週 報
聖 書 ヨハネによる福音書14章25節~31節
説教題 立ち上がる勇気の源泉
讃美歌 113,346,481,26
私が、この金沢元町教会に遣わされて、今年度で七年目になります。
七年は、決して短くない年数だと思います。
0歳だった我が家の末っ子は、来年には小学生になります。先週は、初めて親元を離れ、白山までお泊り保育に行ってきました。
信仰の面でも、成長が与えられました。
あるCS教師が、我が家の子どもたちの日頃の言動を聞いて仰いました。
大澤家の子どもたちにはごまかしがきかない。
教会学校の礼拝が始まっていつまでもぺちゃくちゃと子どもたちが私語をしているとき、たとえば、「静かにしないと、神さまのお祈りが聞こえないよ」と言うと、すかさず、我が家の子どもが反論するというのです。
「そんなこと絶対にない。どんなうるさいところでも、神様には、聞こえるもん。」
「神さまに喜ばれる良い子になりましょう。」
これも通じません。「神さまは、どんな子のことも愛してくれるもん。」
私自身が驚かされます。この子は、金沢元町教会の牧師が語って来た通りのことを語る。
けれども、CSの子どもだけではありません。
当のCS教師だって同じです。この説教壇から語られているのと同じ種類の言葉が語られていると実感することががしばしばあります。
私と、この教会の関係も、生まれたての乳飲み子が、自分の足で立って、親元を離れ、一晩過ごすことのできるような年月を重ねたのです。
先週水曜日の朝晩の祈祷会に出ながらも、確かにそういう年月を重ねてきたのだという思いを深くいたしました。
朝の祈祷会でも、夜の祈祷会でも、出席者の方々が、私の読むような聖書の読み方を、するようになってきたと、感じさせられています。
ある方が仰いました。今、祈祷会が楽しくて仕方がない。あの人、この人も誘いたい。ここで、語り合われる言葉を聴いてほしい。ここで解き明かされる聖書の言葉を一緒に聴いてほしい。
これは誇っているのでも何でもありません。
牧師とは結局、自分が読むように、教会の仲間に教会に集う方に、自分と同じように聖書を読めるようになってもらうために働く者のことです。
そして、事実、私の聖書の読み方は、年端のいかない子どもにだってできるような、子どもだってすぐマネできるような聖書の聴き方をしているに過ぎないのです。
もちろん、私の聖書の読み方は一人の人間として、欠けのあるものです。神の御心の全体を余すところなく、読み抜けるものではありません。断片的なものです。
神様の赦しと、教会の信頼がなければ、語れません。
聖霊の助けがなければ、語る言葉などありません。
けれども、聖霊は助けてくださいます。今、語る言葉が目の前にあります。
この頭と心と存在を揺さぶって来て、語らずにはおれない、喜びの知らせが、目の前にあります。
自分を動かす言葉でなければ、自分が味わっている恵みがなければ、どうして、人を動かすことができるでしょうか?
今日の聖書箇所によって、今、私を捕らえているキリストは、この言葉によって、皆さんのことをも捕らえることを願って、今日、私をこの礼拝の説教者として立てていると信じます。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。脅えるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻ってくる』と言ったのをあなたがたは聞いた。」
神は、あなたがたに平和を与えると約束されます。
皆さんの毎日は平和ですか?平和であると答えられるならばどういう意味で平和でしょうか?
家族がみんな仲良し。自分にも、家族の誰にも大きな病気がない。食べて行けるだけの仕事や貯えが一応ある。学校や、職場、ご近所との人間関係に恵まれている。だからまあ、平和と言えるかな?
あるいは、どういう意味で、自分の生活は平和でないとお感じになるでしょうか?
先ほど申し上げたことの裏返しの出来事の一つ、二つが、身辺にあるということでしょうか?
今日の聖書箇所を読みながら、私自身、自分の心に問わずにはおれませんでした。
一体、キリストのくださる平和が、私の生活のどこにあるのだろうか?
その平和が、私の生活のどこに具体的な形を取っているのだろうか?
もちろん、ご心配頂かなくとも、私の生活はいたって普通です。
色々あっても、元気にしています。
けれども、それがキリストのくださる平和なのだろうか?
家族がみんな仲良し。自分にも、家族の誰にも大きな病気がない。食べて行けるだけの仕事や貯えが一応ある。学校や、職場、ご近所との人間関係に恵まれている。
完全でなくても、色々と目を瞑った上でだけれども、まあ、合格点と言えるならば、それがキリストのくださった平和だと言えるのか?
この言葉をぐるぐる思い巡らしながら、それは、違うと私は思います。
なぜって、私たちの考えている平和の常識をくじいて主イエス御自身が続けて仰っているからです。
「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」
世が与える平和、それは、世に生きる私たちが想像し、期待する平和のことでしょう。
平和を与えると言われたら、あれやこれやそれが与えられると期待する、今、私たちの心に浮かんでいる平和のことでしょう。
世の与える平和、これを最初に聴いた者たちの脳裏には、たとえば、パックス=ロマーナ、ローマの軍事力によって成し遂げられた帝国内の平和ということが思い浮かんだかもしれません。
転じて、パックス=アメリカーナ、私たちの国のこれまでの平和とその下での繁栄をもたらしたアメリカの強い経済、強い軍事力による平和ということも思い起こすことができます。
そんなに大げさな、世界史のことを考える必要もありません。
先ほど挙げたような、ごくごく身近でささやかな私たちの健康、経済、人間関係、子ども、孫の健やかな成長が、ローマやアメリカに代わって、私たちの平和と平安を支える小さな小さなローマであり得ると思います。
それがあるならば、平和だと言い、そうでないならば、平和がないと私たちが普段考えている平和と、平和のものさしがきっとあります。
しかし、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」仰る方は、続けて、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」と仰います。
だから、申します。
これらのものは、ここでキリストがくださると約束してくださっている平和とは、違います。
けれどもだからこそ、申します。
この世の与える平和が、私たちの満足する合格点に少しも達しなくても、私たちは、キリストの平和、この世ではなく、天の父がくださる本当の平和を頂くのに、何ら障害となることはありません。
しかも、それは、単なる次善策なんてものではありません。
具体的な平和に代わる、次善策としての精神的な平和というのではありません。
この世的には、平和ではない私たちの生活を耐えやすくする、我慢できるようにする程度の消極的な平和ではありません。
31節の後半、今日読んだ聖書箇所の結びとして、この平和を与えてくださる方がこう仰るからです。
「さあ、立て。ここから出かけよう。」
キリストのくださる平和は、私達がもう駄目だ。ここからは立ち上がれない。ここからは出て行けないという所から、私達を立ち上がらせ、出て行かせることのできる力を持った平和です。
それがどれほどすさまじい力を持ったものであるか。どんなに大きな困難の中からも立ち上がらせ、うずくまったところから、新しいところへと出て行かせる力であるかは、使徒たちの歩みを思い起こせばわかることです。
たとえば、Ⅱコリント11:22以下で、使徒パウロは、私達が常識的に考える平和とはおよそ似ても似つかない自分の生活を語ります。
その生活は誇れるものは自分の弱さしかない、弱さだけならば売るほどあるというようなものでした。
けれども、このような弱さに生きるパウロがはっきりと次のように言うことができたとも、同じ手紙の6:8以下に書いてあります。口語訳で読みます。
「わたしたちは人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。コリントの人々よ。あなたがたに向かって私たちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい」。
ここには、今日、私たちが聴いている主イエスの言葉を、自らの言葉で言い直し、勧めている人がいます。主イエスの平和の約束は、教会の歴史の中で、直ぐに、現実となったのです。
パウロの声と、主イエスの声は、完全に重なり、世の常識的な平和を超える真に力強い新しい平和に生きる者の声が聞こえています。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。脅えるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻ってくる』と言ったのをあなたがたは聞いた。…さあ、立て。ここから出かけよう。」
今日、あなたがわたしの声を聴いて立ち上がるんだ。あなたが、パウロに倣う者となるのだ。パウロと声をそろえて、この平和に人を招く者となるのだ。
これこそが、キリストが約束された平和です。私たちの置かれた状況が整うことによって、実現される平和ではなく、人生の嵐の真っ只中にあって、私たちを立ち上がらせ、歩ませることを可能とするすさまじい平和です。
このように私たちを立ち上がらせる勇気の源とは、主イエスのくださる平和のことでありますが、結局、この平和とは、26節で主が語られる聖霊のことです。
この聖霊はすべてのことを私たちに教えることによって、平和を与えてくださいます。今、私たちがどこにあるのか?どんなふうに置かれているのか?見通しを与えてくださる。
しかし、それはすべてのことと言っても、一から十まで詳らかにということではないでしょう。
そうではなく、一番大切なこと、これがわかれば、どんな嵐の中に置かれていても、わたしは滅びない。最終的には髪の毛一筋も失われない。大丈夫。安心だという、一番大切なことを、わかりやすく教えてくださるのです。
その聖霊が教えてくださるという「すべてのこと|と交換可能な一番大切なこと、26節は、それは、「わたしの話したことをことごとく思い起こさせる」ことだと主イエス・キリストは言い直されます。
もう少し突っ込んで言います。
神から私たちの元に遣わされる聖霊がもたらす平和とは、その弁護者聖霊によって、私たちのところに戻って来られる主イエス・キリストご自身のことだということです。
なぜならば、聖霊が来られ、私たちに思い起こさせる主イエスの言葉とは、何よりも、次のような言葉だからです。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(14:18)
こう仰った主イエスが、聖霊の到来によって生きたお方として、わたしたちと再び出会われる。これが、勇気の源です。
なぜ、常識的な平和がないところで、なお私たちは平和でいられるのか?
その試練と苦難をじっと耐え忍ぶどころか、立ち上がり、新しい歩みを確かな足取りで始めることができるようになるのか?
聖霊という不思議な神の力が降り、聖書に記された神の戒め、主イエスの御言葉を守る力を与えられるからではありません。
生ける主イエスが、皆さんのところに戻って来られるからです。
あなたが弱くとも、あなたと共におられる主イエスが強いからです。だから大丈夫。安心して良い。
この方は仰います。30節です。
「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」
なぜ、主イエスが共におられることが分かるか?どうして主イエスが共におられるならば、弱いままでも強いのか?どんな嵐にあっても、立ち上がり、歩み出すことができるのか?本当に主イエスが共におられ、私たちが滅びないようにしてくださるのか?
あなたがたは、もっと明確に聴きたいと思うかもしれない。いくら聴いても安心できないかもしれい。けれども、もはや、多くを語るまい。
世の支配者が来る。このわたしイエスを十字架につけに来る。
これ以上、語る必要はない。語るべきことは語った。だから、ここからはわたしに起こることを見ていなさい。わたしの十字架を見ていなさい。
この世の支配者が、わたしを捕えに来る。しかし、「彼はわたしをどすうることもできない。」それを見ていなさい。
ローマの信徒への手紙6:4以下に、洗礼を受けてキリストのものとなるということが一体何を意味するのかを語る使徒パウロの言葉があります。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」
だから、十字架を目前にした主イエスの、もはや、多くを語るまい、見ていなさいとは、わたしたちの現実に向かっても語られていることと理解するべきです。
主イエスに起こることは、私たちの身にも起こるのです。主イエスと私たちが一つに結ばれているからです。
だから、見ていなさい。あなたは滅びない。見ていなさい。必ずあなたは立ち上がり、歩き出す。
なぜならば、わたしがあなたと共にいるからだ。わたしがあなたと一つに結び合っているからだ。だから、見ていなさい。わたしをどうすることもできなかったこの世の支配者は、あなたのことをどうすることもできない。
そしてこれは、単なる信仰的現実、精神的な現実でなしに、世が知ることになる天の父の愛の現実、わたしと父の間になり、また、あなた自身がそこに巻き込まれている愛の現実だ。
このような神の愛の作り出す平和が事実、わたしたちの現実となっております。
教会を見てください。わたしを見てください。ここに集うあの人、この人を見てください。
神の平和が、目に見える現実となっております。
この神の平和はあなたの現実ともなりたがっています。
いいえ、既にあなた自身の現実であることに気付いてほしいと、今日、キリストは語りかけております。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。脅えるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻ってくる』と言ったのをあなたがたは聞いた。…さあ、立て。ここから出かけよう。」
キリストは聖霊において戻って来られ、あなた自身を住まいとされておられます。あなたがどんなに弱く貧しい者であっても、死の力ですら、どうすることもできなかったこのお方が、あなたの味方です。
心をせばめる必要はありません。
立つことができます。偽りの平和に、いつまでもこだわる生き方から抜け出し、立ち上がり、出かけることができます。
すなわち、いついかなる時にも、私たちをみなしごにはしておかない生ける主イエス・キリストへの愛に、このお方への情熱に、与えられた人生を生きる勇気に、私と皆さんが今、共に立ち、歩み始めることができるのです。
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