週報・長老会便り
説 教 題 「うわべの先に見えてくるもの」
聖書個所 コリントの信徒への手紙Ⅱ10章7節から11節まで
讃 美 歌 284(54年版)
ペンテコステおめでとうございます。ご復活のキリストが、天に昇られた後、留守番の子供のように身を寄せ合って、息をひそめていた男たち、女たち、子供たちの上に、聖霊が下り、主の証人とされた日です。
教会の誕生日とも言われていますが、それはこの日から、伝道が始まったからです。
キリストの尊い血が流され、その価高い支払いにより、私たちは、罪と死、悪魔の所有物であるところから、神のものとされました。それ以来、悪魔ができることは歯ぎしりだけになりました。
カトリック教会よりもさらに500年前に分裂した、私たちの信仰の兄弟、東方正教会では、イースターの時に、このような言葉が必ず読み上げられるそうです。
「…地獄は悲しんだ。そこが空っぽになってしまったから/地獄は悲しんだ。恥をかかされてしまったから/地獄は悲しんだ。葬り去られてしまったから/地獄は悲しんだ。打ち倒されてしまったから/地獄は悲しんだ。縛られてしまったから/地獄は主(キリスト)の肉体を受け取って、神に向かい合う羽目になってしまった/地獄は地上に生きた者(キリスト)を受け取って、天国に出くわしてしまった/地獄は目に見える肉体を受け取って、見えざる力に圧倒されてしまった/…ハリストス(キリスト)復活して、墓の中にはもう死者はいない/ハリストス(キリスト)が死より復活して、死者たちの復活の初穂となったから!」
キリストの十字架とご復活のゆえに、地獄は空っぽだ。信仰のまなざしにおいては、墓ももう空っぽだ。このことは、私たちが気付く前に、人間の誰かが知る前に、父なる神と御子キリストが、成し遂げてくださったことであります。
それゆえ、エルサレムの一つの家に身を寄せ合い、息をひそめていた男たち、女たち、子供たちもまた、自分自身では何の自覚もないままに、神のものでありました。
けれども、それだけでは、まだ彼らのことを教会とは呼べません。ペンテコステが教会の誕生日と言われるのは、父と子より送り出された聖霊によって、神のものたちが自分が神のものであることを先んじて自覚させられ、知ったのならばこのキリストの良き知らせを、人々に向かって、「これが新しい現実です」と語る群れが教会だからです。伝道しない神の民は、まだ教会ではないのです。
しかし、ペンテコステ、キリストの十字架とご復活により、地獄と墓が空っぽになったことを、この自分事として信じる群れ、またその出来事を、「あなたのことだよ」と、出会う人々に告げる召された群れ、教会が生まれました。
今日は、パウロの言葉を、予定よりも一節長く12節まで読めば良かったかなと思いました。特に後半部分、「彼らは仲間うちで評価し合い、比較し合ったりしていますが、分別のないことです」とあります。私たち教会は、「仲間うちで評価し合い、比較し合ったりする」足の引っ張り合いを後ろにして、地獄を閉ざし、天国を広く開ける、天国の鍵を託された教会の使命にもう一度はっきり目覚めることを、この教会の誕生日に、神より聴かされていると信じたからです。
私たち教会の為すべきことは、はっきりしています。神が私たちに授けてくださった権威とは、目の前の人を「打ち倒すためではなく、造り上げるため」のものです。
自分のことをキリストのものだと確信するために信仰に励むのではなく、自分と同じほどに、隣人が、キリストのものであることをよく考えることです。
しかし、今日の所では、差し当たって、使徒パウロとその仲間たちのことをキリストのものともう一度考えなさいということです。
何度もお話ししてきたことですが、12使徒に比べれば、後から出て来た者です。十字架にお架かりになる前の主イエスとお会いしたことはありません。むしろ、パウロの後に来た伝道者たちは、その12使徒たちの弟子筋にあたる人々であった可能性があるのですから、パウロは、コリント教会の初代牧師と言えども、新参者なのです。
しかも、パウロには、いわゆるカリスマ的な魅力はありませんでした。特に、パウロがコリントの町で伝道した当初は、アテネでの伝道の失敗により、すっかりしょげていて、おどおどびくびくしていたようです。
その後ろ盾も、その実際の人物も、本物の使徒らしさというのは、パウロにはないように見えたのです。だから、次々に新しい伝道者がやってくると、パウロの評価は、ガタ落ちになりました。
そこで、パウロは、「あなたがたはうわべのことだけ見ています」と言い、「自分がキリストのものだと信じ切っている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい」と、言わなければなりませんでした。パウロの語った福音もそのせいで捨てられそうになっているからです。
とても面白いことですが、7節後半の「もう一度考えてみるがよい」という言葉は、原文を読みますと、「もう一度自分自身のことを考えてみるがよい」と訳すこともできる言葉です。
自分がキリストのものであることを確信している人は、隣人のことではなくて、自分自身のことをもう一度よく見てみると、隣人もまた、キリストのものであることがわかってくると言うのです。
どういうことだろうと思いますが、先にコリント教会に送られていた第Ⅰコリント書の1:26以下の「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」と語り始めるパウロの言葉を思い出してみればよいのです。
コリント教会の人々が自分自身のことをもう一度見て見ればわかります。
誇るものは何もありません。キリストの者として、少しもふさわしくないのです。なぜ、今、自分がキリスト者であるかと言えば、もう一度よく見ると、神がキリストへと私たちを結んでくださったからです。自分の信仰ですらありません。もう一度よく見ると、それは聖霊なる神が与えてくださったものです。神以外に誇るものはないのです。
そういう自分であることをもう一度、思い出せば、パウロのどのような欠点にもかかわらず、パウロがキリストのものであることがわかるはずです。隣人を神のものと数える祝福の業に生きられるはずです。
少し不思議なことかもしれませんが、私たちキリスト者という者は、自分の足りなさがわかればわかるほど、「これで俺もちょっとは聖なる者らしくなってきた」という自負が失われれば失われるほど、神の祝福が豊かに流れ出る存在として用いられるものだと思います。
私たちキリスト者は祝福を伝えるめに伝道に生きる者です。具体的には、伝道のための証に生きる者たちです。証しというのは、キリストと出会い、キリストと共に歩む自分自身を曝け出しながら存在を傾けて、世に向かって、祝福のキリストを指し示すことです。
けれども、その人間を祝福してくださるキリストを指さす証しは、私たちが普通考えるような「キリストを信じる前は、喜びが少なかった自分が、キリストに出会って、ハッピーになった」という劇的ビフォア・アフターである必要は少しもありません。
私たちの証の言葉は、説教の言葉、預言の言葉とも言い換えて良いと思いますが、パウロは第Ⅰコリントの14:24でこう勧めていました。
「皆が預言しているところへ、教会に来て間もない人が入ってきたら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠されていたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」と言います。
預言の言葉は、人をして罪の告白と、「神がここにいます」ことを告白する言葉へと実を結ぶと言います。
その預言の言葉は、聞く者の心の内に隠されていることを明るみに出してしまう言葉だからと言って、人の後ろ暗い思いを言い当てる霊能者のような言葉ではありません。預言とは、説教の言葉のことです。存在をかけてキリストを証しするキリスト証言の言葉、私たちの証の言葉のことです。
その証しの言葉は、自分を隠さず語る言葉だからと言って、キリストを信じるようになったら、こんなにも人生がうまく回りだしたとか、ハッピーになったとか、人格が円満になったとか、そういう体験談ではありません。証しというのは、劇的ビフォア・アフターではありません。そんな言葉では、罪の告白は呼び起こされないのです。
罪の告白を呼び起こす証しの言葉というのは、洗礼を受けて何十年と齢を重ねた自分の優しいお婆ちゃんが、教会で「自分にはイエス様以外に誇れるものがない罪人です」と語る言葉のことです。尊敬する学校の先生が教会で、「私は、神さまの支えがなければ一日だって立っていることのできない貧しい者です。」と語る言葉のことです。
その言葉を聴いて、言葉と一つとなっているその姿を見て、子どもたちは、生徒たちは、求道者たちは、憧れているけれども、自分は真似できないと圧倒されていたその尊敬すべき人たちと、自分の姿が初めて重なってくるんです。
つまらない人間だと思われたくないから、虚勢を張らなければならない、一角の人間に見られるために、身を鎧で固めていかなければならない。得意なこと、できることを数えながら、自分の存在する価値を証明して見せなければならない。そういう世の中にあって、外から見たら、一角の人間だと思ってた者たちが、神様を拝みながら、こぞって、「自分は貧しい罪人です。神様に生かされているだけの者です。ありがとうございます。」と、しみじみと語る姿を通して、「私も同じだ」と安心して言えるようになるのです。
伝道の言葉というのは、私たちの証の言葉を聴いた者たちに、その言葉が通じたならば、「私もああなりたい」と思わせるような言葉ではありません。そんなものじゃありません。
伝道の言葉というのは、その言葉が通じたならば、私たちの証の言葉を聴いた者たちが、即座に「ああ、ここに私のことが語られている」と、受け止めざるを得なくなる言葉のことです。
「いつか、ああなりたい」じゃなくて、「私はもうこういう者なんだ」と、キリストの出来事の中に自分を発見するのようにさせるのが、キリストの出来事を証しする言葉です。
世の人が外から見れば、教会は、信心深い良い人間の群れに見えるかもしれません。しかし、どんなに問題のないような顔をして見えたとしても、私たちは結局のところは、週毎に、自分の罪の告白と神様の素晴らしさを讃えるために集まってくるキリスト者です。
それがなかなか上手くいかない時はありますが、教会共同体は、自分をよく見せなければならないという裃を、究極的には既に脱いでしまった飾らない人間の集まりです。
罪に開き直って生きるわけではありません。神の言葉を聴きながら、日々、悔い改めつつ、何度でもやり直す勇気を持って、もがきながらも誠実に生きようとするのです。
慈しみ深い父の赦しを信じて、この父の助けを信じて、安心して、ありのままの自分で、精一杯生きるのです。そんな飾らない人間の群れの中でこそ、人は初めて、鎧を脱ぐ気になるでしょう。
もちろん、簡単には参りません。その教会の語る言葉、口々に自分の罪を礼拝という公の場で告白する、皆さんのその証しの言葉を聴いても、誰もがすんなりと、自分の武装を解き、安心して自分の罪を認め、神様の御前ではそういう者でしかない我々赦された罪人の仲間入りをしようという気にはならないかもしれません。いいえ、本当のことを言えば、自分の力では、誰も鎧を脱ぐ気にはなれないのです。
なぜならば、自分が無防備な何も持たない裸の人間であることを受け入れることこそ、創世記の冒頭に物語られるような、原罪、Original Sinとしか表現しようのないほどに、本能的に、隠したい自分の姿だからです。
罪とは、まさに、自分の罪深さ、貧しさを認められないことです。私たちは、神さまの前でも、隣人の前でも、裸の自分であることが嫌なのです。
これは、信仰にまだ生き始めていない人のことばかりではありません。罪の赦しを自覚的に受け止めさせて頂いたはずの教会にとっても、当たり前のことではなくなってしまい、罪を隠して、自分の立派さを誇りだすような息の詰まる集団になってしまいがちなのは、コリント教会の姿を見ればわかることです。
けれども、人間にはできずとも、神にはおできになるのです。私たちキリスト者を何度でも、福音の本筋に立ち戻らせ、私たちの証言の言葉を通して、聞く者を、私たちと同様に罪の告白と神賛美に至らせるのです。これが聖霊なる神様の御業です。
「私は罪人です。私は貧しい者です。」と大胆に告白できるのは、聖霊なる神がくださる奇跡です。
この聖霊の賜物である預言の言葉、証しの言葉、告白の言葉こそが、第Ⅰコリント第14章では、「教会を造り上げる」言葉と呼ばれています。それはまさに、今日の個所の8節で、パウロが、キリストのものである自分に授けられている権威とは、「打ち倒すためではなく、造り上げるため」の権威と言っているものと同じものです。
もちろん、私たちはパウロがこのように語るとき、パウロがいつも優しい綿あめのような言葉を語ったのではないことを知っています。パウロの言葉は決して、今の小学生たちが学校でまず教わるような、わかりやすいふわふわ言葉ではありませんでした。
人に悲しみをもたらす言葉、厳しい叱責の言葉、ちくちく言葉のように響くものでもあったことは、ここまでコリント書を読んできた私たちはよく知っています。とりわけ、今日の9-11節はよほどきつい言葉です。けれども、これ以上、この言葉について説明する必要はありません。
パウロは、いいえ、パウロを用いられる神は、傷を治す用意もないのに、包帯を剝がすようなお方ではありません。本当の本当のふわふわ言葉、人間を生かし、嬉しくする言葉、命の薬である福音を聴かせるためだけに、包帯を剥がすような痛い言葉をも語ります。だから、厳しい神の言葉、説教の言葉、証の言葉に出会っても、怖がることはありません。祝福の神は、その良き知らせを私たちの上辺ではなく、私たちの最深部にもたらそうとされるのです。
私たちの証において、劇的ビフォア・アフターは必要ない。いつもニコニコハッピーな姿を見せる必要などないと申しました。自分の成功、自分の幸せではなく、自分の貧しさ、自分の罪深さを神に向かって告白する私たちの礼拝の姿が、証の言葉だと申しました。
けれども、自分の罪深さを神に向かって告白し、ただ神さまの憐みを慕い求める私たちの顔は、やっぱり、曇ってなんかいないと思います。キリストの戦いは、もう既に最深部に達したからです。地獄も墓も、もう空っぽだからです。私たちがキリストのものであり、キリストが私たちのものであるから、自分の貧しさを父に語る私たちの顔は、安心しきっていて、明るく輝いていると思います。
今、私が、説教壇から見渡すことのできる、ここに集まっている少数の方々ばかりではありません。今日も、散らされた各所で、礼拝を捧げている金沢元町教会のキリスト者たちが礼拝を捧げているその時の顔を見てくださいと申し上げたいと思います。
いいえ、今、この瞬間、その表情を見られずとも、五旬節の日に、律法の二枚の板を授けられたモーセの顔は、山を下りた後も、輝いていたように、皆さんの顔はそれ以上に、礼拝から送り出された後も、神の新しい約束そのものであられる十字架のキリストのもたらす不思議な光を反映するのです。
祈ります。
主よ、あなたは御聖霊を私たちに豊かに注いでくださいました。私たちのイエス・キリストを通して。それは私たちがその恵みによって義とされ、私たちが希望を置いている永遠の命を受け継ぐためです。御子のゆえに、空になった地獄、空になった私たちの墓であることを信じ、夜がますます濃くなっていくようなこの世界にあっても、恐れることなく大胆に罪を告白し、誠実に生きることができますように。そのような教会が既にここにあることを感謝します。しかし、そのすべては、私たちの手柄ではなく、聖霊の賜物であることを覚え、あなたに栄光をお帰しいたします。
私たちをご自分のものと呼んでくださる主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
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