本物の言葉

 今日聞きました主イエスのお言葉、「一切誓ってはならない」という言葉は、すぐにピンとくるものではないと思います。誓いとか誓約とか、私たちの日常とそれほど関係のある事柄とは思えません。それこそ、私たちが誓いの言葉を自分の言葉として語る最も身近な機会は、結婚式、それ以外では、洗礼入会の時、あるいは、牧師就任式の時くらいではないかとさえ思います。
 しかも、それらの時は、私たちはむしろ進んで、神の名において誓約をするのです。神のお名前を特別に呼んで誓約をいたします。それだけに、この主イエスのお言葉は身近でもないし、何を禁じられているのかわかりにくいことでもあります。
 誓いというのは、私たちの約束を確かなことと保証する言葉だと思います。「この約束は間違いないものです。必ず果たします。」という思いを込めて、誓いの言葉は交わされます。だから「一切誓ってはいけない」という主イエスのお言葉は、約束してはいけない、あるいは自分の約束に太鼓判を押してはいけないという風に聞こえます。
 たとえば、ここで主イエスが求めておられることは、結婚のときに、「あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか。」と問われたら、「約束します。」とは答えないで、「それはその時になってみなければわかりません」と答えろということなのか?これは考えにくいことであります。
 そこで、あらためて、33~35節を注意深く読んでみると、この言葉の背景にある問いとは、もともとは誓いの誠実さを問う、あるいは人間の言葉の誠実さを問う問いがにあったことが窺えます。33節に、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ。』と命じられている」とあります。つまり、神の名において誓ったことは、必ず果たせということです。これは、昔の人の聞いたことだと言われるように、主イエスの見ているものはこの戒めを越えているものですが、ここで問題とされていることは何であるのかが、よくわかる言葉ではないかと思います。
 私たちが自分の言葉を請け負う時、色々な仕方で自分の言葉を保証しようと致します。「親友である君に嘘をつく理由はない」だとか、「それは自分にとっても良いことだから」とか、「これを果たさなければ、世間様に恥ずかしくて顔向けできない」だとか、そういって自分の言葉に太鼓判を押します。保証の言葉には色々なレベルがあると思います。やはり、重大な約束をするときは、それに伴って、重大な言葉と態度をもって誓いを立てなければならないでしょう。結婚の誓いの時に、子どもたちがやるように、「針千本飲ます」とは、しにくい。
 そこで、大切な約束のための誓いを立てる時、信仰者であれば、その最たる誓いの言葉は、当然、神のお名前において誓うということであると思います。ここでどういう誓いの言葉が想定されているのかわかりませんが、たとえば、「わたしもあなたと同じ神を信じる者だから信用してほしい」とか、「この約束を破ったら、神に罰せられても構わない」という誓いの言葉になると考えることができるでしょう。
 けれどもこのような誓い方は、33節以下を見ると、主イエス以前に、当時の常識としてするべきではないことと考えられていたようです。神のお名前に訴えて誓いをなしてはならない。もしも、誓うなら、それを必ず果たさなければならない。その誓いを破ることは、神のお名前を汚し、神の名誉を貶めることだからです。
 だから、この33節以下を巡る言葉は、現代人にもよくわかる倫理的な先の二つの言葉とは別の種類の言葉に聞こえますが、学者たちによって、同じ十戒に表された神の言葉を巡る言葉であると理解されてきました。すなわち、この誓いの言葉を巡っては、十戒の第3の戒めである「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という言葉が問われているというのです。
 神の名をみだりに唱えないこと、軽々しく神の名を唱えないこと、この戒めをどれほど、聖書の民が重視したかということは、今はおそらくヤハウェと発音するのだろうと推測される神の名を表すヘブル語の4つの文字の発音の仕方が失われてしまった程であります。
 それゆえ、結局のところ、33節の昔の人が命じられたという「偽りの誓いをしてはならない。神にかけて誓ったことは必ず果たせ」という戒めは、そもそも誓いにおいて神のお名前を持ち出すべきではないと理解されました。そこで、34~36節の言葉の意味が納得されます。すなわち、誓いにおいて神のお名前を持ち出すことは、不敬なことだから、当時の信仰者は、代わりに天にかけて、あるいは地にかけて誓ったのです。
 このことは、福音書記者のマタイのやり方とも通じる部分があります。マルコによる福音書において、「神の国」と言われているところは、マタイによる福音書では、「天の国」と言い換えられています。ユダヤ人であるマタイは、福音書を書くにあたっても、「神」と書くことを避けたのです。代わりに、「天」という言葉を用いました。同じように、神のお名前において誓うことを十戒の第3の戒めに抵触することだと考えた人々は、代わりに、「天」あるいは「地にかけて」と誓うようになったのです。神のお名前をみだりに唱えないとは、自分の利益のために、神さまのお名前を利用しないことだと理解されたし、その通りなのだと思います。
 だから、「偽り誓ってはならない。主に対して誓ったことは必ず果たせ」という戒めを結局のところ、誓いにおいて神のお名前を一切口にしないとしたのは、やはり、一つの信仰的態度であると思います。悪意を持って人を騙すために神のお名前を用いるのでなくとも、考えてみれば、どんなに約束を真実なものにしようと心掛けても、事情が許さず、約束を果たせないということが人間にはあるかもしれない。しかし、それによって、神のお名前を傷つけるわけにはいかないのです。だから、誓いにおいて神の名を出すことを一切止めたのです。そこに天にかけて誓う、地にかけて誓うという言い回しが生まれたのです。現代人には想像できないほど、奥ゆかしい、あるいは、真に神を畏れる者の態度であると思います。
 ところが主イエスは、この畏敬の態度すら突き抜けて「一切誓ってはならない」と仰います。天あるいは地と言い換えるだけでは、決して問題はすまないのだと仰います。天にかけて誓ってはならない。そこには神の玉座があるから。地にかけて誓ってはならない。そこには神の足台があるから。私たちの誓いは、どこを指して誓っても、逃れることなく、神の御前における誓いなのだということです。たとえば、ここで、同じマタイによる福音書の12:36の「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」との主イエスのお言葉を思い浮かべることができるでしょう。そこである人は言います。つまり、「むしろ『誓うな』とは、すべてのことが神の前での誓いであれ、ということである」と。
 一体何で人間は誓いの言葉を口にするかと言えば、私たちが普段語る言葉を私たち自身が、空虚なものだと感じているからだと思います。私たちはお互いの言葉に本当に意味での真実を認めていないから、ここぞという場面では、誓いの言葉を語るのです。
 結婚の制約を考えればそのことがよくわかります。結婚という、たとえ、愛という確かな思いに基づく関係性においても、私たち人間は、約束なしには確かであることのできないものです。結婚に至るほどに互いに愛し合う男女の心は、口に出して約束しなくとも、健やかな時も病める時も生涯相手を愛し、堅く節操を守る思いを心に抱いていると思います。結婚の制約の言葉は、その心に燃える思いを自然に口に出しただけに思えることです。けれども、私たちは、その思いに忠実であることがいかに難しいことであるかを早晩気付くからこそ誓いを立てるのです。熱い思いを保ち続け約束を果たすということは本当に難しいことだから、せめて、一生共に生きていこうとする相手とだけは、誓いという厳粛な行為で約束を確かなものとしておきたいと願うのです。「健やかな時も、病める時も、、、」と。けれども、ただどちらかが病に倒れるということだけでなしに、むしろ、二人の関係が病んでいくとき、この誓いが破れていくことが起こるわけです。しかも、それは、決して、離婚してしまった夫婦だけの問題ではないのです。
 私たちの生きる現代において、誓いということは、主イエスに禁じられずとも、それほど、重要な意味を持った行為ではありません。正式に人と人との間に誓いを立てるということはほとんどないことです。けれども、誓いが私たち現代人にとって、縁遠いのは、私たちが誓いを禁じた主イエスの望まれた生き方に近づいたというよりも、私たち現代人が、人の言葉をいよいよ信用しなくなったということ、それはそのまま、人を信用することがいよいよなくなっているしるしではないかと思います。
 この一月ほど、風邪が治らず、改めて、先週は医者に行きましたけれども、そこで何気なく手にした小冊子のコラムにこういう文章がありました。快適に生きるためには、怒りをコントロールすることがとても重要な課題である。怒れば、血管が収縮し、脳卒中、心筋梗塞のリスクも高まる。しかも、一度怒って交感神経が昂れば、数時間はその影響を受けてしまう。だから、一日二回怒ればそれだけで一日が通常通りにはいかなく台無しになってしまう。では、健康のためにも怒らないコツは何か?その答えは、Don`t believe anybody.誰も信用しないことだと勧めていました。誰も信用しなければ、何があってもこんなものかと怒る必要もなくなると書いてありました。このような現代人には、誓いの言葉は本当に意味のないことだと思います。誰のどのような言葉も信用できないならば、そもそも人を信用できないから誓いの言葉も意味はないのです。
 33節に「偽りの誓い」という言葉がありました。これは考えてみれば、奇妙な言葉です。誓いは、約束が本物であることを保証するために語られる言葉です。その誓いが偽りだというのは、熱い冷水のように矛盾した言葉です。しかし、私たちは偽りの言葉と共に、偽りの約束というのが、ありふれたものであるということを骨身に染みてわかっています。
 けれども、主イエスは、私たちの歴史がそれほどまでのひどい言葉の信頼喪失に陥ってしまうことを御存じなかったのではありません。私たちは主イエスの知らなかった罪に生き始めているのではありません。私たちが聖書の語る誓いの場面を思い起こすとき、どうしても忘れることができないのは、同じマタイによる福音書の第26章のペトロの姿です。主イエスがご自分がこれから十字架につくことになることを告げた時、そして、全ての弟子が逃げてしまうとお語りになった時、ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、主イエスのお言葉を打ち消してまで、まさに誓って言ったのです。しかし、このペトロは、その舌の根も乾かぬ間に「そんな人は知らない」と、主イエスを呪いながら誓って言ったと福音書は語るのです。「御一緒に死にます」と言ったペトロの心に嘘はなかったと思います。けれども、主イエスを誓いの言葉を口にして呪ったそのペトロの心も、同じくらいに真剣であったと思います。
 私たちの誓いとはいかに脆いものであるか、髪の毛一本すら白くも黒くもできない私たちの言葉の不真実、それはそのまま私たち自身の不真実です。そして、この神の前での私たちの不真実は、底が知れないと途方に暮れる思いになります。
 偽りの誓いなどという言葉に不思議もなく納得できてしまう私たち人間の社会には、その都度真剣な言葉はあったとしても、永続するような本物の言葉はないと認めないわけには参りません。その意味で、一切誓ってはならないという主イエスの言葉は、その通りだと思います。
 ところが、多くの学者が指摘することですが、この一切誓ってはならないという言葉と、主イエス御自身の言動は、緊張関係にあると言います。特に、主イエスが大切なことを語り始める時に、最初に語られるアーメンという言葉、それは、日本語の聖書では、たとえば、「はっきり言っておく」と訳されます。この主イエスがしばしば用いられたアーメンという言葉は、一種の誓いの言葉、自分の言葉が真実であることを請け合う言葉だと言われています。
 誓うことができない人間の不確かさを誰よりもご存知の御方が、しかし、御自分の言葉にだけは真実を請け合ってくださっています。主イエスは神より遣わされた神ですから、もちろん、その通りだと思います。どんなに人間が不確かであっても、神だけは確かな方であり続けられるのです。けれども、私たちにとって、大切なことは、私たち人間の不真実によっても、決して本当は傷つけることのできない主イエスに現わされた神の言葉の真実とは、ただ神だけが、孤高の真実を保たれるというのではありませんでした。
 そうではなく、神の真実とは、本当は、その一挙手一投足が神の御前でいつでも真実にあるようにと期待されているにもかかわらず、不真実でしかない私たち人間をそれでも捨てないということ、その罪人である人間を御子の十字架によって贖い御自分のものとされるものです。神は御子の死に至るまで、私たち病める人間に対して堅く節操を貫いてくださったのです。
 私が印象深く思い出すのは、ある人が、キリストにおいて神が私たちに人間に語ってくださった言葉とは、「偉大な然り」だと言ったことです。然りとは肯定の言葉です。賛成、その通りという意味の言葉です。
 私たちは、今日の聖書個所においても、厳しい言葉を神より聞いたということができます。私たちの不確かさが主イエスの言葉によって暴露されたのです。それは、張り巡らされた網の目によって、私たち全ての者に漏らさず語られた山上の説教に響く神の裁きの言葉だと言えます。けれども、その裁きは、同時に、私たち罪人に対する神のもっと大きな然りに備えさせるための小さな小さな裁きにすぎません。
 私の尊敬するある先輩牧師は、しばしば三度主イエスを誓って呪ったペトロに対する主イエスのまなざしを語りましたが、ペトロがそれを見たら泣きださずにはおれなかったそのまなざしを、非難のまなざしではなかったろうと想像いたします。それを見たら、赦しとはこういうものかということがわかるまなざしであったろうと言いました。その通りであったろうと私も思います。神は、イエス・キリストにおいて、私たちに明確に賛成しておられるのです。
 それゆえ、最後の37節に語られます主イエスが私たちに求める「然り」と「否」とは、誓うことのできない人間の不真実、不確かさを顧み、自分の舌を制御し、罪を必要以上に多く犯さないようにと言葉少なくするということではないと思います。
 そうではなく、主イエスの言葉になぞるように、私たちの言葉を語り始めさせていただくということだと思います。
 どんなに不真実で、不確かな自分だと思っても、神がキリストにおいて私たちに「然り」と語ってくださったことを、私たちも信じるということです。あなたたち人間はキリストによって買い取られた私のものだという神の言葉に、「然り」、「はいその通りです」と答えさせていただき、それは言い換えれば、不真実な人間は、誰も信じるに値しないというこの世の言葉に断固「否」と言うことだと思います。
 この神の本物の言葉に支えられて、生きている私たちです。この神の言葉に生かされる私たちの言葉も当然、人間に対する神の然りを指し示すものとなっていくと信じます。

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