義のために迫害される人々は、幸いである!

 山上の説教の冒頭部分で主イエスが語られた8つの祝福の言葉を聞き続けてきました。そして、とうとう今日聞きました「義のために迫害される人々の幸い」が、その最後の第8番目の幸いの宣告の言葉になります。 

 けれども、ある学者は、この8番目の「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちの者である」というこの最後の祝福の言葉は、先立つ7つの祝福の言葉と比べて、新しい要素を何も持ったものではないと言います。確かに振り返ってみますと、言葉の上でも、6節の「義に飢え渇く人々」への祝福と、とても似ていますし、「天の国はその人たちの者である」という約束は、最初の3節の心の貧しい人々へ与えられる報酬の言葉とぴったり重なっています。

 だから、この最後の祝福の言葉は、これまで語られた祝福の全ての言葉を、中心的な観点からもう一度、しっかりと教え込むための言葉だと言われます。これは、少し意外なことであるかもしれません。 

 私たちは、山上の説教の8つの祝福の言葉を読んだり、耳にするとき、これは自分に少しは当て嵌まると安堵したり、自分はここに書かれているようなものではないと尻込みしたり、一喜一憂しながら、それでも、この祝福の言葉の中に自分の実現可能なことを見出そうとするものだと思います。しかし、これが一人の人の一つの生き方を示すものだとすれば、この祝福される8つの姿の一つでも取り落とすならば、全部に失格することになってしまうのです。だから、ある説教者は、ここで次々に主イエスが語られたさいわいな者の姿とは、別々の者ではなくて、「むしろ、一人の人の示すさまざまな姿がここにある」と言います。いやそれどころか、一人の人の示すいろいろな面ということですらなくて、「ひとりの人のひとつの生き方が、さまざまに語られているだけ」とまで言うのです。 

 最初に聞いた心の底から貧しくなっている人と、今日最後に聞く義のために迫害される人も、貧しい小さな信仰者から、迫害に耐え得るほどの強い信仰者まで、幅広い信仰の強弱、祝福される信仰者の上限と下限を示しているわけではない。自分は悲しむ者だけれども、義のために迫害される者だという言葉の前には尻込みをしてしまう。私はそのような迫害に勇敢に耐えられるようなキリスト者とは到底言えないとは言えません。貧しい者は、迫害される者だと一息に語っているのです。 

 けれども、そう言われてしまうと、どうしても困惑してしまいます。今まで読んできたこの山上の説教の冒頭で祝福される人の姿とは、特に5節以降はどれも、私たちの現実のあり方とはかけ離れた清く正しい人の姿ではなかったかと思われるからです。私たちがいつも丁寧にその一つ一つの姿を自分たちの姿と重ね合わせて考えた時、自分の足りなさがあぶりだされ、途方に暮れるような思いになったのです。

 そして、今日最後に聞くこの「義のために迫害される人々」への幸いの言葉は、それこそ、私たちには縁遠い言葉として響く主イエスの祝福の言葉の最たるものだと思えてしまうのです。義のための迫害、正しいことを貫いたところで受ける迫害です。ここで言われる義、正しいこととは、11節を見ると、「わたしのため」、また12節では、「あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」とありますから、信仰の正しさ、信仰の節操を貫くことであると言い換えても良いだろうと思います。そのような信仰を貫いたところで向き合わなければならない迫害を受ける人々は幸いだと、主イエスが励ましていて下さるのです。このマタイによる福音書が書かれた当時の教会が置かれつつあった状況を考える時、これは本当に真剣な言葉として響いたに違いないと思います。異質な者を排除したいという人間の思いに従って、各地で村八分や使徒言行録のステファノのように散発的な暴力に遭っていたキリスト者たちが、時代が進むごとに、最初は世間を騒がす信仰を捨てないという頑固さのゆえに地方の裁判で訴え出られた時に限って有罪の判決を受けるようになり始めました。そして、やがては、皇帝を神として礼拝しない政治的危険分子として、わざわざ探し出され処罰される国家による組織的な大迫害の時代へと突入していったのです。

 私たち日本人にとって、このような迫害は遠い外国の話に留まりません。この金沢でも、キリスト者に対する大きな迫害がありました。金沢には、高山右近を保護し、右近の伝道の元に、何千人もの大勢のキリスト者が領内に生まれたという金沢に生きる教会として真に誇らしい歴史があります。しかし、それから数百年後、明治維新の直後に信仰を言い表し逮捕され、流刑された五島列島の浦上村のキリシタンたちの大勢が加賀藩に預けられ、しかし今度は、その過酷な取扱いにより、多くの殉教者を出し、それは、その告発により、キリシタン禁教令高札の撤廃に繋がるほどのものであったのです。因みに、土壌のかば焼きがこの地で食べられるようになったのは、ろくな食料を与えられなかったキリシタンたちが、川で取って食べ始めたのが始まりだと言われています。また同時に、私たちは、1883年の夏に、東京から金沢へ教会の応援に来ていたか加藤敏行という青年伝道者が、教会員宅への訪問の帰り、夕暮れ時に、今の県庁前に差し掛かった時に、二人の男性に木刀で襲われ、その翌年、その傷が原因で亡くなったことを忘れることはできません。

 私はローマ帝国での迫害、日本での迫害のことを考えると、一神教は非寛容で、多神教は寛容という図式は全く的外れなものだと思わされます。異質な者を排除したいという根強い心根は、そもそも人間に備わっているものではないかと思うのです。

 私たちは、このような信仰者たちの迫害を見る時、どこか恥ずかしい思いが湧き上がってくる気がいたします。これほどに信仰の節操を貫くことが自分にできるだろうかと思う。命を懸けるほどに信仰を貫いた人々のことを考えると、自分の信仰は甘いものだと思ってしまいます。義のために迫害される人々、主イエスのために迫害される人々、たとえば、先週お話しした戦時下のキリスト者たちは、そこにも挫折する思いがあったのではないかと考えるのです。

 ある神学者は、山上の説教は、私たちの前に、まるで何千メートルも聳え立つ絶壁のようだと言いました。もしも、ここで私たちが自分の力によって実現しなければならない倫理道徳が要求されているとすれば、その要求があまりに高すぎて、私たちは挫折する他ありません。ここに記されているのは、とてもじゃないけれども、凡人には実現不可能な一握りの聖人とも言うべき人にだけ当て嵌まる倫理であり、祝福であると読むこともできます。

 だから私たちが、突き当たった私たち人間の一つの姿とは、いつでも、これらの祝福された者の姿に向き合って、途方に暮れるような思いになり、そこで神の御前に自分がどんなに貧しい者であるかということでした。

  けれども、この主イエスの祝福の言葉は、そのお言葉の前にただ私たちを絶望させるだけのものではありませんでした。本当に悲しむべきことを悲しむことができず、ちっとも柔和でなく、自分の義の主張ばかりに忙しく、神の義に飢え渇けず、憐み深くなく、心が清くなく、平和を実現することに挫折している者、だから、心の底から本当に貧しいのに、その貧しさを認めることすらできない者、その者のところに、主イエスは来られました。主イエスは私たちの本当の貧しさのところに来られ、その貧しい人間である私たちと連帯し、インマヌエル、神、われら罪人と共にいます幸いを与えてくださいました。

 これらの御言葉を聞く中で、私たちは徹底して私たちの罪深さを確認しなければなりませんでした。けれども、それは、罪の指摘自身が目的ではありえませんし、数千メートル級の律法の前に途方に暮れさせることがゴールではありませんでした。このような私たちの罪を率直に見ることができたのは、もっと大きな赦しの中に、既にすっぽりと入れられているからです。 

 教会がよく習い覚えたパウロの言葉によって表現するならば、「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証された神の義」ロマ321が、この山上の説教の祝福から私たち人間に向かって溢れ出していました。すなわち、全く正しい者ではない、義に貧しい者、罪人である人間に神がイエス・キリストを通してお与えくださる義が、溢れ出ているのです。十字架でその血潮を流される御子が、私たちに対する神の赦しそのものであられます。神は血を流して、私たちの罪を忍耐されました。神の憐みが私たちの罪に勝ったのです。神の私たち人間への誠実が、私たちの罪を覆ったのです。 

 それゆえ、この神が私たち人間との間に、あの御子の地上の歩みという一点において打ち立ててくださったリアルな歴史にしっかりと支えられて、その岩の上に既に、据えられている人間としてのみ、罪ある人間である自分の貧しさを見るのです。本当の貧しさです。罪という貧しさです。すなわち、色々な環境や育ちの家庭があったかもしれないけれど、罪という言葉によって、私たちに把握される私たちの貧しさとは、本来自分がその責任を負わなければならない、自分に非があることを全面的に認めなければならない貧しさのことです。

 

 しかし、その貧しさを認めるということは、とても難しいことでもあります。どんなに謙遜な人、どんなに自分に自信がない人、自己卑下している人も、私たち人間は心のどこかで自分は捨てたもんじゃないという気持ちがあると思います。自分にも何かやれることがある。何かましなことを与えることができる。そう思わなければ、希望を持って生きることはできないと思い込んでいるからです。

 何度も何度も取り上げますカール・バルトという神学者が、この私たち人間を救う十字架のキリストの福音、教会が生きる唯一無二の報せについてとても刺激的で面白いことを言いました。

  「それがわれわれにとって慰めであれ、腹立たしいことであれ」、「真の神は、そのようにして、我々に身を向けたもう」。

 福音は、やはりその本質から言って、自分の一片の正しさにしがみつきたい人間にとっては、躓きのメッセージでもあるのです。私たちが思い込んでいた人間の価値やすばらしさに対する格下げをキリストの十字架は宣告しているからです。十字架は私たち人間が徹底した罪人だと語るのです。キリストにあって、神さまは私たち人間のあらゆるすばらしさを通り過ぎてゆかれ、最も深い闇である人間の顔に出会いに来られたのです。誰もが抱える最も深い闇の部分です。キリストの十字架はそのような私たちを暴露してしまうから腹立たしいものです。躓きです。 

 けれども、それは本当に福音です。神がキリストにおいて私たちの病の深さを訪ねて来られるのは、私たち人間の罪を暴露し、裁き滅ぼすためではなく、医者として、救い主として、癒し、救うためだからです。キリストは、私たちはもうだめだ、本当にダメだと絶望しているその場所に来られるその私たちの救い主だから、本当に慰めなのです。

 神さまは、そのようにして、本当に失われていた人間である私たちを探し出し、救われるのです。罪も赦しも特殊なキリスト教用語ではなく、私たちのリアルな闇に対する、神のキリストにあるリアルな赦しです。それだけに、腹立たしく、それだけに、慰め深いのです。 

 ここにいる洗礼を受けた者とは、そのような罪を認めた者であります。しかし、もちろん私たちが、自分の罪人であることを認めることができたのは、自分の闇の深淵を覗けるほどに強い心の持ち主であったからでもなく、また、どうぜ自分なんてとやけっぱちに開き直ったわけでもありません。

 私たちもキリストの赦しを知らなかった頃、自分を飾り立てて、自分を必死に良く見せようとしていました。その仮面の下にある弱く乏しく、小さな、自分でさえ見たくはない自分の貧しさが露わになってしまうことを何よりも恐れていました。けれども、今は、神の御顔の前に、罪を言い表すことができます。主よ、憐れみたまえ。主よ、罪人である私たちを憐れみたまえと大胆にあるがままの自分を神に差し出すことができます。赦しに捕らえられたからです。キリストに捕らえられたからです。もう、罪の内に置かれたままではないからです。人間に対する命を懸けたキリストの圧倒的な憐み、誠実、赦しに支えられているから、はじめて、罪を認めているのです。 

 このようなキリスト者の存在は、たぶん、人の気分を害するものでありえます。躓きとなり、おそらく迫害へと駆り立てるのです。罪を率直に言い表すキリスト者の存在は、人間の良さ、価値、努力に水を差してしまいかねないからです。そこに、迫害が起こる火種があります。 

 だから、私たちが受けなければならない迫害は、全く英雄的なものではないと思います。私たちは何も大それたことをしているわけじゃありません。主イエスの恵みの圧倒的な大きさのゆえに、自分の貧しさを認めさせていただいているだけです。この貧しい者を憐れんだくださる神だけを、私たちの本当の主人として頂いた幸いを喜んでいるだけです。私たちがしていることはそれだけにすぎません。

 私たちが自分からはよほど遠いと思い込んでいた迫害を受けた旧約の預言者も、初代のキリスト者たちも、キリシタンたちも、私たちの教会の先達たちもまた、別のことをしていたわけではないと思います。誰一人、罪から例外であるものは存在しないと述べ伝えただけ、だから、誰もまた神の赦しから外れる者はいないと述べ伝えただけ、私もあなたも神の御前に貧しい者にすぎないが、神は私のこともあなたのことも憐れまれる。そう信じ、そう生きただけです。 

 そのように考えてみれば、この迫害は遠いものでも、大それたものではないかもしれません。11節の言葉をよく見てみれば、意外にも、迫害の中身として、「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」ということが挙げられているように、私たちにとって遠いことではありません。それは本当に小さな私たちの生活のただ中にあるものだと思わされます。

友人の生活の中でも職場での生活の中でも、家庭での生活の中でも、福音に挑む思想が蔓延っているからです。 

 周りの人から自分とは違う神に頼らなければならない弱い人だと見做されたり、それが人間と人間の絆を本当に結ぶものだとはもはや思わないから、地域の祭りに積極的に協力しなかったり、地縁血縁に基づく団体行動が少し苦手になってしまったり、だから変わった人だと見做されたり、キリストにある自分の貧しさを知ってしまったから、皆が幸福だと思うことを心から羨むことも、皆が不幸だと思うことを、心から恐れることもできなくなってしまい、どこかできなくなってしまい、少し浮いてしまう。 

 赦しの中にあって作られる生活は、大それたものでも何でもないと思いますが、やはり、迫害に繋がることもあると思うのです。 

 いや、それは私たち自身の中にもあります。私たちが、キリストの恵みを忘れ、赦しを忘れ、自分で自分は立っているのだと思い込む時、キリスト者である私は、古い自分から迫害を受けているのです。 

 ひたすら赦しによって生かされるていることを忘れ、人との関係でないがしろにされた侮辱されたと思っては、自分の正しさを立てようとしてしまう時、あるいは、そうやって、私自身が人を傷つける時、私たちは迫害の只中にいるのです。

 けれども、そのような迫害が起こるとき、私たちが立つ場所は、やはり、自分の貧しさと神の豊かさの上以外にはないと思うのです。立つなどとも言えないかもしれません。私たちが逃げ込む場所、それは、キリストにある神の赦しの中でしかないのです。 

 迫害する者も、迫害される者も、人間の貧しさがいよいよ浮き彫りにされるその場所で、私たち人間がなお置かれている場所は、十字架のキリストの御前、神の赦しのまなざしの前でしかないのです。 

 そこに天の国があります。私たち全ての人間が、望もうが望むまいが置かれている十字架のキリストの御前、そこはひたすら恵みのみによって神の国と神の義が、私たちの国となり、私たちの義となるところです。 

 だから、どんなに腹立たしく思っても、神の御子を十字架に追いやる程に腹立たしくとも、人間の罪を暴く神のまなざしは、私たちの罪よりも深い赦しを与えるまなざしだから、深い慰めなのです。そして、そこに生きることは、誰にとっても幸いなのです。

 

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