15章20節~22節
説教題:キリストの復活は確かな保証
説教者 松原 望 牧師
聖書
詩編32編1~11節
1いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ
6 あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。〔セラ
8 わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
10 神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
コリントの信徒への手紙 一 15章20~22節
20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
「 説教 」
序、
先日、賛美歌の伴奏器、ヒムプレーヤーが故障し、修理してもらいました。当然保証書がありますので無料でした。
保証は、メーカーが品質を保証し、またトラブルがあったら必ず直すことを保証するものです。
私たちの救いについても、神が保証してくださっています。
1、コリントの信徒への手紙 一 15章
コリントの信徒への手紙一は、コリントの教会に起こっている様々な問題について、パウロがいろいろアドバイスをしている手紙です。この手紙の最後は16章ですが、エルサレムの教会の貧しい人々のための募金の願いと挨拶になっています。ですからアドバイスとしては15章が最後ということになりますが、ここで、主イエス・キリストの復活について記されています。
その15章で、パウロはコリントの教会で最も大切なこととして伝えたことは、キリストが「私たちの罪のために死んだこと」と「三日目に復活したこと」だと言います。
キリストが「私たちの罪のために死んだ」というのは、キリストが十字架にかけられたことで、その十字架で血を流し死んだのは、私たちを罪から救うためだったということです。
キリストが復活したことについては、キリスト自身の復活の出来事を語った後、12節からキリストの復活が私たちとどう関係しているのかを語っていきます。
12節から19節において、キリストが復活したことによって私たちも復活すると説明しています。その理由が22節で「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」と説明されます。
アダムというのは、聖書の一番初めにある創世記に出てくる人物で、最初に造られた人間です。彼は罪のない状態で創られていましたが、神に罪を犯したことにより、死ぬ存在になりました。それ以降、すべての人間は罪に囚われ、やがて死んでしまう存在になってしまったのです。これは神が天地を創造されたときには、計画していなかったことです。
こうしてすべての人間が罪に囚われた状態になり、死を免れなくなってしまいました。
神は、罪と死に囚われた私たちを救うために独り子であるイエス・キリストを地上に遣わしてくださいました。私たちを罪から解放するためにキリストは十字架にかかり、私たちに永遠の命を与え、それを保証するために復活させられたのです。
2、キリストによってすべての人が生かされるようになる
先ほどお読みしましたⅠコリント15章22節の「アダムによってすべての人が死ぬことになった」は、罪の性質がアダムから今の私たちまで遺伝してきていると考えることもできますが、むしろ、罪に囚われた状態、罪に束縛された状態が続いていると言った方が良いかもしれません。
神が私たちを罪から救うというのは、罪に囚われている状態から解放する、自由にするということです。罪という束縛から解き放たれるということです。
罪と悩みと苦しみと悲しみが際限なく続く中で永遠に生きるならば、それは私たちに幸せを与えることにはならず、苦しみと悲しみに永遠に囚われた地獄のような状態ということになるのではないでしょうか。罪から自由にされてこそ、永遠に生きる喜び、幸せがあるのです。
3、「最後のアダム」キリスト
アダムから始まった罪と悲惨と死は、キリストによって終止符を打たれます。それでキリストを「最後のアダム」(Ⅰコリント15:45)と表現することがあります。
アダムから始まった私たちと罪の断ち難い関係を、キリストが断ち切って下さったからです。罪との関係を断ち切るためには、ただ一つの方法しかありません。それがイエス・キリストとの確かな関係に入ることです。
主イエスはぶどうの幹と枝との関係を用いて語っています。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ福音書15:5)という言葉です。
洗礼を受けることによって、罪との関係が断ち切られ、キリストにしっかりと結ばれるのです。ぶどうの枝が幹から栄養分を受けて生き生きとするように、キリストに結ばれて私たちはキリストの命を受けて新しく生きることになるのです。
4、神は行動する
神は、キリストを復活させることにより、私たちがキリストとの確かな関係に入れられていることを示し保証しています。
昔読んだ本に、接客業のサービスについて書かれたものがあります。
ホテルの従業員になろうとする人のために、より良いサービスのあり方を講演した時を振り返って書かれていました。
その講師は一つの例を話しました。
ある航空機に一人の客が客室乗務員に声をかけ、ある新聞を読みたいので取ってきてほしいと頼みます。客室乗務員は、その新聞が今は誰かが読んでいて控えの場所にないことを知っています。この時、客室乗務員は何と答えるかと、受講生たちに質問します。
ある受講生は、「申し訳ありません。あいにくその新聞は誰かが読んでおり、控えの部屋にはありません。別の読み物を持ってきますが、ご希望はあるでしょうか」と言ったらよいのではないかと答えました。
それを聞いて、講師は、「君の言っていることは間違っていない。しかし、もっと良いのは、『ただ今見てまいります』と言って控えの部屋に行き、ないことを確認した後に、『その新聞がありませんでしたので、代わりをお持ちしましたが、他のものがよければ、見てまいります』と答えることだ」と言いました。
そしてその講師は、「あらかじめ控えの部屋にその新聞がないことが分かっているので、客室乗務員はその事実を告げた。それは間違ってはいない。しかし、『見てまいります』と言って、控えの部屋に行くことで、新聞を求めた客が納得しやすくなるのだ」と語りました。この講師は、「サービスというのは、ただ言葉だけでサービスするのではなく、その客のために行動することが大切だ。客は客室乗務員の行動を見て、自分のために動いてくれると感じ、良いサービスを受けたと満足する」。
今話したことは、キリスト教と全く関係のない話ですが、神は何故言葉だけでなく、行動されるのかを理解する助けになると思います。
天地のすべてのものを言葉で創造する神です。私たちを救うのも言葉だけでも十分なはずです。しかし、神は私たちを救うために、言葉だけではなく、行動してその救いが確かであることを示してくださっているのです。弱く、頑固な私たちのために、行動を起こして、神の救いが確かであること、そして、神が私たちを愛してくださっていることを示してくださっているのです。復活という出来事を通して、私たちの救いが確かであること、私たちが罪を赦されていること、永遠の命を与えられていることを保証しておられるのです。
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