配偶者を大切にするには?

この世界のはじまりについて聖書が記す創世記の記述において、人間の創造のパートは、ほとんど直ぐに夫婦の創造とも言うべき、書き方がなされます。

 

 他の動植物に関しては、雄雌を作ったとことさら言われることはないのに、人間の創造に関してだけは、男と女という記述があります。

 

 創世記2:18で主なる神は仰いました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と。そして、主なる神さまは、人を深い眠りに落とされ、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げたと続きます。自分の助け手として造られた女を見た男はこう言いました。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と。この最初の男女、最初の夫婦の誕生の物語は、次の言葉で結ばれます。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と。神が人間を作られたとき、人が一人でいるのは良くないからと、野の獣、空の鳥を連れてきたけれども、どれもふさわしいパートナーとなることはできなかった。だから、神は、人間から、アダムからエヴァを作り、お与えになった。

 この聖書の記述を読むとき、私はこういう話を思い出し、少し面白くなります。男女の違いがどれほどのものであるかを、語ろうとした生物学者が、人間の男と女よりも、男はゴリラの雄に、女はゴリラの雌に、生物学的にはよっぽど近いと言ったことを思い起こすのです。男女の違いは、それほど大きいと言うのです。 神は人間が一人でいるのは良くないから、男と女をお造りになったという時、また、野の獣、空の鳥もどれも人間のふさわしいパートナーとなりえなかったと語るとき、私は、世界中で人間はただ一人というアダムの孤独を癒すために、エヴァをお与えになったとこれまで考えてきましたが、そうではないかもしれないとも思うのです。孤独を癒すためであるならば、雄のゴリラでもよかったかもしれない。雄のチンパジー、いや、雄犬でも良かったかもしれない。もしかしたら、その方が、お互いを理解しあえるという一点においては、ずっと、わかりあえたかもしれない。けれども、それはふさわしい助け手とはなりえなかったと言うのです。 

 そこで、神はアダムを深く眠らせ、眠っている間に、彼のあばら骨からエヴァを作りました。彼の骨の骨、肉の肉というほどに、まさに、同種のものでありながら、しかし、また生物学的なある側面から言えば、同性の動物よりも、ずっと大きな違いがあるというようなエヴァを作りました。それこそが、お互いのふさわしいパートナーであると。

 全く別々の存在が、一人の人のようになるのです。こんなにも違う存在が本当に一人の人になれたとしたら、それは本当にものすごく豊かなことであると思います。もうおお亡くなりになりましたが、河合隼雄というユング派の有名な心理学者は、夫婦関係における理解できないと思う深い深い溝は、大きな川のようなものだと言いました。その溝が深ければ深いほど、広ければ広いほど、そこに網を張った時に、得られる魚の量は、それだけ豊かなものになると言いました。その通りだと思います。アダムとエヴァが違う存在であればあるほど、二人が一体となることの実りは大きいと思うのです。

 これは、何重にも、面白い物語であると思います。たとえば、現代に生きる私たちは、配偶者は自分で決める者だと思っています。けれども、創世記の最初の夫婦の誕生の物語は、人が寝ている間、神がその相手を作り出し、与えたのだと語るところも示唆的です。それゆえ、旧約聖書の父祖の時代が、どんなに一夫多妻を当然としているように見えても、それは神の言葉を真剣に受け止めることのできない人間の罪の現実を示しているにすぎないのです。聖書に示される神の御心は、アダムとエヴァの関係に示される一夫一妻でありす。ここから、「姦淫してはならない」と命じられるのです。それは、この一体である夫婦の絆を壊すことになるからです

 十戒の内で、「殺してはならない」という戒めの直後に、この戒めが置かれていることは、おそらく偶然ではありません聖書は、結婚を二人の人が、一人の人のようになって生きることだと語るゆえに、その関係を引き裂く姦淫は、一人の人を引き裂き、殺すようなものであるのです。

 

 このことがわかると、今日お読みした主イエスのお言葉がなぜ、厳しいお言葉であるかの理由がわかってくると思います。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」だから、もしも、見ることによって、貪欲が心の中に湧き上がるならば、その目を抉り出せとまで主は仰います。ものすごく厳しいお言葉だと思いながら、けれども、これが主イエスのお言葉であるゆえに、ただの威嚇のお言葉ではないと思います。主が、姦淫の罪をこれほど厳しいものとしてお語りにならなければならなかった理由は、この罪がどれほど、私たちの命を損ねる罪であるからだと思います。主イエスがこのようなものとして姦淫の罪を語りなおさなければならなかったのは、夫婦という大きな違いの中で一体であるというはじめからそのようなものとして与えられていた深い人間関係を他者と築く幸いを与えてくださった神の賜物を、一方的に諦めて破壊するものだからだと思います。だから、逆に言えば、この主イエスの言葉の激しさは、私たちが今となっては思いがけないほどに、結婚という賜物を神がどんなに良いものとして私たちに与えてくださったかの証拠でもあります。

 キリスト者は結婚を神からの賜物として受け取るように召されています。それは、自分の力と才覚で自由に獲得した報酬ではありません。神が恵みの賜物として与えてくださった配偶者です。だから、神が与えて下さった配偶者を姦淫によって裏切る者は、自分を殺し、神を裏切ることになります。

 旧約聖書において、神への裏切りである偶像礼拝と、姦淫の罪は、深い関係にあることが語られます。偶像礼拝は、しばしば、姦淫の罪にたとえられす。偶像礼拝と姦淫は、とても似ています。愛すべきものを愛さず、頼るべきものに頼らず、偽りの対象にを慕い求めることが、姦淫であり、偶像礼拝であるからです。自分達を救うのは、主なる神ではなく、他国の軍隊だ、他の国の神々だと神ならぬ者に頼るあなたがたは、姦淫の罪を犯す者だと神は言われるのです。偶像礼拝とは、神ならぬ的外れな所に救いを求めて行くことに他なりません。そして、それは、結婚のパートナーを放り出して、もっと理解しあえるという望みを抱いて、別の異性と親密な愛情関係を築くことができると考えることに他なりません。 

 そしてこのような姦淫は、主イエスの言葉においてはっきりするように、単に肉体関係の裏切りだけによらず、心の内で既に、自分のパートナーを諦め、別の異性の内に、理想の相手を見出そうとする時、既に、姦淫の状態に踏み込んでいることになるのです主イエスは、言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。主イエスは、心を問われます。だから、それは、こういう風に言い換えてみても良いかもしれません。他人の配偶者を羨ましがること、自分の配偶者と他人の配偶者を比べて、もしも、この人が、自分の妻であったら、夫であったら、今よりも、幸せな生活が送れていたに違いないと心の中で思うならば、それは姦淫の罪の延長線上にある心なのです。単に肉欲を満たそうというのが、問題なのではありません。心と体を含めた愛し、愛される愛の関係を築くことを夫婦関係以外に求めることが問題なのです。そして、おそらく、第6戒が私たちと遠い戒めではなかったと同様に、第7戒も男であろうが、女であろうが、自分と遠く離れた戒めではないと思います自分の夫は何でこういう人じゃないんだろう?自分の妻は、どうしてこういう妻じゃないんだろうと他人の配偶者をうらやむことはないでしょうか?配偶者ではない、別の人の方が、もっと自分に理解があり、心を込めて自分と向き合ってくれ、もっと自分を幸せにしてくれるのではないかという幻想を抱くことはないでしょうか?残念ながら我々は完成されて人格者ではないのであり、自分の配偶者を失望させざるを得ないのではないでしょうか?それは、相手も同様です。相手もまた、完全な人格者ではないので、私達を失望させるでしょう。ある神学者は、主イエスの語られた心の犯す姦淫を思い巡らせながら、我々が完全な人間ではないゆえに、完全な結婚は営めず、「破れることなしに終わる結婚はない」と言いました。結婚生活が、理想とかけ離れていくのは、間違った相手を選択してしまったからではなく、我々が罪人だからだと言うのですそうであるならば、いくら理想の相手を探し求め、完全な愛の関係を築こうとしても、満足するはずはありません。それゆえに、姦淫の心とは、結局のところ、自分の力に頼っている、自分の力で幸せを掴み得ると思っているという罪の心ということなのです。

 今日の聖書個所を読みながら、一つ思い浮かぶのは、ヨハネによる福音書8:1~11に語られた、姦淫の現場を捕えられた女性の姿す。彼女は現行犯逮捕されたのです。女は姦通の現場を捕えられ、律法学者、ファリサイ人に引き渡されたのです。彼らは主イエスの前にこの人を引き出すと、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と問います。ヨハネによる福音書には、この女の夫の姿はありません。けれども、あるクリスチャンの法律家が、姦通は、だいたい、配偶者が見つけるものだと教えてくれました。だから、ヨハネによる福音書において、姦通の現場を捕え、ファリサイ派や律法学者に引き渡したのは、その夫だったと考えることができるかもしれません。この世で最も深い愛を育むべき、相手から、わたしの配偶者は石で打たれて構わない、もう死んでもらって構わない、死んで欲しいと宣告されたと言うことです。それは、主イエスの心まで問う罪の問い方に従えば、それこそ仕方のないことかもしれません。最も善いはずの人間関係が、最も悪いものになってしまったからです。神が定めてくださった一体の関係が、罪によって、破壊されてしまったからです。神が下さった賜物で、最悪の苦さを作り上げてしまったからです。しかし、主イエス、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われると、人々は、年長の者から始め、年若いものに至るまで、みんな去ってしまったのです。これは、示唆深いことであると思います。それは私たち自身の心にある罪の思いがどういうものであるかを教える出来事であったと思います。私たちのが自分の配偶者に対して、もう少し、こうでいてくれたら良いのにという思いを持ちますし、他人の妻、他人の夫を見て、できる事ならこういう人と結婚したかったと夢想したことがあるならば、それは、やはり、姦淫の罪を犯したことと同じなのです。皆が、主の言葉に従えば、裁かれるべき存在です。

 けれども、主は女に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない。」と。それは、私たちにも語られた言葉です。主イエスが来られたのは、そのような罪人のためなのです。主は私たちの罪をご存知です。そして、主だけは、結婚を与えて下さった方として、私たちに石を投げつけることができる唯一のお方です。けれども、主は私たちの罪を赦して下さいました。私達に代わって、死の罰を受けてくださり、私たちを赦して下さいました。ただこの一点において、私たちはなお、配偶者と共に生きることができるのだと思います。主イエスに赦された夫として妻に向き合いたいと願います。

  けれども、また、これは、結婚関係という最も身近な人間関係において、もっとも鋭く浮き彫りになる私たちの罪の姿ではありますが、ただ、婚姻関係の中だけの話にはとどまらないとも思います。私たちが、人間関係において日々がっかりするのは、配偶者に対してだけではないからです。これまでも、これからも、家庭では、配偶者のみならず子供にもがっかりする。親にもがっかりする。職場では同僚にもがっかりする。上司にもがっかりする。教会に来たら、牧師にがっかりする、教会の仲間にがっかりするなんてこともあります。いや、自分自身にがっかりし、生きるのに何の意味があるかと思い込んでしまうことがあります。

 けれども、その一人一人が主が私たちにくださった共に生きる隣人であり、自分であり、主がその者たちのためにも死なれたことを思えば、私たちが共に生きることを放棄してしまって良い者は誰もいません。それは、私たちの誰もが主の宝だということです。結婚式の時によく読まれる聖書の言葉としてエフェソの信徒への手紙521以下のお言葉がありますが、その25節以下にこういう言葉があります。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自身の前に立たせるためでした。」花嫁は美しいから愛されるのではなく、愛されるから美しいのです。これは、私たち自身にそのまま当てはまる言葉です。キリストに愛される私たちです。その私たちと隣人は、私たち自身にとって、このキリストの愛のゆえに美しいのです。このキリストの愛に支えられて、人と向き合うのです。どんなに違う人間とも、合わないと思う人とも、最も大切なこのキリストの愛を分かち合うのです。いつもそこから夫婦関係を、あるいは、隣人との関係をやり直すことができるということは、本当に大きな幸せなのです。

 

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