礼拝

7月28日(日)主日礼拝

聖 書  レビ記16章11節~19節
     ヘブライ人への手紙10章12節~18節
説教題  罪を贖う(あがなう)唯一の献げ(ささげ)
説教者  松原 望 牧師

レビ記161119

11 アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。12 次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、13 主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。14 次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。15 次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。16 こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。17 彼が至聖所に入り贖いの儀式を行って、出て来るまでは、だれも臨在の幕屋に入ってはならない。彼は、自分と一族のために、またイスラエルの全会衆のために贖いの儀式を済ますと、18 主の御前にある祭壇に出て来て、そのために贖いの儀式を行う。彼は雄牛の血と雄山羊の血の一部を取って祭壇の四隅の角に塗り、19 血の一部を指で七度祭壇に振りまいて、イスラエルの人々の汚れからそれを清め聖別する。

ヘブライ人への手紙101218

12 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、13 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。14 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。15 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。16 「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。7 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」18 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。

「説教」

序 

先週の礼拝では出エジプト記40章を読みましたが、その出エジプト記に続くのが今日のレビ記です。創世記と出エジプト記は、神の天地創造の物語から始まり、イスラエルの民がエジプトを脱出する物語へと続いていきます。

レビ記は、十戒を受けたイスラエルの民がシナイ山を出発した後の出来事を記しているわけですが、その内容は宗教的な儀式や戒めがほとんどで、物語はほとんど出てきません。そのため、聖書をはじめから最後まで通読しようとする人が多くいますが、このレビ記でほとんど前に進まないとか、中断してしまうことが多い場所です。私自身も、何度も通読を試みましたが、このレビ記を読み進めていくのが一番むつかしかったという記憶があります。

しかし、このレビ記には聖書のほかの箇所にはない重要なことが記されています。それが贖罪ということです。

今年度、金沢元町教会の礼拝において、神がその独り子を地上に遣わすまでに準備してこられたことを見てきていますが、特に重要なのがこの贖罪の教えです。

これまで、人間の罪について何度も語ってきました。そして、それは確かに重要なことですが、それ以上に重要なことが今日の贖罪ということです。これがなければ、罪を語ることは私たちを苦しめるだけです。聖書は、私たちを苦しめるために書かれたのではありません。むしろ、神が私たちの罪を赦し、救ってくださったという事実、そしてその喜びを告げているのです。

ですから、贖罪は、聖書の中でも特に重要な信仰で、その重要性から、キリスト教は「贖罪の宗教」と呼ばれることがあります。そのように呼ばれるのは、主イエス・キリストの十字架に、贖罪という意味があるからで、今日のレビ記に記されている贖罪の教えと切っても切り離せない重要なつながりがあるのです。

使徒パウロが「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(Ⅰコリント2:2)とか「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはならない」(ガラテヤ6:14)というのもキリストによる贖罪がいかに重要であるかを示しています。

このキリストの贖罪により私たちは救われているのですが、神は、この贖罪による救いをあらかじめ用意しておられ、それが今日のレビ記に記されているのです。

1、贖罪

旧約聖書には、神に動物を献げる場面が何度も出てきます。たとえば、創世記4章ではカインの兄弟アベルが動物を献げていますし、洪水の難を逃れたノアが動物を神に献げています。(創世記8:20)

神に動物を献げることにはいろいろの意味があったようですが、特に重要な献げ物は贖罪の献げ物です。この贖罪の献げ物について詳しく記しているのはレビ記で、他にこれほど詳しく説明しているところはありません。

レビ記1~3章には様々な供え物の方法が記され、4~5章で贖罪の献げ物について記されています。

この贖罪の儀式ついて重要なことは、

第一に、罪を犯した人が傷一つない動物を用意すること

第二に、献げる人はその動物の頭に手を置くこと

第三に、その動物を屠り、祭司がその動物の血を指に付け、その血を祭壇の四隅に付けること

第四に、祭司がこのようにして罪を贖う儀式をすることによって、その動物を献げた人の罪が赦されるということです。

無傷の動物が犠牲として献げられることは贖罪の供え物に限ったことではありませんが、この贖罪においては特に大切なこととされました。これは主イエス・キリストが真の神の独り子であり、私たちと同じ人間になってお生まれになったということとも関係するのですが、このことについては別の機会にお話しすることにします。

献げる人が動物の頭に手を置くというのは、献げる人がその動物と一体となり、その人の罪が動物へと移るという意味があります。

動物を屠った後、その動物の血を祭壇に付けるのは、動物の命を神様に献げるということです。このことはレビ記17章に「動物の血を食べてはならない」という戒めがありますが、その説明として「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。」(17:11~12)とあります。動物の命は神の支配のもとにあるので、その命を神に返さなければなりません。その命を神に返す象徴行為として、動物の血を祭壇に付けるということです。

その動物の血を祭壇に付けるのは祭司の役目でした。祭司は神と人との間に立ち、神の意志を人に伝えるとともに、その罪を犯した人の執り成しをするのです。このようにして、祭司は罪を犯した人の罪が赦されるように罪の贖いの儀式をするのです。

2、祭司

このように、祭司の務めの中でも重要な働きは、罪の贖いの儀式をすることでした。もちろん、それ以外にも多くの儀式・祭儀があり、それらを行うのも祭司の重要な務めです。しかし、特に罪を贖う儀式は重要だったのです。

祭司の制度が整っていなかった時代は、必ずしも祭司が執り行わなければならないということはありませんでした。しかし、しだいに、神への献げ物についての考え方が深まり、複雑になってくると、献げ物を献げる儀式の専門家として、また神への執り成しをする重要な働きの故に、祭司の重要性が高まっていったのです。そのもっとも重要な祭司の務めが贖罪の日の儀式でした。今日司式者に読んでいただいたレビ記16章に、その儀式についての説明が記されています。

3、贖罪の日の規定 レビ記16

レビ記4~5章に記されていたのは一般に行われる贖罪の儀式でしたが、16章に記されている「贖罪の日」の儀式は特に重要とされています。それは、一人ひとりの罪に対する贖罪ではなく、イスラエル全体の贖罪の儀式だからです。これは年に一回行われ、神殿がある時はもちろん、神殿がない今の時代は犠牲を献げてはいませんが、この日を大切にしています。これは毎年秋に行われる祭りで、今年は10月中旬に行われます。

レビ記16章に、この贖罪の儀式は、大祭司が神殿や臨在の幕屋の奥にある至聖所で行うと定められています。たとえ大祭司であっても、この「贖罪の日」以外の日には至聖所に入ることはできません。「贖罪の日」にだけ至聖所で贖罪の儀式を行うのです。

その至聖所には十戒などが納められている神の箱(「契約の箱」とも言う)があり、その蓋の部分に「贖いの座」と呼ばれるものがあります。その「贖いの座」に、先に屠った動物の血を指先に取り、七回垂らします。この時、香を焚き、「贖いの座」が煙でおおわれるようにします。直接それを見ることを避けるためです。この儀式をしているとき、神がその「贖いの座」の上におられ、その神を直接見ると死ぬと警告されているからです。

こうして、イスラエルの民全体の罪の贖いの儀式が行われたのです。

4、「ヘブライ人への手紙」の証言

以上見てきましたように、贖罪の儀式がとても重要だということが分かります。それほど重要なことであるなら、私たちは、その贖罪の儀式をしなくても良いのでしょうか。

今の時代、私たちにとって、動物を犠牲として献げることには抵抗があります。私たちが贖罪の儀式をしないのは、動物がかわいそうだからでしょうか。もちろん、動物がかわいそうだという気持ちがあることは自然なことです。しかし、私たちが動物を犠牲として献げないのは、そういう理由からではありません。この贖罪の儀式が重要であることは、今の私たちにとっても変わりはありません。しかし、この重要な儀式を、もはやする必要がなくなったのです。ですから、私たちの礼拝では、動物を献げることをしていないのです。

なぜ、贖罪の動物を献げる必要がなくなったのでしょうか。

それは、主イエス・キリストが完全な贖罪の業をしてくださったからです。そのことを最も強く語っているのが、ヘブライ人への手紙です。

先ほど、レビ記に記されている、大祭司が年に一度行う動物の血を用いての贖罪の儀式について見てきました。

ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストが十字架にかかられたことにより、動物の血を用いた贖罪よりもはるかに完全で、永遠の贖罪が行われたと語っています。そのヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストの贖いがどのように完全だと言っているのでしょうか。

5、「唯一の献げ物」

ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストについて「唯一の捧げ物」と言っています。他のところでは、「永遠の贖い」(ヘブライ9:12)とも語っています。

また、主イエスは地上の生涯において、祭司であったことはありませんが、永遠の贖い、御自身の血による完全な供え物をした大祭司だと説明します。地上の大祭司は、毎年、贖罪の儀式を神殿において行いましたが、十字架の上で流された主イエス・キリストの血は、完全な贖いの力を持っているので、ただ一回だけ行われ、その贖いの力は永遠のものだというのです。ここに、私たちが動物を献げる必要がなくなった理由があるのです。

6、永遠の効力

十字架にかかられた主イエス・キリストの贖罪の力が完全であり、永遠に効力があるので、私たちは繰り返し動物を献げる必要がなくなりました。

キリストによる贖罪と比べると、レビ記に記されている贖罪は不完全としか言いようがありません。しかし、それは無意味であったとか無駄だったということではありません。

第一に、主イエス・キリストによる完全な贖いを指し示す設計図、あるいは模型であったと言えます。家を注文した人が家を建てる専門家から、工事を始める前に、設計図や模型によってどのような外観になるとか、どのように機能し、どんなに住み心地がいいかを説明を受けるのに似ています。

第二に、レビ記に記されている贖罪には限界があり、一時的ではありましたが、キリストが来られるまで贖罪の効力はあったのです。

第三に、レビ記に記されている贖罪は、キリストの贖罪が土台であり、贖罪の根拠なのです。すなわち、時間の流れからすると逆に見えますが、キリストの贖罪がなければ、レビ記の贖罪に意味はないということです。

限界があり、一時的に効力を発揮していたレビ記の贖罪は、キリストが来られたからには消えていくしかないのです。

さて、十字架のキリストに、私たちは結ばれています。このキリストに結ばれているからこそ、私たちは動物の犠牲を献げる必要はありません。キリストの故に、私たちを罪から救う贖いは完全であり、永遠です。それ故に、私たちの救いも完全であり、確実なのです。

7、キリストの名による洗礼

私たちがキリストに結ばれているのは、キリストの名による洗礼を受けたことによります。この洗礼を受けることにより、永遠の贖罪をしてくださったキリストと一体となるのです。キリストと一体となっているので、私たちの罪は十字架のキリストによって完全に贖われ、永遠の贖いを受けているのです。

キリストに結ばれ、永遠の贖いを受けるということはどういうことなのでしょうか。

それは洗礼を受ける以前の罪が赦されるばかりでなく、洗礼を受けた後に犯した罪も赦されるということです。ですから、私たちは何回も洗礼を受けるということをしません。ただ一回の洗礼によって、私たちの罪が完全に贖われ、私たちは救われているからです。

主イエスは、この救いをもたらすために、父なる神から遣わされたのです。そして、神はこの救いをあらかじめ私たちに示すために、贖罪の教えを与えてくださったのです。

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