天の父の完全のゆえに

 今日共に聞きます聖書の言葉において、主イエスは、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と語り始められます。また、矢継ぎ早に、「下着を取ろうとする者には、上着をも取らせよ」、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行け。」と続けられます。しかも、それはイヤイヤであってはなりません。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とも言われているからです。ここにはファリサイ人、律法学者の義にまさる義をお求めになる山上の説教を語る主イエスらしい言葉遣いがあると思います。

 これらの言葉において、私たちは、主イエスによって厳しい倫理的態度を持つように勧められていると読むのが自然な理解であると言えるかもしれません。しかも、ここで求められる厳しさは、私たちの心に不安を起こすものだとも思います。現実的な学者が語ることは、右の頬を打たれたとき、左の頬を差し出すことは、意表を突く行動によって、私たちの頬を打とうとする者の心をたじろがせるための処世訓では決してないということです。最初は相手の勢いを削ぐかもしれない。けれども、二度も三度も通じるものではない。左の頬を差し出す者に打つ者が慣れてしまえば、当然、3発目、4発目の平手があっても不思議はないのです。だから、さらなる侮辱に甘んじることを覚悟しろということでしかないと言うのです。

 40節の下着を取ろうとする者には上着も与えなさいというのも、逆手を取るような処世訓ではなく、同じように大きな覚悟を必要とする言葉だと言えます。旧約聖書の規定には、貧しい者から、借金の形として上着を取り上げてはならないとあります。そして、もし、取り上げたとしても、夕べには返さなければならないとあります。その上着とは、貧しい者が、夜の冷え込みから自分の身を守る布団の役目を果たすものであったからです。つまり、下着を取る者に、上着まで与えるということは、年齢や、季節によれば、命の危機に直結することと言っても大げさではありません。 

 さらには、41節の言葉も、限度を超えてしまっていることのようです。おそらくここで想定されているのは、友人との付き合いの話ではないのです。多くの人が指摘するのは、昔のペルシアの郵便制度が念頭にあるだろうと考えられています。町から町の要所要所に配達所が設けられ、そこに人と馬が備えられ、速やかに郵便を国中に配っていた。けれども、その途中で、馬が故障した。配達夫が倒れたなどということがあると、その町にいる馬でも人でも、それが全部配り終えるまで、強制的に取り上げ、また働かせることができたと言います。そういう制度があったと言います。 

 だからここで主イエスの念頭にあるのは、国や軍隊によって無理やり、私たちの時間や財産が理不尽に奪われる時、それに甘んじるどころか、倍のものを与えよということです。このような経験は本来、屈辱以外のなにものでもありません。

 これらの三つの実例を伴う言葉は、プライベートにおいても、公のレベルにおいても、悪に対して徹底した無抵抗を貫けということだと聞こえます。あるいは、敵を愛せという言葉に尽きると思います。ただでさえ苦しいことです。しかも、それは、悪を止めるための、新しい知恵ではありません。じっと我慢すれば、悪は自分の悪に気付き恥じるだろうということではないのです。ある人は言います。ここで言われていることを実践すれば、悪をますます増長させるばかりだと。それほどに、やられっぱなしになるための教えだと感じます。しかも、ただやられっぱなしを耐えるというだけでなく、その敵という他ない相手に愛を返していくのです。

 それは、考えてみれば、主イエス御自身の歩みそのものでした。主は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになられました。けれども、神にお任せになったこの方の生涯は、十字架へと至りました。それは神の腕が短すぎて、この方を救うことができなかったというのではなく、神の御心だったのです。そうであるから、これは苦しいことです。主ならではの業であり、私たちには出来そうにはない、とてつもなく高い道徳的要求と響きます。 

 しかし、おそらく、主イエスはここで、それでいいではないかと仰っていると素直に捉えることが正しいのだと思います。そんなことをすれば損をしてしまう、命を失ってしまうという私たちの不安や怖れに対して、なぜ、命を失ってはいけないか?と仰っていると思うのです。 

 45節に、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」どんな者にも愛を施すことを差し控えない、それが天の父の子らしいことだと主イエスは仰います。

その関連で48節は、決定的な言葉です。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」私たちを無制限な愛の行為に引き出そうとする、主イエスが見据えておられるのは、天の父の愛の完全であり、また、私たちがその子供なのだということです。主イエスのまなざしには、本当に私たちが神の子として映っているということだと思います。子は親に似るものではないか。あなたがたは、神の子ではないか。そうであれば、あなたがたの生き方は、天の父のなさりように似て来るはずではないか?それだから、あなたがたの歩みはまさに神の独り子たる私の歩みに似てくるはずではないか?と仰るのです。  けれども、やはり、これはなお途方にくれさせる言葉ではないでしょうか?キリスト者とは、神の子であると言われながら、私たちはキリストのまねをすることがどうしてもできないと、そういう挫折を生涯かけて味わわなければならない者であるとも思います。それはちょうど、キリストの使徒であるパウロが、なお、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意思はありますが、それを実行できないのです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」と言わなければならなかったのと同じです。だから、山上の説教における主イエスのまなざしの高さと、自分の現実との間で、私たちがこのように天の父の完全から遠い者であれば、やはり私たちは神の子としてふさわしくないということになるのだろうかと不安になります。

 先週の日曜日、礼拝も長老会も終わって、携帯を開きますと、教会のある方からメールが送られていました。はじめて大雪を経験しました私へのねぎらいの言葉と、もうひとつ面白い文章を添付ファイルで送ってくださいました。前日の土曜日に行われました2018年のセンター試験の倫理に出された問題の中の2つの文章を先生も興味があるでしょうからと送ってくださったのです。その文章は、もしかしたら、既にご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、先ほど引用したローマの信徒への手紙第7章でパウロが語る「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」という私たち人間に内在する罪の法則を語る部分に基づいた問いと、もう一つは、「キリストと子弟の関係」という内村鑑三の文章を巡る問いの二つでありました。その二つの質問とも、教会の信仰の本質部分に触れるような質問と感じられ大変驚きました。こういう出題をしたのは誰だろうという興味が湧きましたし、高校で倫理を学ぶ十代の若者がこういうことを学んでいるのかということを知り、たいへん頼もしくも思いました。 そんなに長い文章ではないので、受付でお配りした内村鑑三の文章を、ここでご紹介したいと思います。こういう文章です。

 

 「罪から救われた者が、だ罪に沈んでいる者を救おうとするのが伝道であり、救済である。私が救済を唱えるのは、私が完全無欠の人であるからではなく、私はかつて癒されたことがあるからの快を他人分かちたいと思うからに他ならない私たちは、世の人々を教えようとする教師ではなく、体験したことをの人々に分かとうとする表白者である。私たちは、人々を私たちのもとに導こうとする者ではなく、私たちを経由してを神のもとへと導こうとする者である。したがって、私たちは、欠点を指摘されることを厭わない。なぜなら、私たちの欠点はかえって神の完全性を示すことになるからであり、私たちの弱さは神確認させることになるからである。

 今日の主イエスのお言葉と真っ向から対立するようですが、私たち伝道する者は完全である必要がないと内村は言います。自分を指しながら、伝道者は完全である必要がないと言います。しかし、もちろん、この場合、その伝道者内村とは、キリスト者の代表としての伝道者にすぎません。だから、やはり、キリストにある者すべてです。キリストを宣べ伝える者である全てのキリスト者は、欠点を持っていて良い、弱さを持っていて良いと言います。

 センター試験の質問は、この内村の文章について、4つの答えの内から当て嵌まるものを一つ選べと問います。この選択肢も朗読しますので、お聞きになりながら、どれかなと、考えてみたら面白いと思います。なぜ、弱さを持っていてよいか?なぜ、完全無欠な人間でなくてよいか?

 

 ①キリスト教の伝道は、罪に沈む人々を伝道者の力で直接救済するものではないのだから、伝道者は弱き自己が救済された体験を伝えることに徹するべきであり、神の完全性を示すことを目指すべきではない。

 ②キリスト教の伝道は、伝道者が弱さを自ら克服した体験を語ることによって、人々に弱さを克服する意思をもたせるものである。したがって、伝道者の持つ弱さは、伝道を行ううえで、かえって好都合ともなり得る。

 ③キリスト教の伝道は、人々を神に出会わせるという重責を担っているため、伝道者は自らの弱さを自覚し、厳しい自己鍛錬によって神の強さに少しでも近づくことができるよう努めなければならない。

 ④キリスト教の伝道は、人々を神に出会わせ、罪から救われる喜びを伝えるものである。その際に、伝道者の持つ弱さが人々に露わになったとしても、そのことはかえって神の強さを示すことにもなり得る。  

 すごく良い選択肢だと思います。もし、教会に通っている者であっても、内村の文章がなければ、どれもそうかも?と思う人がもしかしたらあるかもしれませんし、内村の文章があっても、二つくらいの選択肢で迷うことがあるかもしれません。もちろん、落ち着いて考えれば、おのずと正解は、4番目の選択肢だとわかります。「伝道は、人々を神に出会わせ、罪から救われる喜びを伝えるものである。その際に、伝道者の持つ弱さが人々に露わになったとしても、そのことはかえって神の強さを示すことにもなり得る。」ということです。 

 私は、私たちが今日の聖書の御言葉を聴こうとするときに、こういう文章と思いがけず、出会ったというのは、やはり、ひとつの導きだと信じます。ここまでずっと読んで来た山上の説教において、私たちがずっと、何度でも聞いてきたことは、そこに書かれていることがどんなに厳しく私たちの罪の真相を暴露するものであったとしても、「私たちの罪にもかかわらず」ということでしかありませんでした。 

 それは、内村が主から聞いていたことと変わるところはありません。「私たちの欠点はかえって神の完全性を示すことになる」ということであり、また、センター試験の発題者の表現によれば、「伝道者の持つ弱さが人々に露わになったとしても、そのことはかえって神の強さを示すことにもなり得る。」ということです。

 今日私たちが聴きます、マタイによる福音書53848の主イエスの御言葉も別のことを語るわけではありません。45節で「あなたがたの天の父の子となるため」という表現は、徹底的な悪への無抵抗と愛が、まるで、神の子となるための条件のように主が仰っているように見えますが、丁寧に見れば、「あなたがたの天の父の子となるため」というのは、やはり、神が私たちの天の父であることが前提とされている言葉です。それは、48節ではもっとはっきりしていて、「あなたがたの天の父が完全であるように」と、神は、私たちの行為の前に既に私たちの父であられることが前提とされているからこそ、「あなたがたも完全な者となりなさい」と主はお命じになっているのです。 

 とても示唆深いことは、4647節において、自分を愛してくれる人を愛したところで、そこには「どんな優れたことをしたことになるだろうか」という言葉は、「通例ならざること」という意味であり、ある人は、「常識を越えること」だと表現します。悪にて向かわないこと、敵を愛し、敵のために祈ること、これは、道理に合わない常識を越えてしまっていること、非常識なことだと主イエスは、仰っているとも言えます。だから、さらに言えば、神は常識を越えられていると仰っていることでもあります。

 そして、考えてみれば、神が私たちの天の父と呼ばれることこそ、常識を越えたことなのです。すなわち、45節の「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という神のお姿は、素朴で牧歌的な自然の神学を語っているのではなくて、私たち教会にとっては、イエス・キリストのできごとにこそ当て嵌まることです。イエス・キリストというお方が、神の子にまったくふさわしくない私たちを、御自身の十字架とご復活において、神の子にしてしまったということこそ、悪人をその悪によって報いることを決してされない天の父なる神の恵みのできごとなのです。 

 ローマの信徒への手紙56以下にこのようにあります。

 「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬものはほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」 

 だから、イエス・キリストにおいて罪人を完全に受け入れてくださるという神の完全が促す私たちへの「完全な者になれ」という命令は、完全無欠な人間になれということではないと思います。ここで命じられる「完全な者になれ」とは、「神の愛の内に完全に生きる者となれ」という命令以外ではない思うのです。言い換えるならば、神が私たちに語ってくださる「にもかかわらずに」、完全に聞くということです。私たちが罪人であるにもかかわらず、神は、私たちの天の父と呼ばれることを恥とされないのだということを、完全に信じるということです。悪人にも恵みをくださる神の愛、それは、私たちが神の側に立って、神と一緒になって、悪人に愛を注ぐということでなしに、その愛が何よりもこの私に注がれているのだということを、疑わないということです。これは、厳しい裁きの言葉でもあります。また、これは厳格な命令です。しかし、快い裁き、快い命令です。神のまなざしにおいて罪人であった私たちが神の子であることを疑ってはいけないとの神の裁きとご命令は、神の愛の言葉そのものだからです。

 私たちの完全性とは、私たちが弱さや欠点を持たないということでなしに、頭の先から足の先まで、この罪人を子と呼ばれる神の恵みに完全に頼るということ以外ではないと思います。

 けれども、自分の良さによってではなく、それを放棄して、神の恵みに完全に生きる時、そのように溢れるばかりの神の恵みの中にある自分を知るとき、私たちの生き方はどうしても変わらざるを得ないのだと思います。右の頬を打たれた後に、左の頬を打たれても、下着のみならず上着を取られても、1ミリオン行くよう強いる者と2ミリオン歩いても、敵を愛し、敵のために祈っても、どうしていけないのか?主イエスの言葉は、神の恵みの言葉に自分をどっぷりつけてしまう時に、やはり、新しい響きを響かせ始めます。

 神だけが私たちの誇りになってくださるのだから、どんなことがあっても私たちの父なる神がキリストにおいて、私たちの死となり、復活となってくださると堅く宣言してくださるのだから、私たちが守らなければならない自分というものは、究極ないのではないか?そのように常識を疑問に付し始めた私たちは、その時、既に、この身をもって神の完全を指し示し始めているのだと思います。

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