礼拝

1月22日主日礼拝

週 報

説教題 主権はキリストにあり

聖 書 ヨハネによる福音書9章35節~41節

讃美歌 11, 448, 26

 

主イエス・キリストが通りすがりに出会った、生まれつき目の見えなかった人との出会いの出来事を、今日を含めて三回に渡って、読んできました。

 

今日がその最後の部分ですが、ここも忘れがたい対話の一つだと私は思います。

 

目が開かれた人が、もう一度主イエスにお会いして頂くのです。

 

主イエスへの信頼を真っ直ぐに表明したために、村八分にされてしまったその人が、そこで、もう一度主イエスにお会いして頂いたのです。

 

普通、学者というものは、証拠に基づいて、ものを言うものですが、ここに関しては、想像豊かに、こんなことを申します。

 

先週読みました目の開かれた人と、ユダヤ人との厳しい対話の間、主イエスの御姿は見えなかった。不在であった。

 

けれども、彼が主イエスへの信頼を立派に言い表し、追い出されると、すぐに主イエスが出会ってくださったのは、主イエスがずっと、この人のことを注意して見ておられたからだ。

 

どこにも書かれていないことですが、こう考える者は一人ではありません。

 

またある者は、主イエスは、使いとして弟子を走らせて、逐一、このやり取りの報告を受けていたのではないか?あるいは、そっと人込みの後ろからご自身の目でずっとご覧になっていたのではないかと、想像する者もいます。

 

その実際の成り行きがどうであったにしろ、福音書記者が伝えたかった事柄の本質は、まさにそういうことであったろうと私も思います。

 

この目の開かれた人が、主イエス・キリストの証人となっている間の事実上の影の主人公として、主イエスは、そこにおられたのです。

 

このことは、今日私たちが読んでいる個所からも明らかであると思います。

 

36節に、主イエスに再び出会って頂いた目の開かれた人の次のような言葉が記録されています。

 

「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

 

主イエスに「あなたは人の子を信じるか」と問われた時のこの人の答えです。

 

「その方を信じたいのですが」という言葉は、よりニュアンスを汲んで訳すと、「その方を信じることができますように」となります。

 

願いとしての言葉です。祈りとしての言葉です。

 

つまり、一人の人間が「人の子」のことを信じるようになるためには、神の恵みが必要なのです。

 

信仰とは人間業ではないのだということが、この短いやり取りの中にも、はっきりと表れているのです。

 

それゆえ、責める人々を前に、立派に、主イエスに対する信仰告白をしたこの人の信仰は、神がお与えになったものだと、暗示されているのです。

 

そのような主イエスへの信頼を言い表す幸いを頂いた者が、改めて、主イエスに出会って頂き、「あなたは人の子を信じるか」と問われました。

 

さて、ここで、主イエスが、信じるかとお尋ねになっている「人の子」ですが、旧約聖書に語られるある人物の称号のようなものです。

 

「人の子」と呼ばれるくらいですから、その人は、私たちと同じ人間です。

 

けれどもこの「人の子」は、やがて、神がお遣わしになる特別な救い主の称号として語られ信じられてきたのです。

 

人の子という呼び名は、有名なメシアという呼び名と並んで、神がやがてお遣わしになる救い主を指す言葉なのです。

 

その「人の子」をあなたは信じるか?と主は問うたのです。

 

考えてみれば、神の民、皆が待ち望んでいた「人の子」を、改めて信じるか?と問われるのは、不思議な気がいたします。

 

ユダヤ人であれば、そう問われれば、「はい、わたしはやがて、終わりの日に神がお遣わしになると聖書に約束されている人の子がやって来ることを信じます」と答えそうなものです。

 

けれども、主イエスより問われたこの人は、そうは答えませんでした。

 

主イエスが求めている信仰とは、その存在を信じるという意味での信仰ではなくて、この「人の子」のことを信頼するか?という意味での、信仰の問いであったことがよくわかったからだと思います。

 

あなたが、あなたの民の常識の中で、あなた自身も信じ、当たり前のように待ち望んできた「人の子」に、今、あなたの信頼と忠誠を捧げることができるか?

 

そう問われたこの人は、「信じたい。」、信じることができるようにと願いました。

 

先ほど、信仰は自分の力で得るものではなく、神の恵みによって与えられるものだからと申しました。

 

そうとすれば、こう自分に問うた方に対して、信じることができるようにしてくださいと、願っているということができるでしょう。

 

主イエスよ、信頼しきれない私に、神のお約束された人の子への特別な信頼の心をお与えください、と。

 

信仰における自分の無力を表明する言葉だと言えます。

 

けれども、このやり取りは、じっくりと腰を落ち着けて味わってみると、不思議なことですが、この自分の信仰の無力を告白する人が既に、深い信仰の中に、深い信頼の中に生きていることが、わかります。

 

なぜならば、彼はこう答えているからです。

 

「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

 

主イエスに向かって、既に、この人は、「主よ」と呼びかけながら、「信じたいのです、信仰をお与えください」と、祈っているのです。

 

なぜ、そうかというと、既に、先週お読みした箇所で私たちも見ましたように、この目の開かれた人は、主イエスによって、主イエスとの、顔と顔とを合わせた人格的な人間関係の中に、引き入れられていたからです。

 

「あの方がわたしの目を開けてくださった」のだ。あの方は、神のもとから来られた方だ。

 

村八分にされてでも、もう主イエスと無関係には生きられない。主イエスとのお付き合いをやめるわけにはいかないという情熱に突き動かされていたのです。

 

なぜ、そのような真剣で真っ直ぐな志に生きているかと言えば、主イエスによって目が開かれたからです。

 

それは肉体の目が開かれたというだけでなく、「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と仰った主の言葉が含んでいるように、神の出来事へのまなざしが開かれるのです。

 

信仰の目が開かれて神の出来事が見えるようになったのです。

 

この私を探し出し、この私を救ってくださり、この私と目を目を合わせて、血の通った繋がりをはじめてくださったイエス・キリストにおいて、神に出会ったのです。

 

イエス・キリストというお方において、私たちの元を訪れ、私たちと共に歩んでくださる神のお姿に、目が開かれたのです。

 

それゆえ、この人は、主イエスに対して、もう既に、「主よ」と呼んだのです。

 

この私にとって、この方は、主だ。私の主人だ。

 

その方が、「あなたは人の子を信じるか」と問うならば、私は信じたい、信じるようになりたい。

 

信仰とは信頼です。

 

それは単純に言って、イエスさまのことが好きだということです。

 

このイエスという方の心を寄せるものに、私も心を寄せたいということであることが、今日の箇所からよくわかります。

 

目の開かれた人の言葉というのは、そういう大好きな人を目の前にした人間の言葉そのものであると私は思います。

 

「主よ、あなたが信じるかと問われるならば、私は信じたいのです。あなたが人の子に信頼してほしいと願われるならば、私は信頼したいのです。」

 

私の主が招かれている。それにお応えしたい。

 

「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

 

自分の民族の歴史の中で長年信じられてきた、待ち望まれてきた人の子への期待と、全く新しく向き合い直させられたのです。

 

すると、主イエスはお答えになりました。

 

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

 

それはわたしなんだ。いま、あなたと話しているわたしのことなんだ。

 

この主イエスの御言葉によって、突然、今までも信じていたかもしれないけれども、自分事とはなっていなかったその「人の子」への信仰が、この私のための出来事として、輝き出すのです。

 

「知解を求める信仰」という言葉があります。

 

「知解を求める」とは、「知ることを求める」という意味です。

 

アンセルムスという中世の神学者の言葉です。

 

普通、私たちは、神さまのことを知るようになってから、信じるようになると考えるかもしれません。

 

正しい神知識を得ると、自然と信仰が湧いてくると。

 

けれども、アンセルムスは、知識と信仰の順番は逆だと言いました。

 

知識が増せば、信仰が増すわけではない。

 

むしろ、信仰が深いと、ますます神さまのことを知ろうとするものだと言いました。

 

もちろん、主イエスのことを知らなければ、聴かなければ、信じようもありません。けれども、ひとたび、福音の言葉を聴き、神の恵みによって、信じるようになった後は、その信仰のゆえに、もっともっと神を知りたいと、願うようになるということを語る言葉です。

 

信仰とは、信頼のことであり、もうここでは愛と言い換えてしまっても良いかもしれません。

 

神さまを愛すれば愛するほど、もっともっと神さまのことを知りたくなる。

 

それが「知ることを求める信仰」という言葉が言い表していることです。

 

この主イエスと目の開かれた人の対話において起こったのも、同じであると私は思います。

 

主イエスとの出会いによって引き起こされた主イエスへの深い愛の中に生きながら、この人は主イエスの言葉に、いよいよ聴こうとしたのです。

 

そしてその言葉に耳を傾けた時、ただ幼い時より常識のように身に着けていた「人の子」への期待が、血の通ったものになる。

 

この自分の目の前に立つお方と一つとなって迫ってくる。初めて聞いたような、初めて知ったような生きた瑞々しい知識として立ち上がってくる。

 

すると思わず、38節、「主よ、信じます」と、御前に跪き、礼拝を新しくすることが起きるのです。

 

さて、この物語は、主イエスに出会った人間に起こり続けて行く出来事の、最初の場面が、ここに典型的に描き出されていると言えます。

 

これは典型であります。つまり、私たち自身の姿をここに重ね合わせて見るように、記録されたものです。

 

この第9章の物語に記憶されている主イエスに目を開いて頂いた者が、その名前を留めていないということは、不思議なことです。

 

三回に渡って説き続けてきた、語りがいのある主イエスと彼の物語は、主イエスと親しい関係に生きたこの人の名を、ヨハネによる福音書は、最初から最後まで代名詞に留めたままです。

 

それは聖書学者の指摘によれば、まさに、彼が典型であり、私たちがこの人の姿の中に、自分の姿を見るようにという福音書記者ヨハネの意図があるのだと言います。

 

これは主イエスと私たち自身の物語であります。

 

見えなかった私の目が開け、その目で主イエスのまなざしを受け止め、主イエスとのお付き合いを始めた私たちなのです。

 

もちろん、ここにいる私たちのそれぞれは、主イエスを通して神を知ったその知識の深まりには差があるでしょう。

 

けれどもこの方を愛する愛、また、この方から学ぼうとする姿勢においては、もう既に、このヨハネによる福音書第9章の人と皆、同じ者なのです。

 

もっともっとこの方のことを知りたい、この方の声を聴きたいと、耳を澄ませて、今、ここにいるのです。これは、私たちの物語です。

 

主イエスの内に、聖書66巻が指差す救い主、いいえ、神の救いそのものが現わされ、私たちはこのお方と、「わたしの主よ」と呼びかけることのできる特別なつながりを持っているのです。

 

40節以下の主イエスとファリサイ派のやり取りについては、これ以上、長いお話をすることはできません。

 

短く、触れたいと思います。

 

ここに描かれた見えないのに、見えると言い張る人間の罪の姿もまた、他人事ではなく、私たち自身の姿だと言う他ありません。

 

特に私のような教会の教師にこそ鋭く突き刺さってくる言葉でありますが、幾分、私などのような者よりは控えめでありますが、洗礼を受けた皆さん、また更に控えめに、主を愛し始めた、受洗前のお一人お一人にも当て嵌まることです。

 

神のこと、キリストのこと、知っていることよりも知らないことの方がずっと多いにも関わらず、いつのまにか知ったつもりになってしまうのです。

 

その誤解はどんどんどんどん大きくなり、やがては、神の御子を十字架に付けて殺してしまうほどの罪を犯してしまうというのが、私たち人間であることを、聖書はここで語り始めているのです。

 

けれども、幸せなことに、今、私たちは、主に裁かれたファリサイ派の人々と共に、「見えると言っているところに、あなたの罪はある」と、主イエスより、裁いて頂けるのです。

 

愛する主の「あなたは見えていない」という裁きの言葉によって、私たちの留まるところを知らない自分で自分を正しいとする自己義認は急ブレーキを掛けられ、主の前に、跪き、悔い改めることを与えて頂くのです。

 

これもまた、私たちの物語です。

 

たとえば、ここで主イエスによって、見えると言い張っていたゆえに、目が見えない者にされたファリサイ派の代表者とは、疑いもなくパウロであり、パウロは、やはりキリスト者の代表の一人なだということを思い起こしてみても良いのです。

 

見えると言っている者の目が見えなくされることも、主イエス・キリストの福音の内に、はっきりと含まれることです。

 

それは、もう一度、本当に開かれるべき目が、開かれるための裁きです。

 

このように裁くことにおいてこそ、主イエスは、裁かれなければならない者にとって、その裁きの間中も、その者の主であられることを、はっきりと主張なさっているのです。

 

裁きの言葉で終わるこの第9章は、閉じられた物語ではなく、開かれた物語なのです。

 

その物語は、10章以下に続くだけでなく、この私たちにおいても、続いているのです。

 

今、ここで私たちが、主の御前に跪き、頭を垂れて、共に、この裁きに服し、また、この方を拝むことにおいて、私たちはこの物語の続きを生きているのです。

 

ここでも、目の見えない者の目が開け、罪人が悔い改め、死んだ者がよみがえる、キリストの主権、神の力ある業が、起きているのです。

 

これは、今ここにある私たち自身のことです。

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