週 報
聖 書 ヨハネによる福音書13章21節~30節
説教題 共に囲む食卓
讃美歌 140、56、24
今日は、聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝の祝いの日です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教会の三大祝日ですが、一般には、認知度が一番低いお祝いの日だと思います。
十字架に架けられ、死なれ、墓に葬られ、三日目にお甦りになり、数十日の間、弟子たちの前に度々お姿を現されたご復活のキリストが、天に昇られた後、弟子たちに送られると約束されていた聖霊、キリストの霊が降った記念日です。
そのキリストの霊、神の霊である聖霊は、ヨハネによる福音書14:25の主イエスの御言葉によれば、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」存在です。
つまり、キリストの言葉を、この胸深くに届ける存在、キリストの出来事に現わされた神の心を私たちに悟らせてくださる存在です。
教会は古くから、信仰とは、自分の努力や、能力によって持つことができるものではないと信じてきました。一人の人が信仰を持つことができるのは、聖霊によって信仰が与えられるからである。人間がキリスト者、キリストのものとなって生き始めるのは、神の一方的なプレゼントとしての神の霊、聖霊のお働きによると信じてきました。だから、3大祝日の中では一般的には、一番認知度の低い聖霊降臨日、ペンテコステですが、この日は、キリスト教会の誕生日だと言うことができます。
私たちキリスト教会は、自分たちが信仰者であることについて次のように信じています。
私たちは人よりも、優れた感受性を持っているからキリストを信じることができたわけではない。私たちは人よりも、心が清いから神を信じることができるわけではない。私たち教会が神を信じて生きているのは、不思議な神の選びによるのであり、しかも、先に私たちが選ばれたのは、この一方的な神の憐みを告げ知らせるそのサンプルとなるため、神はふさわしくない私をも救われる。だから、あなたにも、神の憐みは注がれている。あなたは神の愛し子、そう信じて良いのだ。
信仰が与えられるというのは神の奇跡であります。信仰が神の奇跡であるという意味は、稀でめったに起こることではないという意味ではなく、人間業ではなく、神業であるということです。一人の人の信仰者としての誕生は、ヨハネによる福音書3:8で主イエスが、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と仰った通りです。
このような状況、このような条件、このようなきっかけがあったから、必然的に洗礼を受けたというようなものではありません。同じ状況、同じ条件、同じきっかけがあっても、神を信じる心が必ず湧いて来るというものではありません。それは、風のように自由に吹く聖霊の自由に属することです。
しかし、もう一度、申しますが、この聖霊の自由さは、私達人間には捕れえ切れず、その通り行く道を捕らえることができないから、めったに起こらないということを意味するのではありません。そうではなく、私たちの側で整えておかなければならない準備は、必要不可欠なものではないということです。
たとえ、今日初めて、聖書からキリストの出来事を聞いたとしても、そのキリストの言葉、そのキリストの姿に心、動かされてしまうことがあるのです。神の霊にとって、私たちが頑なすぎて、働けないなどいうことはあり得ないのです。ご復活のキリストが送られた神の霊は、昨日まで、このお方と何の関係もなかった者を、今ここで御自分との深い繋がりの中に、結びつけてしまうことがおできになるのです。
今日この日、ただただ順番で読んできた聖書の物語の中にも、たいへん不思議な人物が突然登場いたします。
23節です。
「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。」
イエスの愛しておられた者、一般名詞のように聞こえますが、ここでは、固有名詞のように使われている表現です。主に愛されているあの者、例のあの人、これを最初に読んでいた者たちには、その顔がすぐに思い浮かんだであろう特定の人物を指す言葉であったと考えて良いだろうと思います。ところが、不思議にも、そのような主イエスのすぐ隣の席を占める、主に愛されているその人という呼び方だけで誰もが特定できてしまうその人なのに、この人は、ここで初めて登場する人物なのです。
私たちが、だいぶじっくりと数か月かけてこの福音書をここまで読み進めてきて、とうとう、十字架に至る最後の直線が始まったこの最後の晩餐の席上で、そんな人物が、初めて登場するのです。そして、ここだけで消えるわけではなくて、最後の章である第21章においても、福音書の最初から最後まで、弟子の代表であり、一番弟子と目されるシモン・ペトロと並ぶ者として、それどころか、自分以上に、主から重んじられているのでは?と、ペトロが気になって仕方がない「イエスの愛しておられた弟子」として、語られるのです。
そのような注目すべき人物が、何の前触れもなく唐突に登場いたします。いいえ、厳密に言えば、前触れはありました。前触れとは、まさに、先ほど、ご紹介した主イエスの言葉、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」という言葉にありました。
聖霊が働かれ、主イエスの言葉を真の羊飼いの生きた声として聴かせて頂き、深く深く主の愛を悟らされ、自分が主のすぐ隣におり、その胸に自分の身を預けていることを、ただ、主の憐みによって、知らされた者の姿、そういう神の奇跡による信仰者の典型がここにあるのです。
今日、洗礼を受けられる友に、この「イエスの愛しておられた者」の姿の中に、御自分の姿を見出すことが許されていると、特に、お伝えしたいと思います。
神が選んでくださいました。幼い頃から、キリスト教主義の学校に通い、聖書の神様を身近に感じていたのに、この時に至るまで、その信仰を公に言い表すきっかけはありませんでしたが、半年前に不思議にもこの教会に招かれました。
そこで不思議な出会いが与えられました。
どうしたら信仰を持てるのだろうか、どうしたら信じ切れるのだろうか、どうしたら、神さまがここにいらっしゃることを、実感することができるのだろうか、どうしたら、疑いを振り払うことができるのだろうかと逡巡している間に、しかし、神の生ける言葉が、その胸に飛び込んできてしまいました。
人間の不信仰が問題とはならない、神の招きを聞き、御自分が神に愛されている、神の愛し子であることを、受け入れました。
気付いたらそのような者であったのです。ただただ、その事実を受け取る今日です。
この中でまだ、洗礼を受けておられない方々にも、お伝えしたいと思います。
この場にいる洗礼を受けてキリスト者としての生活を何十年と続けている人々が、あなたから見て、近いと思っている神との距離よりも、あなたとキリストの実際の距離はもっと近いのです。
あなた自身が、すっと身を傾ければ、キリストに身を預ける姿勢になる近さに、もう既にあるのです。気付いても、気付かなくても、キリストとのそのような距離にあるのです。気付いても、気付かなくても、キリストの特愛の人間、神の愛し子である自分なのです。
そのように教会は信じております。
私の敬愛するある説教者の、また私の特別に心打たれる言葉で言えば、罪の悔い改めとは、悪い夢から目を覚ますことです。
それは、単純に悪い夢から目を覚ますことです。
どんな悪い夢か?自分が自分の本当の居場所、本当の故郷から遠く離れた豚小屋にいるという悪い夢から目を覚まして、父の家の中にいることに目を覚ますことです。キリスト者になるとは、一義的には、良い人間になるということではありません。人を赦せる人間になること、いつも笑顔を絶やさぬ人間になることではありません。
そうではなく、私がどんな者であっても、もう居るべきところにいる。天の父の胸に寄りかかっている、一番近くの愛されている自分であることに目を覚ました者となることです。
これが福音であり、これが悔い改めです。
もう一度、申しますが、過去の積み重ねがあり、環境が整えられ、今の自分が整えられ、自分がふさわしい人間であるから、そう信じることができる、自信が持てるというのではありません。
キリストの十字架の出来事が語る福音とは、罪人、神の裏切り者を、御自分のものとしてしまう神の愛の驚くべき浪費、捧げのゆえに、私は100%神のものとされているという知らせです。
何の前触れもなく、何の前提もなく、つまり、何の条件もなく、私たちは、「イエスの愛しておられた者」として、ここにあるのです。
しかし、このような一方的な神の選び、もう既に備えられていて目覚めるだけの神の愛の福音の出来事の中に、今日の箇所では、心を騒がせておられる主の姿があります。
21節、「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」。イスカリオテのユダの裏切りを、予告する主イエスの言葉です。
今日の聖書箇所における主イエスとユダのやり取りはたいへん印象的なものですが、しかし、今日は、これ以上、ユダのことに立ち入ってお話する予定はありません。既に、先々週、語るべきことは語りました。
一言だけ振り返るならば、ユダもその足を主イエスによって洗って頂いたのであり、また、今日の所でも明らかなように、最後の晩餐で主の食卓を共に囲んでいたのです。
そしてまた、一番弟子のペトロもまた、主が自分の足を洗われる理由を全く理解していなかったのであり、また、今日の所でも弟子たちは、主イエスと弟子たちの間のやり取りがなんであるのか、全く理解していないのです。だから、ユダについて、ユダという個人については、これ以上、触れる必要はないと思います。
それゆえ、今日の聖書箇所では、ただ一点だけ、ここで起こったことについて触れておきたいと思います。
27節、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。」30節、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。」
ここからもたくさんのことが聴き取れますが、今日は、ただ一点です。
ユダを捕らえるサタンは、主イエスのご命令によって、教会から追い出されたのです。
私はユダが追い出されたとは申しません。ユダと主イエスとの繋がりが切れてしまったとは申しません。
しかし、この時ユダの中に入ったサタンは、主イエスのご命令により、教会から追い払われたのです。この箇所はそういうことを語っていると、読むことが許されます。
ここで、私のような者が思い起こすのは、洗礼入会式に先立つ古代教会の実践です。
古代教会では洗礼式に先立ち、悪魔払いを行いました。洗礼に先立ち、志願者たちは、西を向いて「悪魔よ出て行け」と宣言しました。また、司祭は、その洗礼志願者に息を吹きかけました。これは、聖霊の風によって、その人から悪魔を追い払う象徴的な行為であったと言われます。
現代のプロテスタント教会の私たちはそのような儀式は行いません。しかし、神の言葉が、教会から、また私たちから悪魔、悪霊を追い払うと信じることを、妨げるものはありません。神の言葉に捕えられ、キリストの福音の出来事を私への神の愛の声として聴いた者は、悪魔と絶縁したのです。
もちろん、それを忘れそうになることは、これからも何度も起こります。実感できないことも何度も起こります。まどろみの中で悪い夢を見ることはあります。しかし、私たちの不安や実感のなさは、大したことではありません。それは、実体の失われた夢、幻に過ぎません。そして、神は、あなたを夢の中に留め置かれはしないのです。
そのために教会があり、神は聖礼典をお与えになりました。洗礼と聖餐の聖礼典です。
改革者ルターは、神の愛を疑ってしまう時、恐れと不安に捕らえられるとき、いつでも、こう繰り返したと言います。
「私は洗礼を受けている。それでも洗礼を受けている。」
一度限りの洗礼と、生涯の間、繰り返される聖餐は、心の弱い私たちを支えるために神がご用意くださった確かなしるしです。
洗礼、それは決して消えないしるしです。
聖餐、それは、この体で、この舌で実際に味わわれる神の食卓です。
今日、洗礼式に先立ち、転入会される二人の方は、とりわけ、聖餐を重んじ、毎週、毎週その食卓を囲む教派から、転入会されます。私たちは基本的には月一度、聖餐を祝いますが、聖餐を重んじる信仰は全く同じです。
どんなに私たちの信仰が不確かでも、主の恵みが確かであることを、神に招かれたこの聖餐の食卓で味わいます。
誰もが洗礼に招かれております。そして、それに一続きに続く聖餐へと招かれています。
ここにいる一人一人は、主イエスに愛されている一人一人です。
誰が何と言おうと、今現在、どういう状態にあろうとも、悪魔のものではなく、神のものです。
長女の出産のとき、助産師さんが言いました。
陣痛を迎えている妻は、歩いたほうが良いですか?休んだほうが良いですか?立ったほうが良いですか?横になった方がいいですか?と私が聞くと、助産師さんは次のように言うのです。
「休むのもいいね。歩くのもいいね。立つのもいいね。横になるのもいいね。」
「どっちか、はっきり言ってください」と、助産師さんに迫るテンパった私に、陣痛中の妻は、「あなたは休んだ方がいい」とたしなめましたが、今はわかります。何をしていても、生まれるものは生まれるのです。歩いても良い。休んでも良い。
信仰者の誕生、神の愛への目覚めもまったく、同じこと、いいえ、ますますこのことが当てはまるのです。
キリストがこの世に送られました。キリストの十字架がこの世に立ちました。キリストがご復活されました。キリストが天に昇られ、聖霊が世に降りました。それゆえ、どうあっても、人は、神の子として生まれるのです。どうあっても、人は、神の愛の現実に目覚めるのです。
今や、あなたこそがキリストに愛されている者、神の胸のそば近くに置かれている者であることに目覚め、認めることを妨げるものは何もありません。
この神の愛を喜び、祝い合う、今、私たちが捧げているこの礼拝は、そのような祝いであり、お祭りそのものなのです。
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