命に通じる目立たぬ門

金沢に来て、1年とひと月が経ちます。車での移動が多く、ほとんど歩かない不健康な生活をしていますが、これではいけないと思い立ったように、時たま歩きます。

卯辰山に昇っていく勇気はまだありませんで、教会から浅野川の川沿いや、東山を目指して歩いたりします。

そうやって歩いていると車の速度では気付かなかった花を見つけたり、風を感じたり、やはり、歩いたほうが、季節感を感じるものだなと思います。

川沿いに出るまでもなく、近所を歩いていても、面白い発見があります。普段通りなれた車通りであっても、思いがけない発見があります。こんなところに、道なんかあったのか?というような狭い路地を見つけます。歩く他目的のあるわけではないですから、そんな時は、川沿いまで行かず、この狭い道はどこに続くんだろうと進んでみます。すると、雰囲気のある建物を見つけたり、素晴らしいお庭に出会ったり、そんなことがあります。

主イエスが仰る狭き門、細い道から入れとおっしゃっる時、そういう狭くて細い路地を思い浮かべながら仰った言葉ではないかと思います。14節の後半で、「それを見出す者は少ない」と仰っています。主イエスが思い浮かべている門と道は、見つけにくくて、目立たないものだということだと思います。

命に通じる門は狭くて、その道は細くて目立たないから、誰も、それが命に続く門であり、道であるなんて分からない。命の道は、そういうものだと仰っているのではないかと思います。

そう考えますと、ここで主イエスが仰る「狭き門」という言葉は、日本語でかなり一般的に用いられている用い方とはだいぶ違ったニュアンスを持った言葉ではないかと思わされます。

「狭き門」という言葉は、大学受験とか、就職活動の時期に、ニュースで頻繁に語られる普通の言葉になっています。

私たちが「狭き門」という言葉を聴く時も、それが主イエスの言葉であるというよりも、難関大学のことをすぐに頭に思い浮かべるようなことがあるかもしれません。

その場合、この「狭き門」という言葉は、決して、目立たなくて見つけにくい門という意味は持っていないと思います。皆がよく知っている大学、皆がよく知っている良い就職先が、狭き門です。

たとえば東京大学の毎年の募集人員は、3000人を超えています。隠れるところのない大きな立派な門です。けれども、なぜ、その大きくて立派な門が狭き門だと言われるかと言えば、そこに人が殺到するからです。そこに人が殺到した結果、狭い門になってしまいます。

そして、考えてみれば、なぜ、そこに人が殺到するかと言えば、その立派な門、立派な道こそが、命に通じると見えるからです。私の命を養うためには、その門をくぐり、その道に進むことこそが、一番良いことだと誰もが思うからです。

ところが、主イエスが指し示している狭き門は、誰もが知っていて人が殺到しているゆえに、狭くなった門ではありません。見出す者が少ない門、見つけにくい門だと言います。だから、その門は、その言葉の意味通りに、狭いのです。

門構えという言葉があります。それこそ、散歩していると門構えの良い家に出会います。家の顔のような部分だと思います。凝った造りのお家は、門構えも立派です。

それこそ、世界の美しい駅14選の一つとして選ばれたこともある我らの金沢駅は、あの鼓門の素晴らしさが決め手の一つになってのことだと思います。

駅の通り沿いを歩いていて、金沢駅が見つけられないなんてことはありえません。どうしたって立派な鼓門が目に入ります。

だから、見つけにくい門、目立たない門というのは、何で見つけにくいかというと、立派ではないからだということができると思います。この門は、狭く、小さく、みすぼらしく、見栄えのしない門だから誰も見つけられない。誰も見つけようともしない。主イエスがその門こそが命に通じているからと入るように促すのは、そういうつまらなそうな門なのだと思います。

皆が群がるところに進んでいっては、それこそ、どんなに広い門でも、狭き門になってしまいます。金沢観光は今、大人気ですが、それだけ宿の予約も取りにくくなってしまう。その分値段も高くなる。旅行ならまだよいでしょう。3000名通ることができる、よく知られた立派な門、広い道であっても、これこそが命に通じる道だと、殺到しては、決して辿り着くことのできない狭き門になってしまう。そして競争に勝ち残った選ばれた少数者以外は、皆、命の道を逸したとということになってしまいます。

だから、かえって、誰も行かないような狭き門、細い道の先にこそ、まだ誰も見つけていない宝がある可能性があります。私たちの教会の山菜採りの達人から聞いた話ですが、山菜もまた、人の入らないところ、熊が出るようなところでないと採れないそうです。

目だった門ではなく、目立たぬ門、誰もが目指す広い道ではなく、狭い道、そこにこそ命があります。

しかし、その時、主イエスが見ている狭き門、細い道とは、具体的にどのような道のことを指しているのでしょうか?どういう生き方をしていれば、私たちは主イエスが示された狭き門に進んでいると言うことができるのだろうという疑問が湧いてきます。

たとえば、外国の教会で買えるような絵には、今日の広い道と狭い道を主題としたものがあります。二つの門とそこから続く二つの道が描かれています。一方の広い道は、歓楽街が描かれていて、人々が楽しそうにしている。けれども、酒場やダンスホールの先は燃える火の地獄、もう一方に道は狭く険しい山道で、楽しいようなことはないけれど、先には天国が待っている。そこに、主イエスの言葉が語ろうとしているものがあると見ようとする。

狭き門をこういう風に理解する仕方も一般的にあります。歓楽街だろうが、大企業だろうが、世の楽しみや世の利益を追いかけているようでは、狭き門、細い道を進んでいると言えない。祈りと修養の宗教的敬虔の道こそ、狭き門だとする捉え方です。

けれども、こういう考え方は、主イエスではなく、ファリサイ派の考え方だと思います。

ファリサイ派の道とは、修行の道です。厳しい宗教的禁欲、善行を通じて、神の義を得ようとする道です。広い門、狭い門を考える時、教会は、しばしば、このファリサイ派の誤りに簡単に陥る危険があります。

神を信ぜず、この世で暢気に快楽をむさぼる者は、やがて、地獄に行き、この世の楽しみを背後にして、功徳の道を積む者こそが、天国に行く。しかし、もしも、このようなメッセージが主イエスの言葉の真実な理解であるならば、ファリサイ派も律法学者も、主イエスのことを喜んで受け入れたに違いないのです。

けれども、これらの人々から、主イエスは退けられ、十字架に至らなければなりませんでした。主イエスは、山上の説教の中で、「あなたがたの正しさが、律法学者やファリサイ派の人々の正しさにまさっていなければ、決して天国に入ることはできない」と仰いましたが、だからと言って、ファリサイ人にも、律法学者にも、負いきれないような、もっともっと厳しく狭い禁欲と奉仕の道を示された結果、これでは厳しすぎてとても着いていけないと排斥されたのではありませんでした。

そうではなくて、主イエスがこれらの人々の扇動によって十字架に追いやられた理由は、主イエスというお方が、ファリサイ派の人々からすれば、まさに、滅びへとひた走っているように見える徴税人、娼婦、それら罪人と呼ばれた人々の側に、ご自分の身を置かれたからでした。

主イエスは、徴税人や罪人と食卓を囲んでは、ファリサイ派の人々から、「何をしているか?」と咎められ、「あいつは大食漢の大酒飲みだ」と揶揄されました。

けれども、いつでも、主イエスは咎める人々にこう答えられたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

私たちがよく知っておいた方が良いことは、いよいよ語り終えようとされている山上の説教は、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」という宣言によって始まった言葉であり、それは、病人の医者であり、罪人を招くために来られた、罪人の友であられる主イエスのお姿の一直線上にあるものだということです。

心の貧しい人々は幸いだ、悲しむ人々は幸いだ、義に飢え渇く人々は幸いだ。何で、幸いなのかと言えば、主イエスがその者のところに来てくださったからです。世の戦いに押しつぶされ、滅びそうになっているその者達のところに、主イエスという補給部隊が到着したからです。

すると、私たちは、主イエスが示しておられる狭き門、細い道が一体何であるのかがわかってくると思います。

誰もがそこに入りたいと願う命に通じていると見える立派な門、広い道から、蹴落とされてあぶれて、道半ば途中で力尽きてしまって、気付いたら自分で望まない狭く、細い道に追いやられていることに気付いたその場所のことではないでしょうか?

狭くて険しくて、いったいこの先にはどんなものが待っているのだろうと途方に暮れてしまった者たちが立っているその門であり、道ではないでしょうか?

入りたいとか、入りたくないとか、そういう問題ではなくて、歩みたいとか、歩みたくないとかそういう選択肢はなくて、否応なく立たされてしまっている場所です。

目立たない門です。みすぼらしい道です。誰も関心を払ってはくれません。けれども、「狭き門から入れ」と仰る主イエスがそこに来られるのです。もう歩く気力も萎えてしまうようなその場所に主イエスが分け入って来られ、そこで構わないんだ。その門をくぐりその道を歩めばいいんだ。わたしがその道で、あなたの命になるからと仰るのです。

私たちが閉じてしまったような門、捨ててしまったような道があります。八方ふさがりでどうにもならないとうずくまってしまうような場所です。私たちが心貧しく、悲しむ者であるその場所です。

病める者の医者であり、罪人の友であられるキリストが、私たち人間に会いに来てくださるのは、他のどこでもなく、そこです。

このような門、このような道を思う時、私は、かつて森有正というキリスト者が語った言葉を思い出します。旧約のアブラハムの生涯に触れながら語った次のような言葉です。

 「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神さまにお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間がだれはばからずしゃべることのできる、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。」

「狭い門から入りなさい。…命に通じる門はなんと狭く、その道は細い」と仰る主イエスは、たとえば、森有正の語るような場所に来られる主イエスのことではないかと思います。私たちが行き詰ったその狭い門、細い道、つまり、私たちの弱さと失敗、暗闇の中に会いに来てくださる主イエスです。

主イエスが暗闇の中にいる私たちの元に来られ、狭く細い押しつぶされたそこへ主イエスが来られ、人間はこの方に救われるのです。

そのことを知る者にとって、「狭い門から入りなさい。」という主イエスのお言葉は、厳しい戒めではなく、良き知らせ以外の何物でもありません。

しかも、このように貧しい者のためにキリストが来てくださる時、ただ私たちは慰められるだけではありません。その貧しい者が、その者こそが、狭いところに来てくださったキリストの使者とされます。狭く細いところに置かれながら、むしろ、そこに留まり続けながら、キリストの命の輝きを、照らし始めます。その時、「狭い門から入れ」というキリストの言葉は、言葉のままの積極的な命令となり、置かれているその場所で、この身をもってキリストを真っ直ぐに指し示すようにとの招きの言葉となります。

引用ばかりで恐縮ですが、神学者カール・バルトに最も大きな影響を与えたというブルームハルトという人の説教を数日前に読んでいて、こういう言葉に出会いました。

「善いものだけが神について何かを宣べつたえることができるのだ、と考えている人びとが、大勢いる。しかし、そうではない。決してそうではない。もし私たちキリスト者が、苦しみの中にあって、また不安と困窮の中にあって、救われた者でないならば…私たちは、世にとって何者でもない。…恐らく君は、その身において鎖が断ち切られるべき拘束された人であるに違いない。また君は、その身において慰めが立ち現れるべき悲しむ人であるに違いない。恐らく君は、その身においてイエス・キリストの甦りが啓示さるべき、瀕死の人であるに違いない。」

囚われていたから、解放してくださるキリストの恵みを、今囚われている人に、指し示すことができます。悲しんでいたから、キリストの慰めを悲しんでいる人に指し示すことができます。瀕死の状態にあるから、なお、生かしてくださるキリストの命を苦しむ人に指し示すことができます。

そのような者は、「狭い門から入れ」という言葉を、喜んで聞きながら、なお全くファリサイ化することがありません。キリストに救われた私そのままが、狭き門、細き道に置かれた生けるキリストの証しそのものとなります。

今日は、ペンテコステです。神の霊が地上に降った日です。キリストによって救われたその貧しい私たちが、同時に、この良き知らせの使者とされた日です。

使徒パウロは、そのペンテコステに降られた聖霊の御業を、私たちが今日これまで聞いたことと完全に一致しながら、次のように語ります。「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(Ⅱコリ3:3)

自分とは別の善い者になろうとする必要はありません。キリストが、抜け出せないでい狭いところにいた私たちの元に来られ、そこで私たちの命となり、私たちを福音の使者としてくださいました。

だから、押しつぶされているようでも、滅びに向かっているようでも、倒れそうでも、私たちは、既に、命の内です。そのようにして、キリスト主導の神の出来事が、私たちの全存在を、既に、キリストの使者としてしまっているのです。私たちは、既にしっかりとキリストの命が刻みつけられている世に向かって公にされたキリストの手紙です。

人は、これこそが、自分を生かす道、自分の命を豊かにする道だと、立派な門、広い道を目指しながら、戦いに敗れ、挫折していきます。そして、気付いた時には、押しつぶされた門、八方ふさがりの路地に、追い込まれています。私たちはその全ての人々に、(それは本当に言葉通りの意味において、例外のない全ての人々だと思いますが、)その人々に証しします。

あなたのうずくまるそこに今、キリストがいらっしゃる。命の道が閉ざされたと絶望しているそこに、キリストが来られ、あなたの命となってくださる。わたしが今、そのように生かされているように。

死にかかっているようで、生きており、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませる者、すなわち、この言葉と存在をもって、ここにキリストに救われ、召された者、神の器としてある私たちなのです。

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