週 報
説教題 生きた水が溢れ出す
聖 書 ヨハネによる福音書7章37節~39節
讃美歌 3番,404番,24番
今日は、この礼拝の後に、短い時間ですが、教会修養会を行います。
昨年同様、二人の証者に、それぞれお話しして頂き、その後、短く祈り、修養会といたします。本来ならば泊りがけで行ってきた修養会ですが、まだまだ大勢で宿泊というわけにはいきません。今年はどういう修養会にしようか?と話し合った時、やはり、礼拝直後に短時間で行うしかないだろうという結論に至りました。
その中身については、教理の学びをしたら良いのではないかという意見もありましたが、やはり、証しを聴きたいという願いが強く、昨年と同様の形になりました。証しというのは、あまり、日常生活の中では頻繁に使うような言葉ではなく、キリスト教会独特の用語になっていると思います。要は、なぜ、自分がキリスト者として歩むようになったのか?今、現在歩んでいるのか?自分の身に起きたイエス・キリストの父なる神様との出会いの出来事を、特に自分の体験的、経験的なこととして、その生ける神様を証言する、ご紹介することです。
少し難しい言葉で言えば、実存的に、自分の言葉で、自分を隠さずに、恵みの神を指し示すことです。自分の肚に落ちている、腹の底からの言葉として、信仰の言葉を語ることです。
共に教会に集う仲間のそういう肚からの言葉が聴きたい。
私も何ら反対する理由はありません。長老教会の伝統にある教会でありながら、証しを愛するというのは、私たちの教会の良い所だと私は思います。
キリスト信仰というのは、生活の中で生きられるものであると、確信している群れです。聖書をよく読む教会です。神の言葉と二人三脚の生活を作っているのです。こういう素朴なパイエティー、敬虔さは、主が私たちの教会に与えてくださった賜物だと思います。
そして、さらに教会員の一人一人が、実存的な言葉、肚に落ちた、腹の底からの言葉として、恵みの神を紹介し合う言葉を持つようになることを、夢みたいと私は思います。
今日私たちが聞いておりますヨハネによる福音書7:37以下の言葉、特に、38節の主イエスの御言葉は、教会に集う者、一人一人が、自分の言葉で、人を生かす生きた神の言葉を語れるようになるという期待と、希望は、実現の難しい高い目標ではなく、神ご自身の御心であり、約束であることを、語っているように思います。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり」とあります。
これは、旧新約聖書を貫く、神さまの普遍の約束だということでしょう。
たとえば、旧約イザヤ書43:19‐20に、関連する約束がこう記されています。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。」
主なる神は一つの約束をされました。
新しいことをわたしは行う。あなたたちはそれを悟らないのか?きっと気付いていないのだろう。
けれども、それは今や、芽生えている。もう、その時が来ている。
草一つ生えない不毛な荒れ地に、からからに乾き切った砂漠に、水場が現れるんだ。
それも単なるため池ではない。単なるオアシスではない。
そのわたしの与える水は溢れ出し、流れ出す。
流れ出し続けて、大河となり、野の獣も、山犬も、駝鳥も、つまり、生きとし生けるもの、何の例外もなく、その水が、溢れ流れていることを発見する。そしてまた、まずその水を飲みだしたあなたたちを見て、わたしを崇める。
大変愉快な約束であるとわたしは思います。
野の獣、山犬、駝鳥、理性を持たない獣たちもが、その大河から命の水を飲む選ばれた者たちの姿を見て、神さまを崇めるようになる。
いいなあ、うらやましいなあ、と獣たちがごくりと生唾を飲み込んで、まるで神を崇めるように、いいえ、単純にイザヤは、生ける命の水を飲んでいる神の民を見て、獣たちは神を崇めると言うのです。
面白いなあと思います。
もちろん、このイザヤの預言の言葉は、肉体の渇きを癒す水の流れのこと、浅野川、犀川のようなリアルな川の話をしているわけではありません。
人間の話をしているんです。からからに渇き切ってしまって、絶望し切ってしまって、もう立ち上がることはできない。
もう、再起不能だという人間に向かって語り込まれ、死んだ者をよみがえらせる神の言葉のことを語っているのです。
しかも、それは単に、一個人ではありません。神がイザヤを通して語りかけているのは、群れに向かってです。神の民という大きな集団に向かってであり、それは、外国に侵略されて国を奪われイスラエル民族という大きな単位に向かって語られている大きな約束です。
その水を飲む選ばれた者とは、あちらに一人、こちらに一人と、ポツン、ポツンと、孤独に点在する個人ではありません。
なぜならば、神さまが流れ出させてくださる生ける水は、獣ですら気付き、神を崇めずにはおれなくなるような大河ですから、誰もがその水の傍にいる。傍にいるというどころか、この神の川の水は、別の預言者の記述によると、荒れ野を飲み込み、砂漠を飲み込み、膝に達し、腰に達し、足の付かない深さに達し、群がる全ての生き物を生き返らせ、命を充満させる豊かさがあります(エゼキエル47:1-12)。
このような命の水の大きな流れが、起こること、それが旧約以来の神さまの約束でした。
主イエス・キリストは、今日与えられました個所において、このわたしのもとに来る時、この神の約束が実現すると大声で叫ばれたのです。
仮庵祭の最終日、最も盛大にその祭りが祝われる日です。
その祭りは、イスラエルの民が、奴隷の家であったエジプトから、神の建てられたモーセの先導で脱出し、その後、約束の地に至るまで、40年間、荒野でテント生活をしながら、暮らしたことを思い起こす祭りです。
その祭りの最終日です。
長い荒野の旅は終わった。神が導き入れてくださる約束の地、潤うカナンの地に足を踏み入れたことを喜び祝う祭りの最終日です。
そのことを思い起こす祭りの日に、主イエスは立ち上がって、大声で叫ばれました。
「渇いている人はだれでも、わたしのところへ来て飲みなさい。」
渇いている人は誰でも来て良いんだ。どんな血筋、どんな性格、どんな能力、どんな過去、何も問われていません。
渇いているならば、誰でもです。
野の獣、山犬、駝鳥のような者であっても、誰でも、この方の所に来て、飲んで、渇きを癒すことが許可されています。
誰でもです。その水は、奪い合わなければならないような小さな水たまりではなく、溢れ流れ出し、荒れ野と砂漠を飲み込む大河となるものだからです。
一体この命の水とは何でしょう?群がる全ての生き物を生き返らせる大河となる命の水とは何でしょうか?
それは、私たちの間にあって立ち上がり、大声で叫ばれるイエス・キリストご自身です。
この方は既に、この福音書の中で、御自分のことを、「まことの食べもの」、「まことの飲み物」とご紹介し、わたしを食べなさい、わたしを飲みなさいと、人々を招かれました。
多くの人が躓いたというこのややこしい言葉を、その豊かなややこしさをひとまず脇において、ごく単純に、言い換えるならば、あなたと私、血を分けた兄弟のような者となろうという主の申し出です。
あなたと二人三脚、同行二人、いいや、わたしがあなたの食べ物となり、飲み物となる。渇けるあなたの水となり、命となる。
このような主イエスの申し出です。
この方は立ち上がり、誰にも無視できない仕方で立ち上がり、「渇いている人はだれでも、わたしの所に来て飲みなさい。」と、私たちの間にあって、大声で叫ばれるのです。
わたしだ。わたしなんだ。あなたたちはわたしに渇いているんだ。あなたたちのその渇きが癒されるのは、わたしと顔と顔とを合わせて生きる、わたしとの血を分けた兄弟関係、わたしとの友情に生きる時に、癒されるんだ。だから、渇いている人はだれでも、わたしの所に来て、飲みなさい。
主イエスは、今日ここにいる私たちにも仰います。
あなたたちは渇いているね。その渇きが癒されるために、様々なことに取り組んでいるね。
けれども、あなたたちが本当に渇いているのは、わたしに対してだ。わたしを食べ、わたしを飲まなければ、わたしを得るのでなければ、その飢え渇きは癒されないんだ。
このような私たち人間の本当の飢え渇きを癒す主イエスとの出会いは、ヨハネによる福音書の著者によると、39節、主イエスが栄光を受け、主の霊が降って来ることによって実現するものです。
主イエスと本当の意味で出会うために、主イエスと顔と顔とを合わせるような深い人格的な友情を結ぶためには、主が栄光を受け、主の霊が降ってくるのを待たなければならないのです。
それがいつなのかと言えば、この福音書の著者は、主イエスの十字架と復活と昇天の出来事、そして、それに続く、聖霊降臨の時からと、見ております。
洗礼を受けたキリスト者たちはきっと、自分も主イエスにお会いしてみたかった。聖書に登場する12弟子や、その他の弟子たちと同じように、主イエスと顔と顔とを合わせてお会いしてみたかったと一度は思ったことがあると思います。
けれども、今日の箇所の書き方によれば、十字架にお架かりになる前の主イエスと顔と顔とを合わせて出会っていたはずの人々も、本当の意味では、主イエスと、人格的な出会いを果たしていなかったことになります。
私たちの命の源泉となるこのお方との本当の出会いは、十字架と復活の出来事の時、また、この方の霊、主イエスの霊である聖霊が、降ってくる時を待たなければなりませんでした。
しかし、だからこそ、主イエスと私たちの人格的な出会いは、絵空事ではありません。
私たちに与えられる主イエスとの出会いは、12弟子に与えられた出会いに劣るものではありません。
難しいことではありません。特別神秘的な体験をしなければならないというのでもありません。
わたしが時折引用いたします第Ⅰペトロ1:8で、主の一番弟子ペトロが、驚き、神にひれ伏して語っているように、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉に言い尽くせない素晴らしい喜びにあふれています」という、本当に、普通のわたしたちキリスト者の経験、教会の姿が、生ける主に出会った者の姿です。
聖書の証しする主イエスを愛している、主イエスを信じている。この方こそ、私たちの生きている時も、死に直面する時も、変わらぬ慰め主でいてくださる。そのことを腹の底から告白する者とされている。
それは皆、聖霊の働きです。聖霊の生き生きとした働きがなければ、私たちがイエスを主と告白することはできないのです。
しかし、御言葉通り、聖霊は降り、私たちは生ける主イエスに出会ったのです。キリスト教会2000年の歴史とは、この聖霊による、生ける主イエスとの出会いの連続の歴史であります。
もう一度、申しますが、このような渇ける者を癒す主イエスとの生きた出会いは、砂漠の中に点在する水たまりと出会うような、稀で、レア度の高い出来事ではありません。
大河のように、地形を変え、生態系を変えてしまうような神の決定的な出来事です。
最初はどんなに小さな流れに見えても、その川は下流に行けば行くほど、時間が経てば経つほど、膝の高さに達し、腰の高さに達し、もう足を着けることのできない豊かな流れとなります。
とても、身の引き締まることではありますが、このような大きな流れとなるこの世と主イエスとの命の出会いは、38節を見ると、私たち教会と無関係ではないようです。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」とあります。
生ける水を飲んだ者、生ける主イエスと出会った者の内から、今度はその生きた水が流れ出し始めるのです。
この「その人の内から」という言葉、元の言葉ではまさに「腹から」という言葉が使われています。
頭でわかったキリストではなく、腹で味わったキリスト、わたしの血肉となったキリストとの出会いから、命の水が迸り出ます。
聖霊を通して今現にここに与えられる私たちと主の出会いが、命の水の溢れ出しとなり、すべての者を潤し、元気づける大河となっていくのだと主は仰います。
腹で味わったキリストです。わたしの深い深い実存で味わったキリスト、私たちの血となり肉となる聖餐の食卓が指し示すキリストです。
私たちが証しを聴きたいのは、証しとは、そのような腹で味わったキリストを語る言葉、証言する言葉であるはずだからです。
けれども、このように申しましても、この後、証しをしてくださるお二人に、プレッシャーをかけているつもりはありません。
むしろ、肩の力を抜いて頂きたいと思っています。
とても興味深いことですが、38節の後半、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という主のお言葉、「その人の腹から」と言われているのと同時に、そこから流れ出る川は、複数形、何本もの流れであることが示唆されています。
想像してみますと、わたし達、キリスト者のお腹から、何本もの水が出てくる。
何で何本もの水かなと想像してみますと、主イエスとの出会いを味わわせて頂いた私の腹は破れていて、あちらからこちらから水漏れしているからではないかなと思います。
わたしという存在の、実存のあちらが破け、こちらが破けていて、そこからどんどん主のくださる命の水が、流れ出て行ってしまう。
けれども、それこそが、生ける水の流れになる。そのわたしの破れ口から漏れ出て行く水が、次のキリストとの出会いを生む。
私たちの証の言葉とはそういうものではないかと思います。
こんなことを想像してみたのは、今日、私たちの教会員だけでなくて、神学生も、証ししてくださることになっていて、5年前の夏季伝道実習以来、久しぶりに神学生の生きた声を聴く機会が備えられて、わたし自身の神学生時代の思い出が思い出されたからだと思います。
私がまだ神学生だった時、名古屋での夏季伝道実習を終えた帰り道、静岡で途中下車して、既に伝道師として仕え始めていた先輩を訪ねました。
その先輩が仕える教会の主任牧師が、なぜか、一日、私たちに付き合ってくれ、色々連れまわし、お話しを聴かせてくださいました。
その年嵩の主任牧師は、これは自分も先輩から聞いたことだけどと言って、こういう忘れがたい話をしてくれました。
私たちキリスト者は、牧師も含め、破れ提灯だ。
破れた提灯です。あちらにも、こちらにも穴が開いている。
その牧師は続けてこう仰いました。
破れ提灯で良いんだ。その破れ口から、キリストの光が良く見えるから。
私たちがこの腹に味わった生けるキリストの命が、私たちのその腹から何本も何本も流れ出てくると、主イエスは仰います。
同じことではないかと思います。
私たちの存在は深い深い所で破れていて、主イエスの生ける水は、その破れてしまっている私たちの肚にこそ届くことを主は望んでおられ、事実、そこに届くのです。
でも、破れているから、私たちの肚には、水を貯めておくことはできず、だから、毎週毎週、毎日毎日、主の御言葉に聴き、主に出会って頂く必要があります。
けれども、また、破れているからこそ、生ける命の水が川となります。
この38節を、そのように読むことは、許されていると私は思います。
ある現代の神学者も、私たち現代人の自分の破れを繕い、覆い隠そうとする時代の傾向に向けて、警鐘を鳴らし、また、そのような私たちに、本当の慰めの在り処を指し示そうと、次のような趣旨のことを言いました。
「現実の私に裂け目があること、罪の裂け目があること、それは、私たちが人間であって、神ではないことを物語っている。
この裂け目それ自体は、苦しく、死をもたらすものであり、救いではない。
けれども、この裂け目のお陰で、わたしは神に頼り続ける者となる。
もしも、私たちに裂け目がなければ、私は窒息してしまう。
わたしが破れているおかげで、そこから神の霊が流れ込んできて、わたしは深く呼吸をすることができるようになる。それは救いの裂け目だ。」
私はこの文章を読みながら、私たちの破れがキリストの霊が入って来られる救いの裂け目となり、また、主の霊が、次へと歩みを進められる破れ口だと、考えさせられています。
そして、その時、39節の本当に小さな言葉、「まだ」という小さな一言が、実は、どんなに深く私たちにとって大切な言葉であるかとも考えさせられ始めています。
「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」、「“霊”がまだ降っていなかった」。
私たちが生ける水を飲み、渇きを癒すことができるために、また、私たち自身が、生ける命の流れとなるために、最も重要なことは、この「まだ」の前で、待ち続けることです。
私たち人間が神とならず、人であり続けるためには、言い換えるならば、自分たちの正義に窒息してしまわないためには、この「まだ」が大切なのです。
私たちが埋めることのできないこの「まだ」とは、神の働かれる場所、神の働かれる時のことです。
証しとは、成功体験を語ることではありません。信仰者としての立派さを語ることではありません。
この「裂け目」を語ること、「まだ」を語ること、そしてその裂け目に吹き込んでくる神の霊を指し示すことです。
とてもとてもシンプルに言うならば、主イエスなしには生きられない。これまでも、これからもと、しみじみと言えること、それが私たちキリスト者の証です。
このような破れ口から入り、また、流れて行く生ける主を語る言葉、霊となり、私たちと出会い続けてくださる主イエスの歩みを指し示す私たちキリスト者の言葉が、個人をも、社会をも、被造世界をも癒す命の川の流れとなるのです。
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