週 報
聖 書 ヨハネによる福音書8章12節~20節
説教題 「世の光、命の光」
今年もアドベント、待降節がやってきました。
教会暦と呼ばれる教会のカレンダーでは、ここがスタート地点となり、新しい一巡りの日々が始まります。
主イエスのご降誕を覚え、また、再び主が来たり給うを待ち望む二つの到来を意識するこのアドベントが、なぜ、この季節に設定されたかというと、もちろん、最初の到来である主のご降誕、クリスマスを12月25日に定めたことによります。
教会が一年の日のある特定の日を、特別な祝いの日として定めるようになったのは、実は、クリスマスよりも、イースターが先です。
主イエスの墓からのご復活を祝うイースターがその数日前の主イエスの十字架のご受難と合わせて最初に意識され、それから、だいぶ後になって、主のご降誕であるクリスマスが、意識され、祝われるようになりました。
しかし、このクリスマス、主イエスのご降誕を祝う日が、12月25日とされたのは、史実を調べることによってではありませんでした。
クリスマスの出来事を記すマタイによる福音書を見ても、ルカ福音書を見ても、それが何月何日のことであるかは、実は全くわかりません。
羊飼いが野宿をしている季節であることを考えると、冬ではなかっただろうと、推測されるだけです。
もちろん、そのことは、聖書を丁寧に読んでいた、古代のキリスト者たちも十分に知っていたことです。
けれども、それにも関わらず、なぜ、クリスマスは12月25日に祝われるようになったのでしょうか?
それは、古代ローマの太陽神の祭りと関係があると言われています。
古代ローマ人たちが拝んでいた太陽神の祭りが、一年の内で昼間が最も短くなる冬至の日に祝われていたのです。
一年の内で一番日が短くなる冬至の日に、太陽が死に、次の日からまた赤ちゃんとして生まれ変わった太陽が、夏至に至るまで、すくすくと成長していく。それからまた、冬至に向かって、太陽が、徐々に老い、衰えて行くのです。
その日の長さの切り替わりの日である冬至を、太陽の生まれ変わりの日としてローマ人たちは、不滅の太陽神の祭りを祝ったのです。
けれども、古代ローマ世界の中で、徐々に、キリスト信仰が広まって行った時、キリストこそが真の太陽、真の光であると、この日に伝道して回ったのがきっかけとなり、冬至近辺である12月25日をクリスマス、主の誕生日と定め、祝うようになったと考えられています。
クリスマスがこのように、ローマの異教との出会いと伝道的対話の中で、定められていったとするならば、アドベントが意識されるようになったのは、さらに時代を下ることになります。
既に、イースターの備えの期間として定められていたレント、受難節の期間に対応して、クリスマスの備えの期間としてアドベントが定められていったと考えられます。
このように教会のカレンダーが、十分に整えられて行く中で、主のご降誕から時を数え始めること、だから、その備えであるアドベントから、教会の一年のカレンダーが始まるという形になっていきました。
これは、非常に含蓄に富むことであるように思います。
意識してそうなったわけではありませんが、結果的に、最も闇が深くなる四週間を教会のカレンダーは一年の始まりとして今、持っているのです。
もしも、新しいカレンダーを作ろうと考えている人がいれば、その一年の始まりをこんな時期に設定しようとする人は、まずいないのではないかと思います。
やはり、冬至の前後を起点としたり、昼と夜の長さが釣り合う春分の3月、地域によって違いますが、寒さが緩む4月、あるいは収穫の9月、10月などを一年の始まりにするというのが、人間の自然な感覚には合っていると思います。
けれども、教会は結果的に、闇が最も深まりゆく今をカレンダーの始まりとして持つことになりました。
こういう暦を、地にある教会が持つようになっているということは、私たち人間にとって意義深いことではないかと思います。
キリスト教会という集団は、世にあって闇を知らない集団ではない。また、闇の深まりを知らない人間の群れではないのです。
神が来られ、主なる神が2000年前にキリストを世に送られ、それで闇が消えてなくなったとは見ていないのです。
むしろ、教会が目覚めさせられ、その決定的な時の到来を告げている御子イエス・キリストの生まれた後の歴史、このお方が生まれた後のこの世界においてこそ、夜が更けて行き、闇が深まっていくことを教会という人間の集団は知っているのです。
これは暦ができたことによって、後付けで知ったことではありません。その暦ができあがる前から教会はよく知っていたのです。
ローマの信徒への手紙13:12で、使徒パウロは言います。
「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」
パウロは、「夜は更け、日は近づいた。」と言います。
私たちの多くはここを読みながら、夜が更けとは、「日は近づいた」という後半の言葉から夜が過ぎて行こうとしている4時や5時の早朝の情景を語っている言葉として読んでいると思います。
しかし、原語では単純に「夜は更けた」と言っています。日が昇る直前のまだ暗い夜のような早朝のことではなく、夜更け、深夜だと言っているのです。
この夜更け、この深夜に、日が近づいたと、不自然なことを言っているのです。
長い暗闇のトンネルの真ん中、閂を下ろされたような地下の穴倉のような深い暗闇の真ん中に、扉をこじ開けて入ってくるような不自然な光、いいえ、人格的な光、私たちが暗闇の中で、うずくまっていることを知ると、いてもたってもいられなくなってしまう真の光、真の太陽、イエス・キリストの走り寄り、駆け寄りのことを言っているのです。
その光は、この世界の中から時が熟して現れ出る光ではなく、この世界の外から、この宇宙の壁、歴史の壁を突き破って、外から、世界の中に、歴史の中に、私たちの元に、突然、射しこむ光、走り寄り、駆け寄る御子イエス・キリストの到来のことです。
夜は更け、深夜になり、何の明るさの兆しもないからこそ、そういうあるがままの私たちの世界だからこそ、この方は駆け寄って来られるのです。
聖書の証しする主なる神というお方は、いつでもそのようなお方です。
旧約聖書を読む者が、直ぐに気が付くのは、主を忘れた民が苦境に陥り、主に助けを求めて叫ぶと、主は聞かれるというテンプレートのような繰り返しがあることです。
主なる神を忘れ、自分の好き勝手によって、苦境に陥っていく神の民が、しかし、その苦しみのあまりに声を上げると、主なる神は、その叫びに答えて、繰り返し繰り返し助けてしまうのです。助けずにはおれないのです。
しかも、旧約の物語はそれで終わりません。
神の民の恩知らずは、どんどんどんどん深まっていきます。
どんどんどんどん深まって、もはや、苦しい時の神頼みすらしなくなる。
自分の汚物に汚れて行く獣のように、神の民は、自分の罪の内にのたうち回り、神の名を呼ぶことなく、滅びて行こうとする。
主なる神は、その人間の代表の姿を見ながら、預言者たちの口を通して、自業自得だ、自分の罪の報いを受けよと、もはや誰も耳を傾けていない中で裁きの言葉を語るのですが、その途中で、心変わりしてしまう。
かわいそうで、かわいそうで仕方がなくなってしまう。
そして、誰も聞いていなくとも、御自分に対して、こう語られるのです。
「ああ、お前を見捨てることができようか。お前を引き渡すことができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐みに胸を焼かれる。わたしは神であり、人間ではない。お前たちの内にあって聖なる者。怒りを持って臨みはしない。」(ホセア11:8-9より抜粋)
ホセア書第11章の言葉です。
なぜ、暗闇が深くなっても私たちはダメにならないのか?なぜ、閂の閉ざされた地下の穴倉のような暗闇の中に閉じ込められてしまっているようでも、壊れ切ってしまわないのか?光の到来を待つことができるのか?
その光が私たちの嘆きを聴かれる光だからです。いいえ、私たちが真っ暗闇の中で、全ての期待を捨ててしまっても、その方への期待を捨ててしまっても、その方は私たちを捨てないからです。
「ああ、お前を見捨てることができようか。お前を引き渡すことができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐みに胸を焼かれる。」
これが私たちのための光です。私たちのための光であるお方です。
決して御自分に立ち返ろうとしない者たちを見ながら、神が語られた旧約以来の言葉です。
ヨハネによる福音書は、その第1章で、クリスマスの出来事を独特な言葉で描いています。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:5)
「その光は、まことの光で、世に来て全ての人を照らすのである。」(1:9)
ところが、光であるその方は、「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(1:11)
けれども、この光なる方の到来、それは、ヨハネ3:16、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された」という、まさに、ホセア書の語る神の狂おしいほどの愛の出来事でありました。
キリスト者の詩人である島崎光正という人は、聖誕、聖なる誕生という詩の中で、クリスマスの御子の誕生を次のような言葉で表現します。
「言は/耐えられずに/形となり/地球への旅を急いでいた・・・」
夜の中に、暗闇の中に、私たち人間が失われていくことが、神は耐えられないのです。
それゆえ、御子は来られました。御自分をわたしたち人間に差し出されました。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
これこそが神の言葉、私たちに向けられ、差し出された神の御意志そのままであります。
しかし、この神の狂おしいほどの愛、胸が焼かれてしまうような憐れみが、私たち人間に受け取られることはなかったのです。
13節に記されたファリサイ派の答えは、私たち人間が、この地球への旅を急いだお方に浴びせかけた言葉の代表であります。
「あなたは自分について証しをしている。その証は真実ではない。」
御子を受け入れることができない。神の狂おしいほどの愛に気付くことのできない私たちの罪の姿そのものです。
それにも関わらず、いいえ、それだからこそ、御子は耐えきれずに、世に来られたのでありました。
主イエスは、あの十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:24)と、受け止めてくださったように、今日の箇所においても、御自分を拒否する人の言葉を、14節後半、「しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない」と、あなたの拒否はあなたの無知のゆえであると、あえて、見做してくださるのです。
主なる神はただその憐みのゆえに、御子を受け入れることができない私たち人間の罪を、自分が自分で何をしているかわからないほどの、深い深い暗闇の中でうずくまってしまっている私たちの姿、言葉にならない嘆きの言葉として、御覧になり、御聞きになることに、あえてしてくださるのであります。
まるで私たち人間がまっ暗闇の中でパニックになり、分別を失ってしまった小さな幼子であるかのように、受け止めてくださるのであります。
ここに光があります。命があります。
しかし、それが、どんなに大きな犠牲を払う必要であることであったのか、今はもう、私たち教会には忘れることができません。
15節、16節、「しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」
主イエス・キリスト、胸を焦がすほどの神の愛が、形となって、世に来られたこのお方が、自分の罪の中に転げまわり、このお方を拒否する、人間を裁かずに、お救いになるために、どうしてもしなければならないことがありました。
それは、憐みに胸を焼かれている父の心の一つとなって、御自身を罪に定めること、御自分を十字架にお付けになってしまうことでした。
イエス・キリストの十字架、この十字架が、なぜ、私たち人間の救いとなるか?
なぜ、救いの力を発揮するのか?
その道筋、その道理、そのレシピは、今日申し上げることは特にいたしません。
その筋道は、どう語っても語り尽くせるものではありませんし、それに、どう語っても、次のことを受け止める前には、本当にしっくりくるものではないとも思うのです。
すなわち、その道筋が、分からずとも、これだけは、はっきりとしている、ただ一つのことがあります。
それは、この主イエス・キリストの十字架は、神を神と見分けることもできない、ご自分の主人の声を聴き損なっている恩知らずの私たち人間を前に、「ああ、お前を見捨てることができようか。お前を引き渡すことができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐みに胸を焼かれる。」と叫ばれる、どうしても捨てることのできない神の狂おしい愛の、極まりだということです。
今日の箇所の最後の節で、非常に何気ない形で、主イエスがお語りになったのは、神殿の境内の中でも、宝物殿の近くであったと言われています。
私は、この何気ない記述を、主イエスが何とかして、この反抗する人々を取り戻したい。父の宝物殿に、神の宝箱の中に、何とかしてしまってしまいたいという思いを聴き取った教会の言葉、そのようにして、キリストに買い取られ神の宝箱にしまわれた自分であることを教わった教会の言葉ではないかと読みたいと思います。
深い深い夜の中に、夜更けの中に、明るさに転じる兆しなく、いよいよ深まっていく夜の中に輝く、神の愛、私たちを取り戻そうとする、私たちを宝と見なす神の愛の物語がここにはあります。
それゆえ、キリストの出来事、キリストこそ私たちの光、私たちの命なのです。
それは、宇宙の自然、歴史の必然を破って、外から差し込む光、走り寄る光、駆け寄る光です。
教会のカレンダーの新しい始まりは、クリスマスに最初にやって来たこの光の到来を思い起こし、また、やがて、再び、来られる主の再臨に思いを馳せる季節です。
私たちを取り巻く闇がどんなに深くとも、闇が深ければ深いほど、神は、その足を速め、急ぎ来られます。
イエス・キリストの父なる神は我慢しきれず、耐えきれなくなられます。
いいえ、既にその闇の真っ只中に、その中心に、私たちのいるところに、主の十字架、十字架の主が立っておられ、私たちは、既に、この方のものとされているのです。
コメント