聖 書 エゼキエル書33章10節~20節
ローマの信徒への手紙3章20節~26節
説教題 悔い改めを呼びかける神
説教者 松原 望 牧師
聖書
エゼキエル書33章10~20節
10 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
12 人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。13 正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。14 また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、15 すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。16 彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。17 それなのに、あなたの同胞は言っている。『主の道は正しくない』と。しかし正しくないのは彼らの道である。18 正しい人でも、正しさから離れて不正を行うなら、その不正のゆえに彼は死ぬ。19 また、悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、それゆえに彼は生きる。20 それなのに、お前たちは言っている。『主の道は正しくない』と。イスラエルの家よ、わたしは人をそれぞれの道に従って裁く。」
ローマの信徒への手紙3章20~26節
20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
「 説教 」
序、エゼキエルとその時代
今から2,500年ほど前、南王国ユダの主だった人々がバビロンへ捕らえ移された出来事がありました。いわゆるバビロン捕囚です。この時代に活躍した預言者が二人いました。
ひとりは、「第二イザヤ」と呼ばれた正体がよくわからない人物です。彼が個人なのかグループで活動していたのかもよくわかっていませんが、聖書の中のイザヤ書40~55章の記述が第二イザヤと呼ばれています。
もう一人はエゼキエルという人物です。この二人はバビロン捕囚中に活躍していましたが、第二イザヤがバビロン捕囚末期の預言者で、エゼキエルは捕囚期の前半に活動していました。ですから、お互い接触はなかったと思われます。
バビロン捕囚はいっぺんに行われたのではなく、3回起こっています。最初の捕囚でユダ王国の王ヨヤキンが強制的に廃位させられ、バビロンに連れて行かれました。この時、エゼキエルも捕囚になった人々と一緒にバビロンに移り住みました。バビロンに来て5年目に、エゼキエルは預言者として活動を始め、それから数年後、ユダ王国の最後の王がバビロンに反旗を翻しましたが、エルサレムが陥落し、ユダ王国は滅亡しました。その報告をエゼキエルはバビロンで聞いたと、33章21節に記しています。
王国が滅亡した後、かつてのユダ王国は新バビロニア帝国の占領地として総督がおかれていました。
ちなみに、バビロンは町の名前で、新バビロニアは国の名前としておきます。はるか以前にもバビロニア帝国がありましたので、聖書の時代のバビロニアを「新バビロニア」と呼びます。
新バビロニアの占領地となったユダヤ地方で再び反乱がおき、それを制圧した新バビロニアはその土地の人々をバビロンに連行しました。これが第3回バビロン捕囚で、これにより、ユダ王国は完全に壊滅してしまいました。
1、エゼキエル書の構成
エゼキエル書は四つの部分から成っています。1~24章は同胞のユダヤ人(イスラエルの民)に対する神の裁きについて、25~32章はパレスチナにある諸民族に対する神の裁きについて。ここまでが、3回のバビロン捕囚が行われた頃の預言になります。
33~39章は、ユダヤ人に対する神の救済の預言、40~48章で「新しい神殿」の幻を語り、エゼキエル書が終了します。後半の33章以下が、バビロン捕囚が短期間で終わらないことがはっきりしてからの時代ということになります。
2、エゼキエル書のメッセージ
エゼキエル書のメッセージの特徴は、バビロン捕囚という大きな悲劇をいかに受け止めるかということです。当然、エゼキエル自身、その問題をどう受け止めるかという課題に直面しているわけですが、バビロンで捕囚となっている人々もかかえているその問題についての神のメッセージを伝えているのです。大雑把に言いますと、そのメッセージは三つあります。
第一は、なぜ、神の民である自分たちがバビロン捕囚という大きな悲劇に遭っているのかということです。
第二は、バビロン捕囚になっている自分たちは、神から見捨てられたのかということです。
第三は、罰を受けているイスラエルの民に対する神の救いのメッセージです。
3、なぜ、神の民がバビロン捕囚という大きな悲劇に遭っているのか
この問題を扱っているのが1~24章です。ただし、1~3章はエゼキエルが預言者として召されたことについて記されています。幻想的な彼の召された時の様子が記されているのも、このエゼキエル書の特徴です。ここにはその時の様子だけではなく、3章16節から預言者として神から与えられた使命と責任が記されています。その使命とは、神が語られと命じられたことを、必ずイスラエルの民に伝えるということです。このこと自体、エゼキエルだけに与えられているのではなく、他の預言者たちにも同じような使命と責任が与えられていました。なのになぜ、このことをわざわざ告げられたかと言いますと、宮廷で王に仕えていた預言者たちの中には、神の言葉を伝えるよりも、王や権力者たちに喜ばれる言葉を語る人々も多くいたからです。エゼキエルの預言者の召命の記述は、預言者は神に忠実に語らねばならないことを、あらためて示しているのです。
さて、4章から24章までに、同胞のユダヤ人(イスラエルの民)に対する神の裁きについて記し、神に対する罪のゆえに、神がバビロンを用いて、イスラエルの民を捕囚という罰を与えているということを示しています。
こういう厳しいメッセージを語らねばならないと、神はエゼキエルに命じたのです。
4、バビロン捕囚になっているイスラエルの民は、神から見捨てられたのか
バビロンで捕囚となっている人々は、捕囚が神からの罰ということは理解しました。しかし、それでは我々は神から見捨てられたのかということが、次の大きな問題でした。
これに対して、神は決してイスラエルの民を見捨てたのではないと、預言者は宣言します。
5、あなた方がどこにいても、神は共にいる
エルサレムから遠く離れた地に連れてこられたイスラエルの民は、自分たちが神から引き離されたという思いを強く持っていました。神殿で礼拝することができない。そもそも様々な異教の祭儀が行われるバビロンで、自分たちの礼拝がどこまで可能か不安でしたし、またそのような祭儀をバビロンで行っても意味があるのかという不安もありました。
預言者エゼキエルはそのような彼らに神の言葉を伝えます。「確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。」(11:16)と。
神は立派な建物におられるのではありません。たしかに、エルサレムの神殿は壮大で立派な宗教施設でした。しかし、かつて、荒野の時代には組み立て式の礼拝所「臨在の幕屋」があっただけでしたが、どこへ移動するときも、幕屋を分解しては組み立てて礼拝所を造り、礼拝しました。バビロン捕囚の時、そのような臨在の幕屋はなかったでしょうし、動物をささげる宗教儀式もかなり縮小されていたであろうと思われます。そのような儀式よりも、普通の民家と変わらないような建物で礼拝することが、主流になっていったのではないかと思います。新約聖書に出てくる「会堂(シナゴーグ)」がこの時代から礼拝所として使われるようになったと思われます。
神はエルサレムのような特別の場所にしかおられないというのではなく、神の民といつも一緒にいてくださるのです。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という言葉は、クリスマスによく聞く言葉ですが、これは旧約聖書から新約聖書を貫いている私たちの信仰です。エゼキエルが告げた「彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった」という言葉もその信仰を告げているのです。
ですから、神はイスラエルの民を決して見捨ててはおらず、どこにいても神は彼らと共にいてくださるのです。
6、罰を受けているイスラエルの民に対する神の救いのメッセージ
33章からユダヤ人に対する神の救済の預言が語られます。
1~9節で、預言者の務めについて神から告げられます。その内容は、3章とほぼ同じで、「エゼキエルの第二の召命」と呼ばれます。
10~20節は、人々に語るべき「悔い改めの勧め」が記されています。ここに記されている内容は、18章に記されていることとほぼ同じですが、18章の方がもう少し丁寧に語られています。
33章10~20節において、特に印象的なのは11節の「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」という言葉でしょう。
悪人が自らの罪によって滅びることは、当然と考えられていました。私たちも同じように考えるのではないでしょう。しかし、神は、悪人が滅びるより、悔い改めて神の前に正しく生きることを望んでいるというのです。もちろん、悪人が悪から離れることなくそれまでと変わらずに生きることを勧めているのではありません。「悪から離れなさい」「神に背くのではなく、神に喜ばれる生き方をしなさい」と呼びかけているのです。
これと反対に、正しい人であっても、その正しさから離れて悪を行うならば、その悪のゆえに死ぬと警告されます。かつての正しさは覚えられないというのです。
正しさ。善い行い、善行と言っても良いでしょう。それは貯金とは違うというのです。
貯金ならば、たくさんの蓄えがあれば、少々借金しても、貯金がその分減るだけで、大きな損失にはなりません。しかし、善と悪に関しては、そうはいかないというのです。どんなに良い行いを積み重ねても、後で悪い行いをし続けるなら、神の裁きを免れないというのです。
なかなか納得できないことです。エゼキエルの言葉を聞いた人々も同じでした。納得できない人々は、「主の道は正しくない」「主の道は公正ではない」と反論します。しかし、神は逆に、イスラエルの人々こそ、正しくないと宣言されるのです。
神は、決して機械的に人を裁くのではありません。すべての人を救おうとされているのです。「立ち帰れ、立ち帰れ」という言葉は、神の叫びです。「私は決して悪人が死ぬことを喜ばない」と言うのです。悪から離れて、「神のもとに帰ってこい」と叫んでいるのです。
こうして、神はイスラエルの人々に悔い改めのチャンスを与え、すべての人々も神の恵みのもとに来るようにと呼びかけているのです。
7、
ローマの信徒への手紙3章で、使徒パウロは「正しい人はいない。一人もいない」と言いました。それはすなわち、すべての人々は自分自身の罪の故に、滅びに定められていると言いたいのです。しかし、使徒パウロはそれと同時に「すべての人に与えられる救い」が用意されていると告げています。それが主イエス・キリストです。彼は言います。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:23~24)。
エゼキエルは「神は悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と言いました。
その言葉は、主イエス・キリストによってすべての人々の上に、注がれています。神は私たち一人ひとりの名を呼んで「わたしはあなたの死を喜ばない。あなたが私と一緒に生きることを喜ぶ」とおっしゃってくださっているのです。私たちを命へと招いているのです。
使徒パウロは、「このように神は忍耐してこられたが、それはイエスを信じる者を義とするため」と言っています。
旧約聖書は、神の民イスラエルの歴史を通して、すべての人々を救うために忍耐してこられたことを明らかにしています。それは、同時に今ここで神を礼拝している私たちが、救いにあずからせようとし、また神と共に生きるようにと忍耐してくださっているです。
罪人である私たちを赦し、神の前に生きるようにと招いてくださる神の招きに応えて、歩んでいきたいと思います。
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