週報
説 教 題 「神は人となった」 大澤正芳牧師
聖書個所 ガラテヤ書4章4節~7節
讃 美 歌 121(54年版)
今から6,7年前から、第二次キャンプブームと呼ばれるキャンプとアウトドアのブームが始まっていることをご存じでしょうか?
特にこの1年もコロナ禍の影響で、野外活動なら安心だろうと、ますます人気になっています。関西の方の若手の牧師たちの中には、キャンプの動画をYouTubeにあげたり、ファミリーキャンプを企画してみたり、教会の活動に取り入れている人たちもいるようです。
ある実践神学者は、なるべくお休みの日には自然の中に行くことを大切にしていると公言していますから、案外、アウトドアと、牧師は相性がいいのかもしれません。
私と妻も学生時代に、登山をしていたのですが、今は小さい子連れでもあるし、体力的にも自信がありませんから、せめて、アウトドアの雰囲気を味わおうと、ブームが始まるか始まらないかという内に、日帰りキャンプから楽しんでいます。
最近は、子供もだんだん成長してきたので、休暇の時には泊りでも出かけるようになってきました。キャンプの醍醐味は夜にあるなと、思うようになりました。
金沢でもちょっと足を延ばせば、教会の駐車場からは見えない満天の星空に出会えます。夜のキャンプで使うお気に入りになったグッズがあります。
それは、ストームランタンとか、ハリケーンランタン呼ばれる昔ながらの灯油ランプです。
両側に持ち手がついていて、ランプを覆うガラスを、二本の太い針金が守っています。いかにもキャンプに持って行きそうな形のオーソドックスなランプで、雰囲気を盛り上げてくれます。火の揺らぎを見ていると、日常生活の中で張りつめていた心も体もほぐれていきます。
このランプ、ドイツで生まれたもののようですが、なぜ、これをストームランタン、ハリケーンランタンと呼ぶか?
嵐の中でも炎が消えないからです。風速80mでも消えないという説もあるようです。風速80mというのは、走っている新幹線の屋根に乗っているような風の強さということです。家が吹き飛ばされてしまいそうな暴風です。しかし、そんな風にもこのランプの明かりは消えない。
さて、なぜこんな話から始めたかというと、ある人が、今日の聖書箇所には、私たちに与えられた、このストームランタンのような光が語られていると言うからです。
どんな暴風によっても、消えない私たちのための灯火がここに語られていると言います。
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」
クリスマスの出来事を語る使徒パウロの言葉です。クリスマスは光の降誕祭とも呼ばれることがあります。私たちとこの世界の光であられる御子イエス・キリストがお生まれになったことを喜び祝う祭りの日です。
もう間もなく、教会の暦は、アドベントに入り、この光の降誕祭に備える季節となります。アドベントクランツには、週ごとにろうそくの光が一本づつ灯されます。
ろうそくの光は、穏やかで暖かな幻想的な光です。けれども、そのろうそくの光によって私たちが指し示そうとしているキリストの出来事は、ほんのりほのめくろうそくのようなものではありません。
この世にあっては、投光器のように辺り一面を照らしてしまう光ではありませんが、四方八方から暴風が吹き荒れても、決して消えることのないストームランタンのような光です。
このような光が今、灯っているのです。昔は灯っていたというのでもなく、将来、灯るだろうというのでもなく、今、灯っているのです。
過去の人々のためだけでなく、未来の人々のためだけでもなく、この私たちのためにも、今、灯っているのです。
「しかし、時が満ちると」と、使徒パウロは語ります。
時は満ちたのです。使徒パウロをはじめとする初代キリスト者の確信は、時が満ちたということです。
何の時か?救いの時です。たとえば、第Ⅱコリント6:2にこうあります。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」
決して消えない私たちのための救いが、今、ここに成就しているのです。
使徒パウロはこの決して消えない救いの時の成就が、神がその御子を人間マリアから、しかも、律法の下に生まれさせることによって、成し遂げられたのだと宣言いたします。
使徒信条の告白する「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」というクリスマスの出来事、小さな赤子としてお生まれになったゆえに、まだ何もお語りにならず、まだ手も足も出ない乳飲み子であられるイエス・キリストの誕生において、既に時は成就した。光は消えないものとなったと語るのです。私たちの生きているこの現実は、この御子によって、神の救いの時が成就した現実であると。
なぜでしょうか?なぜそんなことが言えるのでしょうか?
2000年前の中東に生まれた人間、世界の片隅に一人の乳飲み子が存在するということが、なぜ、時の成就をもたらし、今もその時を満たし続けると言えるのか?
むしろ、私たちの見えるところによれば、この世界は、時が満ちた世界とは、とうてい思えないものです。少なくとも今という時は、私たちの中の多くの者たちにとって、美しい過去と、将来の希望の途中にある、満たされてはいない時ではないでしょうか?
もうすぐアドベントを迎えようとしている私たちです。アドベントとは日本語で、待降節、待ち望む季節と言われます。
私たちは待ち望んでいるのです。主が再び来てくださるのを待ち望んでいるのです。神が人と共にあり、人の目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる日を待ち望んでいます。アドベントはキリストの再臨を待望の思いを新たにする季節です。
それだからまた、私たちの伝道は難しいということができると思います。
ここはまだ、天国ではないからです。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない新しくなった世界ではないからです。
時が成就したと、使徒たちが宣べ伝えた時、きっと聴いた者たちは、冷ややかに答えたのです。
「いったいどんな時が満ちたのか?何も変わらないじゃないか?世界は今日も、死と嘆きと悲しみと労苦でいっぱいではないか?ローマ帝国の属州の片隅に一人の幼子が生まれたことが、時が満ちた証拠だって言うのか?それだから、わたしたちは、もう皇帝の餌食ではないのか?もう帝国の支配の下にはいないと言うのか?ローマ兵たちは、もう私たちを苦しめることはないのか?しかし、その救い主とやらは、まさに、この世の暴力によって、十字架で殺されたではないか?それこそ、時は、今までと変わらずに、満たされないままに進んでいる証拠ではないか?」
それから2000年、使徒たちに対して語られたであろう反論の言葉は、2000年分の真実味を増し加えて、私たちの耳にも語られてはいないでしょうか?
時が満ちたと、使徒たちが語ったのはどうやら早とちりであった。私たちもまた、毎年毎年アドベントを過ごす者として、時が満ちるのを待っている者として、将来の成就の約束をこそ、非常に子どもっぽい言い方をすれば、死後の天国の約束のようなものをこそ、私たちが今この時、持つことの許される救いとして語り直すべきなのでしょうか?
いいえ、初代のキリスト者たちが、キリストのゆえに、天の父より頂いていると確信した、成就した救いとは、そのようなものではありませんでした。
今の苦しみの世の先にある天国が、彼らが信じ、語った救いなのではありませんでした。
そうではなく、今ここで、信仰深い者も、信仰のない者も、世にある人々が、時はまだ成就していない、あるいは、時は永遠に成就することはない全てを飲み込む川の流れのようであると実感している今ここで、同じ時、同じ時代を生きながら、救いを味わうのです。
しかも、それは、古い仏教のように、世の無常を悟って受け入れて平安になってしまうというのではないのです。
あるいは、ソクラテスやプラトンのように体と精神を分けて、何ものにも害されない目に見えぬ崇高な魂の世界に軸足を置いて生きるというのでもないのです。
私たちの頂いた既に成就している救いの喜びは、その三つのどれでもありません。
私たちに与えられているキリストによる救いとは、パウロの言葉通りです。
神の御子が女から生まれたということ、しかも、律法の下に生まれたということ、すなわち、聖霊、神の霊に伴われた天を住まいとされる方、御子、神の独り子が、人間になられたということです。
神の独り子が人間になられたということは、この方が、私たちと地肉を分け合った兄弟となられたということです。
この方は「女から、しかも律法の下に生まれた」という言葉は、味わっても味わっても味わい尽くすことのできない、救いの水がこんこんと溢れ出してくる泉のような言葉です。
御子が私たちと同じ人間となられた。御子が私たちの兄弟となられた。御子が私たちの血族となった。
これは、律法によって明らかにされる呪いの下にある私たちを、神の子となさるためであったと言います。
だから、今ここで私たちは、天の神を、「アッバ、父」、「私のお父ちゃん」と叫んで良いのです。
それこそが、今ここで風速80mの暴風を耐える、決して消えない光です。今ここで既に、成就している救いの事実です。
つまり、世を支配する様々な力、有形無形の力、人格的力、非人格的力、私たちの体に影響を及ぼす力、私たちの心に影響を及ぼす力、どんな力が私たちを襲ったとしても、天の神様が私たちのお父ちゃんとなってくださり、私たちが神さまの愛しい子どもであるという関係性を台無しにすることは絶対にできないのです。
たとえ、この世が総力を挙げて、私たちが天のお父ちゃんの子どもであることを否定する戸籍謄本のように強力な証拠、あるいはDNA鑑定による確定的な反論のようなものが突きつけられたとしても、この関係が覆ることは絶対にないのです。
なぜならば、キリストは律法の下に生まれたからです。力の中の力、正しさの中の正しさ、反論のしようのない神の御心という究極の言葉によって、私たちが、神の子と呼ばれるにはふさわしくないことなんて、世の諸力に指摘されるまでもなく、神ご自身よくご存じなのです。
しかし、そのことをよくご存じであられる神が、私たちを子とするために、私たちと律法の間に、御子を滑り込ませたのです。
そうであるならば、私たちの上にべたべたと貼り付けられる様々なレッテルは、正確で、当たっているとしても、どれもこれももはや用をなさないのです。
律法の評価と私たちの間に神が送られた十字架のキリストがその全てを引き受けられたのです。
時は満ちたと言うけれども、救いは今成就していると言うけれども、何も変わらないじゃないか?私たちの持てるほんのわずかなものも残さず根こそぎに奪っていく時の不条理は、少しも変わっていないではないか?という反論に、私たちは応えることが許されています。
いいえ、決して取り去られないものがある。キリストにあって、私たちが神の子であるということを、取り去ることはできない。神は、いかなる時にも変わらずに私の父でいてくださり、私の喜びとなり、誇りとなってくださる。
この私たち教会の信仰は、そのまま伝道の言葉となります。
「この私だけじゃないんだ。満たされない時に、苦しんで絶望している、諦めて開き直っているあなたのための言葉でもあるんだ。この先、何が起ころうとも、キリストにあって、あなたも神の子だ。世の諸力、諸霊が、どんな評価をあなたに下し、また、あなたの信念を形作らせたとしても、もはやあなたが諸霊の奴隷である必要はないんだ。兄弟となったキリストのお陰で神はあなたのお父ちゃんだ。これこそが変わることのない私とあなたの根源的な事実だ」と、語るのです。
この事実が、この私にとっての真実、聴く者にとっての真実ともなるために必要なことは、これを思い込もうとする努力ではありません。自分の意志によって、そう決めてしまい、信じ込もうとする意志の強さではありません。あるいは、暗い現実に目を閉じて、甘い言葉に流される洗脳されやすい心が必要なのでもありません。
この根源的な事実が、その言葉を聴かされた私達にとっての真実になるために必要なことは、御子の霊が私たちの心に送られるということだけです。
しかし、それこそが一番難しいことであるかもしれません。なぜならば、御子の霊とは、神ご自身の霊であり、神は最も私たちの自由になるはずもないお方だからです。
けれども、この霊は、御子の霊です。私たちのために神と等しいものであることを捨てて、律法の下に生まれてくださった御子の霊、私たちを失わないために、十字架に至るまで、地獄に至るまで、私たちを追いかけて来られる御子イエス・キリストの霊です。そのような御子の名前で呼ばれる霊が、私たちに御子の福音を信じる信仰をお与えにならないはずがないのです。
主イエスご自身、求める者には、必ず聖霊をくださると約束してくださいました(ルカ11:13)。さらに、使徒パウロは、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだ…」(ピリピ2:13口語訳)と言いました。
尋ねようとしない者、求めようとしない者、主の御名を呼ぼうとしない者達にも、尋ねだされ、見出されるために、主は私たちキリストの教会を用いられるのです。(イザヤ65:1)
「ここにいる。わたしはここにいる。あなたと共にいる。私はあなたの神である。」
今日、今ここにおいて、あなたがどのような状況の中に置かれていても、あなたの兄弟となってくださった御子のゆえに、神があなたの父となってくださる消えない事実は、あなたにとっての真実ともなる。神がそれを望んでおられるのです。このことを受け止めて良い。神と和解して良いのです。
最後に短く、なお、語るべきことがあります。それは、これから祝う聖餐の食卓に色濃く表されている神の御心です。
すなわち、この事実は、神と私の間の崩れない真実であるだけでなく、やがては、世を支配する諸力、諸霊もまた、その前に膝を折る、世にとっての真実ともなるということです。
あらゆる力に屈せず、私たちとの幸せな親子関係を固く守られる神さまは、やがて、あらゆる力を屈服させるのです。
たとえ死が訪れようとも、私たちが神の子であることは全く変わりがありませんが、やがて、死が滅ぼされることによって、父の愛が指し示されるようになるのです。
神の子とされるとは、神によって建てられた相続人とされると言い換えられている最後の言葉は、この事態を指しています。
それこそ、聖餐に湛えられた恵みです。私たちとの親子関係を絶対に断ち切られることのないイエス・キリストの父なる神は、この死ぬはずの体、一度は滅び、灰となる他ないこの体をも、お忘れになることはないのです。
石川県大聖寺で生まれ、今の金大、昔の四校で学んだ私たちに近しい逢坂元吉郎という牧師がいます。西田幾多郎の教え子で、西田よりも早く、禅の資質を認められたという人です。その逢坂牧師は言います。
「天地創造の目的は魂と体との調和一致にある。キリストの受肉した秘密もここにあり、キリストは単に霊の人ではなく、聖霊が肉をとったのである。人となり給いし神こそ、我らの救いである。我らの腐りゆく滅びる身体も、キリストの肉に与って神性化され、栄光化される。」
聖餐に与ることは、私たちを探しに来られたキリストの死の体に結ばれることでもあり、また、私たちを体を生かすために神がよみがえらせたキリストの復活の体に結ばれることでもあります。
既に100パーセント神の子でありますが、お甦りのキリストの兄弟として、相続が続くのです。
だから、私たちの生というのは、大きな大きな枠組みにおいては、死に向かう時もまた、この体をも含めた命へと向かって行くことだと言えるのです。
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