主の祈り 地にある神の意志

どこで読んだ言葉か忘れましたが、ある人が教会の信仰は、片手間にわかるほど簡単ではないが、学者にしかわからないほど、複雑なものではないと聞いたことがあります。

 

教会の語る福音、嬉しい知らせの精髄である主の祈りの言葉の、前半の二つの祈りを既に聞き、その三つ目を今ここに聞こうとしながら、なるほど、それはその通りだという思いでいます。

 

と言いますのも、既に二つの祈りを聴きながら、そこでいくつものことを聞いたというのではなくて、ただ一つのことが語られ続けていると感じるからです。

 

それは今日聞きます「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という言葉と、その直前の「御国を来たらせたまえ」という二つの言葉を考え合わせてみるだけで、わかります。

 

第二の祈りである、神さまの国、神さまの支配が私たちの祈るこの場所にやって来ることは、第三の祈りである、神さまの御意志が、この地上においても実現しますようにという祈りと、同じ一つのことと言って一向に差し支えないように思います。

 

考えてみれば、第1の祈りも同様です。神のお名前が崇められること、神さまのお名前が私たちの上に輝き渡ることは、神の支配が来ること、神の御意志が地上に行われることと、別のことではありません。

 

それゆえ、ある神学者は、この主の祈りの最初の三つの神に関する祈りは、「ひとつの祈りの三つのあらわれである」と言いました。ここで祈り求められているのは、ただ一つのことだと言うのです。

 

主の祈りはただでさえ短いものです。口に出せば30秒で終わってしまう。その短い貴重な祈りの言葉の少なくとも前の半分は、ただ一つのことを言っているというのです。なぜ、主イエスは、一つの祈りを、三つの言葉で言い換えてまで、教えようとされるのか?主の祈りが福音の精髄、つまり分厚い聖書全体の要約であると言うならば、語るべき大事なことはたくさんあるのではないか?と思います。

 

けれども、主イエスはそうお考えにはならない。これだけは、どうしても、聞かせたいということをお持ちです。ただ一つのことだけをどうしても知ってほしいことがあるのです。主イエスのできごとを語る福音書が4つあるように、ただ一つのことを、どうしても伝えたいから、色々な角度から語り、わたしたちの心を耕そうとしているのだと思うのです。だから、やはり、これは福音の要約であると思います。4つの福音書が語る一つのことがあります。聖書66巻が語る一つのことがあります。そして、それらを通して、神がどうしても私たちに語りたい一つのことが主の祈りにもあるというわけです。

 

そこで私は思います。神がわたしたちに語ってくださる福音、嬉しい知らせは、片手間でわかるほど、単純ではないが、学者でしかわからぬほど複雑でもない。なるほどその通りだ。

 

このことこそ、わたしたちが日曜日ごとにこの場所で経験している出来事そのものであろうと思うのです。なぜ、福音の言葉はわたしたちにとって、片手間でわかるほど単純ではないか?その言葉が私たちの自然な心の動きに逆らう言葉だからです。わたしたちの心の内側にはない言葉だから難しく感じるのです。

 

けれども、なぜ、学者にしかわからぬほど複雑で、難しいものではないのか?この日曜ごとの礼拝において、また、この日曜日と日曜日の間にはさまれた日々の祈りと、聖書の黙想を通して、生ける神さまが、わたしたちがこの心に福音の言葉をすっかり刻み込んでしまうようにと、何度でも繰り返し、御自身の福音を語ってくださるからです。

 

わたしたちの生まれながらの心の動き、それに基づいて習い覚え強固にされた信念、常識に逆らって、神御自身がそのわたしたちの心と戦い、福音を刻みつけてくださいます。神の言葉は、わたしたちの心に逆らうゆえに難しくとも、神が私たちに語り続けることを決して諦められないという理由により、難しすぎることではありません。

 

ルカによる福音書1021で、主イエスは、知恵ある者や賢い者にではなく、幼子のような者、すなわち、取るに足りない者に福音を示すことこそが神の御心だと仰いました。

 

神自らが、わかるようにしてくださるのです。福音自らが光を放ち、私たちの心に届けられます。神がお望みになるからです。

 

今日も、その神の志がわたしたちをこの場に集めました。

 

ただ一つのことを聞かせるためです。今日聞いているのも、全くそのような言葉です。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。

 

なぜ、この祈りが嬉しい知らせであるのか?

 

改革者ルターは言いました。御心が行われますようにとの祈りによって、神が気付くようにと教えておられるのは、「われわれの敵はわれわれ自身であるということである。…したがってこの願いの中で求められているのは十字架以外の何物でもない。すなわちわれわれの意志を破壊するために役立つあらゆる種類の拷問・不運・苦しみである。」と。

 

この祈りを本当にまともに祈ろうとするならば、これは私たちとって当面、喜びではなく、危険を感じさせる祈りだというのです。とても強い言葉ですが、それは、私たちにとって、拷問、不運、苦しみを意味すると言います。

 

なぜならば、神の意志を問うことによって、必ず、自分の思いや、隠された願いが、妨げられることになるからです。私たち人間は、自分の思い通りになったらよいといつでも思っています。けれども、それが、神によって妨げられるのです。

 

そのように神の思いが私たちの思いを妨げるものであるならば、わたしたちは本当に神さまの御心がこの地上でなされることを願うことができるのでしょうか?

 

けれども、もしも私たちがそこで、自分はなかなか御心通りに生きられる人間じゃない。自分の思いに逆らって、この地上で神の思いを実行することが自分に求められているとなると、確かにそれは素晴らしい結果を生むに違いないけれど、どうも、窮屈すぎる、そういうことはやはり心からは望めないと言うとすれば、この祈りを誤解していることになると思います。

 

名説教家として知られた東京神学大学教授であった竹森満佐一牧師は、この第三の祈りにまつわる誤解を次のように指摘しました。

 

「大事なことはみ心が行われる、ということであります。それは、われわれが、み心を行います、ということとは、少し違うと思います。」

 

そして、次のような趣旨のことを言います。もちろん、神は、私たちを用いて、私たちを通して、御心を行うようにしてくださる。私たちは弱い者であり続けるけれど、キリストの救いを受けたなら、自分の弱さや罪が気にならないほどに、神の恵みに力づけられ、励まされて、神に報いようと御心を行おうとするだろうと。

 

けれども、その神の御心とは何か?私たちがキリストのゆえに、自分の思いよりも、その方の思いを優先して使えたいと思うその神の御心とは何か?

 

神の御心の中心とは、「神が世を愛して、み子を、罪ある人間のために、十字架につけられたこと」ではないかと言います。このたった一つのことが、私たち人間を全く新しい者に変えてしまったのではないかと言います。

 

だから、神の御心とは、人間に良いことをさせようというのではなくて、人間を救おうとする御心だと言います。

 

私が第三の祈りの神の天と地における「御心」という言葉を思い巡らすときに、思い起こすのは、ルカによる福音書の主イエスの誕生の知らせを羊飼いにもたらした天使たちの歌声です。

 

クリスマスキャロルにも歌われるよく知られた言葉です。それは、こういう言葉でした。

 

「いと高き所には栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカ214

 

ここには、主の祈り第三の祈願の内にある単語が、少し形を変えていくつも用いられています。すなわち、「いと高きところ」、「地」、「御心」です。

 

「地には平和、御心に適う人にあれ」という後半の言葉は、特に、わたしたちの祈りと関係が深いように思われます。ここでもまた、地における神の御心が語られます。しかも、この場合、この神の御心は、第三の祈り以上に、はっきりと人間に結び付けられています。「御心に適う人」という具合にです。

 

ここでも、私たちは引き続き、こう問うことになるでしょう。「御心に適う人」とは、どういう人のことなのだろうか?と。

 

原文を見ると、よくわかってまいります。ここで用いられている「御心」という言葉を、ギリシア語の辞書を引いてみると、「気に入っていること、良しと思うこと」とあり、また、この言葉が「人間」という言葉と結び合わされる時、「神がお喜びになる人々」という意味になるとあります。

 

だからここを、「地には平和、神に喜ばれる人にあれ」と訳す人もあります。神の御心とは、神の「喜び」と訳すことが可能なのです。神さまの喜びとは何であるのか、たとえば、同じ言葉が、317では、洗礼を受けたイエス様ご自身に語られています。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」、この「心に適う」が喜びという意味です。つまり、神さまはイエス様を見て、「これは私の愛する子、わたしの喜び」と仰っているのです。

 

神さまがイエスさまを見られる時の喜び、それはどんなに深い喜びでしょうか?けれども、この神さまがイエスさまを見て喜ばれる喜びが、マタイ1125以下では、小さな人間、幼子のような人間、それは罪人に過ぎない人間ですが、その人間に、信仰が与えられることを神が御心とされる、すなわち、神は喜ばれるのだと主イエスは言われています。

 

ルカ1232にもわたしたち教会に向けられたこういう主イエスの言葉があります。「小さな群れよ、おそれるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」この「喜んで」という言葉が、「御心」とも訳される言葉です。神の国を私たちにくださること、それが神の喜びの心です。

 

厳密に言いますと、今、挙げられたルカ214を中心とした「御心」という言葉は、主の祈りにおける「御心」とは、違う単語が使われています。

 

主の祈りで使われている「御心」という言葉には、喜びという意味はなく、単純に「願望」とか、「志」という意味を持つ言葉です。

 

けれども、その神の願望、志は、先に挙げました神の喜びと無関係ではありません。むしろ、その内容そのものであると言えます。

 

この神の意志と訳される主の祈りの御心という言葉は、本当に印象深い場面で使われます。たとえば、マタイ18:14の100匹の中から迷い出た一匹の羊を探しに行かれる神の思いを表す言葉です。そこでは、「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と言われています。

 

また、マタイ2014では、早朝、9時、12時、夕方5時に雇われた労働者に同じ賃金を支払おうとする主人の心をこの言葉が言い表しています。すなわち、最後に来た者にも同じように払ってやりたい主人の心を表す言葉「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。」という「したいように」が、主の祈りで「御心」と訳される言葉です。

 

つまり、神の御心とは、神の意志であり、喜びのことです。どのような言葉を用いようとも、この二つのことは一つです。

 

その神の御心、神の喜びとは、小さく貧しい者、言い換えるならば、罪人が滅びないことです。一人の罪人が失われる時、神の喜びは、失われてしまうのです。そうならないように神は、意思されます。

 

天で、わたしたち人間を愛おしんでおられる神は、わたしたちが、地において滅びに直面するならば、御自分の喜びが失われないために、地に御心をならせるのです。いや、そもそも私たちが主イエスから教わった天の父の喜びとは、失われた一匹が見出されたときに起こる天で起こる喜びのどよめきのことです。神の御心、神の喜びは、しっかりと、私たちが救われることと結び合わされています。

 

この神の御心は、既に実現しました。御子イエス・キリストが私たちの生きるこの世に来てくださいました。ご自身の喜ぶ者たちを守るためです。そのためには、神はどんなに大きな犠牲を払われたか。

 

このキリストの出来事が地における神の御心の決定的な実現であることは、ガラテヤ14で、パウロが簡潔に述べます。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」

 

私たちにとって主の祈りは気に障るような祈りであります。私の思いではなく、神の思いが成りますようにと祈るからです。けれども、今は思います。神の思いがこの地になることはどんなに良いことであるか。私たちの思いは、この私たちを喜んでくださる神の御子を十字架につけてしまうようなものでしかありません。ピラトは同じ言葉を使い、お前たちの心のままにバラバを解放し、ナザレのイエスを好きなように扱わせたとあります。

 

けれでも、神は、その人間の思いに打ち勝たれ、御自身の御心を貫かれました。この心貧しい者たちが、この罪人たちが一人も失われないように。そのための主イエスの十字架、その為に主イエスが飲んでくださった十字架の苦しみです。

 

この人間を探し求める神の射程の広いものです。失われた一匹を探し求める神の御心は、御子の十字架にまで至ったのです。そこには、何としてでも、ただの一人も失いまいとする神の気迫があります。

 

私が心打たれるのは、この神の気迫をしっかりと聞き取ったパウロの言葉です。Ⅰテモテ24です。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」

 

何気ない言葉のように思いますが、ある英訳聖書を読んで驚きました。この神の望み、それは、主の祈りの「御心」と同じ言葉ですが、複数の英語の聖書では、神のデザイアと訳されています。情念の籠った強い言葉です。神のデザイアです。何としても、すべての人を救いたい、神の 強い願望、渇望です。

 

この神のたった一つの御心を知って初めて、我々の行動が、はじめて誤解されることなく、問われるのだと思います。私たちは、私たちに対する神の喜びを知る人間、この神の秘められた計画を教えられた教会。

 

どんなに、暗闇が濃くても、神が罪と悪魔に勝利されたことを確信する教会です。

 

わたしたちの滅びは神の御心ではない。その神が、わたしと世界を支配しておられる。だとしたら、我々は、そこで神の支配が見えないことへの抵抗を信仰において始めるのです。

 

罪と死、悪魔が支配するような見える現実に対して抵抗を始めるのです。

 

私は最近、ある一人の信仰者の決して平坦ではなかった人生の歩みをご家族から伺いながら、その方が、いつでも、Ⅰテサロニケ518を相性の言葉とされていたことを聴き、深く心が動かされました。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

これこそが、神のたった一つの御心を、知った者が、その神の御心に応えて参加する喜びの戦いの言葉だと思いました。どんな苦難、どんな死がやってこようとも、いつも喜び、絶えず、祈り、どんなことにも感謝することができる。悪魔を信じず、自分の思いを信ぜず、ひたすらに、私たちを滅ぼすまいとする神の決意、気迫、神に喜ばれている自分であることを信じる神の戦いへの参与です。それは、「御心の天になるごとく地にもならせたまえ」と同じ種類の言葉です。

 

これはまた、伝道の戦いでもあります。神は私たちにも、私たちが出会う全ての人にも同じように知ってほしいのです。御子の命が叩き込まれた大切なあなたである、神の喜びはあなたとしっかりと結びついていると、知ってほしいのです。

 

その一事の為に、立てられている教会です。一人一人の主の精兵です。その信仰も力も神が与えてくださいます。神が備え、整えてくださいます。

 

「御心の天になるごとく、地にもならせたまえ」、私たちはこの祈りによって、神の喜び、嬉しい知らせを、罪と死と運命の囚われ人に告げるのです。あなたは神の宝だ。あなたは神の喜びだ。天の喜びは、地にあるあなたに注がれているのだ。

 

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