聖 書 民数記14章26節~35節
ヘブライ人への手紙12章5b節~11節
説教題 荒れ野の生活の始まり
説教者 松原 望 牧師
民数記14章26~35節
26 主はモーセとアロンに仰せになった。27 「この悪い共同体は、いつまで、わたしに対して不平を言うのか。わたしは、イスラエルの人々がわたしに対して言う不平を十分聞いた。28 彼らに言うがよい。『主は言われる。わたしは生きている。わたしは、お前たちが言っていることを耳にしたが、そのとおり、お前たちに対して必ず行う。29 お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう。わたしに対して不平を言った者、つまり戸籍に登録をされた二十歳以上の者はだれ一人、30 わたしが手を上げて誓い、あなたたちを住まわせると言った土地に入ることはない。ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別だ。31 お前たちは、子供たちが奪われると言ったが、わたしは彼らを導き入れ、彼らは、お前たちの拒んだ土地を知るようになる。32 しかし、お前たちは死体となってこの荒れ野で倒れる。33 お前たちの子供は、荒れ野で四十年の間羊飼いとなり、お前たちの最後の一人が荒れ野で死体となるまで、お前たちの背信の罪を負う。34 あの土地を偵察した四十日という日数に応じて、一日を一年とする四十年間、お前たちの罪を負わねばならない。お前たちは、わたしに抵抗するとどうなるかを知るであろう。35 主であるわたしは断言する。わたしに逆らって集まったこの悪い共同体全体に対して、わたしはこのことを行う。彼らはこの荒れ野で死に絶える。』
ヘブライ人への手紙12章5節b~11節
5「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
「 説教 」
序、神の最初の計画 シナイからカナンへ
今日読んでいただいた民数記14章には、イスラエルの民が荒野で40年間を過ごす理由が記されています。
神は、エジプトを脱出した人々に、はじめから40年間荒野で生活させようと計画したわけではありません。むしろ、神は、シナイ山において彼らに十戒を授け、神との契約によって神の民とした後、すぐカナン(今のパレスチナ)に入らせることを計画していました。
エジプトを脱出してから約二か月が経ち、イスラエルの民はシナイ山に到着しました。一年近く、シナイ山の近くで準備を整えたイスラエルは、神が約束されていたカナンと呼ばれる地、今のパレスチナへと出発しました。(民数記10:11~12)
カナンは、神がアブラハムに与えると約束した土地です。それからすでに400年以上が経過しています。神はアブラハムへの約束を果たすためにイスラエルの民をエジプトから脱出させ、カナンへと導いたのです。
神はイスラエルの民をエジプトから直接カナンへと導いたのではありませんでした。非常に遠回りになりましたが、まずシナイ山へ導き、十戒を与えるとともに、イスラエルの民と契約を結び、彼らを正式に神の民としました。それから臨在の幕屋や神の箱を造らせ、様々な祭儀の戒めを与え、約束の地に向かう準備をさせたのです。その間にも彼らは神に背き、厳しい罰を受けました。モーセの必死のとりなしにより、神はイスラエルの民をカナンに導くと、あらためて約束してくださいました。
エジプトからシナイ山までは約200キロ、シナイ山からカナンの南までが約250キロです。大雑把に言いますと、大阪から金沢まで、そして金沢から富士山までの距離です。
1、最初のカナン侵入失敗までの経緯と原因
カナンの南に着いたイスラエルの民は、カナンに偵察を送ることにしました。イスラエルの民は12の部族からなっており、各部族から一人ずつ偵察に行く人を出すことになりました。
偵察に出かけた12人は約40日間その地を探り、果物などを持ち帰り、「この地は神が言われたように、確かに乳と蜜が流れる地、非常に豊かな土地です」と報告しました。しかし、彼らの報告はそれで終わりではありませんでした。その地には城壁に囲まれた大きな町が多くあり、その住民も体も大きくとても強く感じられたとも報告しました。これを聞いてイスラエルの民の意見は真っ二つに割れてしまいました。偵察に行った12人のうち、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアの二人は「このカナンは確かに神が約束された通りの土地だ。神を信頼して、この地に入っていくべきだ」と主張するのに対し、一緒に行った他の10人の人々は「彼らはとても大きく強そうだった。我々が入っていったら、彼らに殺されるに違いない」と言って反対しました。この人々の言葉を聞いて、イスラエルの民は、カナンの地に入ることを拒み、モーセに対して、「我々を殺すために、この地に連れてきたのか。別の指導者を立ててエジプトへ帰ろう」と、不平を言い始めました。
ヨシュアとカレブは、「このカナンは神が約束した通りの良い土地だ。これまで神が守ってくれたように、これからも我々を必ず守ってくださる」と人々を説得しましたが、民は、かえってヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしました。
この様子を見て、神はモーセに「もはや彼らを捨て、モーセの子孫を彼らの代わりにする」と言います。モーセは再び神に執り成しをします。「ここで彼らを見捨てたならば、それを知った多くの他国人たちは、『彼らの神は、イスラエルを救うことができなかったので、荒野で滅ぼした』と言うに違いありません。それでは神のみ名に傷がつきます」と説得し、神はモーセの言葉を聞いて、「彼らを赦す」と宣言します。しかし、神はさらに三つのことをモーセに言いました。
第一は「イスラエルの民は、神がこれまで繰り返し奇跡を起こし、彼らを導いてきたことを見てきたはずだ。それにもかかわらず、彼らは神を信じることなく、神に背き続けている。そこで、彼らは約束の地に入ることはできない。」
第二は「彼らの子孫が約束の地に入っていく。また、ヨシュアとカレブもその地に入る。」第三は「しかし、今は、荒れ野に向けて出発しなさい」ということでした。
これを聞いたイスラエルの民の中には、「自分たちが間違っていた。今からでも神が示した土地に入っていこう」と、モーセが止めるのにもかかわらずカナンの地に入り、滅ぼされてしまいました。
2、四十年の荒れ野の生活
イスラエルの民は40年間荒野で生活しなければならないと、神から命じられました。
40年は、「長い期間」という意味がありますが、今日の民数記では40年という年数は偵察に行った人々が40日間偵察をしたということから40年間と定められたとあります。
また、この40年は、一つの世代をあらわしています。40年間、荒野で生活するうちに、古い世代はそこで消えて行き、新しい世代がそこで生まれてくるということです。この民数記では、この40年の間に、不信仰の民は、荒野で消え、彼らの子孫が、子ども達が、約束の地に入っていくとあります。彼らは、偵察の人々の報告を聞いて、自分たちの子ども達はカナンの人々に殺されると嘆きましたが、しかし、神は「あなたがたの子ども達が、約束の地に入って行く」と宣言したのです。
このようにして、荒野の40年間は、不信仰の世代が荒野で消え、そしてその子供達が入っていくための期間だと説明されています。
しかし、気を付けておかなければならないのは、この40年間は、古い世代が滅ぶことだけが目的ではありません。もし滅ぶことが目的であるならば、その時、彼らはすぐ滅ぼされたはずです。しかし、神はそうはなさいませんでした。40年の間に、罪ゆえにほろんだ人々も多くいましたが、少しずつ少しずつ、世代交代が進んでいったのです。
彼らが犯した罪は、1度や2度ではありません。そして、その度毎に、彼らはその罪のゆえに、滅んでいきました。結果的に、神がおっしゃったように、40年間の中で、彼らは荒野で消えていき、そして彼らの子供達が約束の地に入っていくことになったのです。これは、厳しく恐ろしい裁きです。しかし、聖書が語る最も大切なことは、私たちを恐怖に陥れたり、絶望させたりすることではありません。むしろ、最も重要なことは荒野での40年間の生活によって、彼らを訓練する事でした。
訓練と言いましても、何も闘いの訓練をするとか、あるいは勉強に勤しむということではなく、神を信頼することを学び、身につける訓練です。
神を信頼することを学ぶ。これが難しいのです。理屈で説明されても、なかなか分かりません。あるいは、受け入れることが出来ません。否、理解することは出来るかもしれませんが、納得は、なかなか出来ません。「理解は十分、納得は半分」というような事が言われます。私たちもよく経験するのではないでしょうか。頭ではよく分かっているのですが、なかなか納得できない。信仰は納得ということではありませんけれども、しかし、聖書のことは、理屈としては分かる。しかし、では本当にそのことを信じることが出来るかというと、なかなかそのようにはいかないのです。
聖書を読めば、信仰が増す。神学書を読めば信仰が増すということであれば、簡単なことかもしれません。しかし、実際にはそうではありません。
信仰が増すために、あるいは神をより信頼するために、本当に大切なことは、神を仰ぎ見つづけることです。神と共にあることの体験をすることです。様々な困難の中で、神が助けてくださっているというということを、繰り返し繰り返し体験することです。
これまでにも、神は繰り返し彼らを養い、敵から守ってこられました。しかし、彼らは十度も神を試みてきたといわれております。そのため、これまで以上に神の助けを経験する必要があると、神は判断されたのです。そのための生活の場が荒野であったのです。
豊かな所ではなく、何もないところで、神によってのみ生きる。この経験を積み重ねる場所として、荒れ野が選ばれたのです。
豊かなところで、物を得たとしても、それを神の恵みとしては、なかなか受け止めることが出来ません。むしろ、それを自分の力、自分の手の業と考えやすいのではないでしょうか。
しかし、自分の力では、もうこれ以上は出来ない。どうすればよいのか、先が見えない。そういう中で神の導き、神の助けを経験し、神は確かに私達と共にいてくださり、私達を助けてくださったという経験をするのです。その経験を重ねることによって、私達は神を信頼していくことを身につけていくのです。
この訓練は、奇跡によるだけでなく、常に臨在の幕屋が彼らの真ん中にあり、神が共にいてくださることを確認しながらの訓練でした。
こうして、彼らの40年間の荒野の生活は、その信仰の訓練、神を信頼することの訓練として必要だったのです。
私たちも、この地上における生涯、40年という年数ではないと思いますけれども、しかし、私たちがそれぞれ与えられている人生という期間は、まさに荒野における神の民と同じように、神の訓練の時として、理解しておくことが大切です。信仰を持ったからといって、私たちはすぐ豊かになるわけではありません。いつも幸せな気持ちで一杯だとか、それがずっと永遠に続くというわけではありません。苦しみ、悲しみ、また辛い思いをします。しかしそういう中で、神は私たちと共にいてくださるという経験を積み重ねていくのです。
3、神を信頼するようになるための訓練としての荒れ野の生活
コリントの信徒への手紙一10章に、神に罪を犯し続けた荒野の民のことが書かれています。そして、「これらのことは、今新しい契約に生きるあなたがたのために記されているものだ」と説明しています。そして、13節で次のように励ましています。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
試練というのは、決して楽なものではありません。むしろ辛くて、苦しくて、悲しくて,もうどうにもならないというときがあります。しかし、神は、私たちを決して見捨てることはありません。
先ほど読んでいただいたヘブライ人への手紙には、私たち信仰者が、地上における生涯の中で、神がいかにして訓練してくださるのか、しかもその訓練は、私たちを神様の子供として取り扱ってくださるがゆえに、与えられる愛の訓練であると告げられているのです。ですから、神からそのような試練を受けている時に、意気阻喪してはならない。むしろ、かえって神を信頼しなさい。地上においては、肉親を、肉の父を尊敬するではないか。それ以上に、私たちのたましいの父である神を信頼しなさいと、教え勧めているのであります。
旧約聖書の出エジプト記から申命紀、ヨシュア記にいたるまでのエジプト脱出の物語、そして、40年の荒れ野の生活の物語は、私たちの信仰生活のための比喩と考えることができます。
エジプトを脱出した人々が荒野を経て、神が約束してくださった地に入っていったのと同じく、私たちもまた、第二のエジプト脱出をし、それぞれに与えられている人生という荒野での生活をしているのです。
旧約聖書に記されている出エジプト記では、旧約の神の民は、エジプトを脱出しましたけれども、新しい契約に生きる私たちは、罪から脱出をしたのです。かつての神の民が、モーセに導かれて約束の地に向かっていきましたが、私たちは、主イエス・キリストに導かれて、神の約束の都へと向かっているのです。
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