ろばを選ぶやさしさ

11月10日   マタイによる福音書 21章1節~11節

イエス・キリストがエルサレムにいよいよ入城される場面を読みました。このお方が神の町として知られたその都に入るとき、群衆は、その前に、自分の上着や、木の枝を切って、敷き詰めて、そのお方のお通りになる道を作ったと書いてありました。そのようにして主の道を作った人々は、口々に、主イエスに向かって「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と呼びかけながら、共にエルサレムに入っていったと言います。このことは、主イエスに従ってきた大勢の群衆が、ナザレの町から来たこのイエスこそが、イスラエル民族が何百年も待ち続けた聖書に約束された私たち人間とこの世界の真の王さまだと信じていたということを意味します。

 華やかな入城でありました。10節には、エルサレムの人々がこの主イエスの登場を見て、都中の人が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだとあります。ある翻訳では、「全都が動転した」とまで訳されていました。事程左様に、主イエスのエルサレム入城は、鮮烈なエルサレムデビューであったと言って良いと思います。エルサレムがひっくり返るような入城、これは主イエスにふさわしいものであったと思います。主イエスというお方は、既にある秩序をいよいよ堅く定めるなんていうお方ではないからです。むしろ、私たちが当たり前のように思い込んでいる常識を覆すためにこそ来られたお方です。この後、エルサレムに入城された主イエスが真っ先に行うことは、神殿に入って、両替商や犠牲の動物を売る商人の机や椅子をひっくり返し、鞭で彼らを神殿から追い出すことです。それこそ蜂の巣をひっくり返したような騒ぎを、心静かに神に祈る場所であるはずの神殿で引き起こされるのです。だから、全都が動転したというのは、古い秩序を壊し、神の義を打ち立てる主イエスが、その町に入るにあたっては、実に、ふさわしい出来事であったと言えるでしょう。

 けれどもそのような動転の騒ぎとなった、主イエスのエルサレム入城には、とても奇妙な所がありました。それは、このお方がロバに乗ってエルサレムに入城されたという事実です。ロバというのはあまり王さまの乗り物としてふさわしくないものだからです。英語でロバと言えば、愚か者の象徴、愚鈍さの象徴です。ロバにも人は乗ることはありますが、この生き物は馬術の競技には向かないと言います。馬術用語に、人馬一体という言葉があります。個人的な話で恐縮ですが、わたしも、20代の頃、近所の農家で飼ってた馬に頻繁に乗らせてもらっていたことがあります。それなので、なんとなく、人馬一体の言葉の意味がわかります。馬はこちらの動きに繊細に反応してくれます。手綱に頼るのは、初心者です。馴れてくると、右に曲がったり左に曲がったりするのに、手綱なんかいらなくなります。ちょっと体の重心を変えるだけで、馬の方が、乗り手が曲がりたいと思っているということを悟ってくれます。しかし、ロバにはそれができないと言います。乗り手と呼吸を合わせるようなことができない。だから、馬術には向かないと。そして、ろばが馬術に向かないということは、つまり、ろばは軍馬にできないということです。馬術と軍隊には切っても切れない関係があります。馬術には、今も、軍隊由来の言葉が多いそうです。馬術は、何よりも、軍隊において発展した。近代オリンピックでも、60年前までは、馬術の競技には軍人しか参加できなかったと言います。だから、そもそも馬術用語には、今も軍隊から受け継いだ言葉があるのだと知りました。

 人々が主イエスをお呼びしたのはダビデという王さまの名前と結びついたことでした。このダビデの名は、もう一人の有名なイスラエルの王さま、ソロモン以上に、戦争と関係のある名前です。ダビデは、ソロモンのように、賢い王さまとして知られたのではなくて、その武勇で知られた王さまです。王様になるずっと前の若い時に、巨人ゴリアテを石ころ一つで倒したり、初代王サウルの元では、サウル王の10倍の武勲を挙げる将軍として、名を馳せました。だからこそ、やがて、ダビデの末裔から、イスラエルの国を再興する者が現れるという希望は、このダビデの名と絡められる時、帝国の支配を跳ね返す強い武力を持った王さまとしてイメージされ続けてきたのです。だから、「ダビデの子、ホサナ」という呼び声には、それこそ、天からでも12軍団を呼び寄せて、世の中の秩序を一新する神の軍隊の到来をもたらすことを主イエスに期待する声であったのです。

 是非そうして欲しい、具体的な苦しみがあったのです。この自分にとって、苦しみとなっているローマの支配を取り除いてくれること、切実な願いでありました。私たちも同じだと思います。そこから救われたいと願っているそれぞれの苦しみを知っています。それが具体的に取り除かれる奇跡的な出来事が起きればいいなと願うことを知っています。そういう具体的な救われたい状況と願いを持っています。大げさなことでなくても良いから、何か非日常な、特別な神さまの介入がわかるようなことが起きてほしいと願います。そしてそこから決して悪気をもってしていることではありませんが、この私の苦境を取り除いてくださる万軍の主、強い神さまの姿をイメージすることが、しばしばあると思います。

 しかし、とうとうやって来られたダビデの子と称えられる主イエスは、ロバに乗って来られたのです。サラブレッドのような立派な軍馬ではなく、馬術には向いていないので、軍馬にはなれないロバに乗って来られました。しかも、それは歩いて入城するよりはましだろうということで、手近にあったロバに急ごしらえで乗ってみたというのではありません。主イエスがロバを選ばれるというのは、本質的なことだったのです。マタイが全く丁寧に記してくれているように、主イエス自らが直々にロバを所望されたのです。それもただのロバではありません。最後の宿場町エリコから朝早くエルサレムに向かって出発されて、ケデロンの谷を隔てた先には、エルサレムという所にあるベトファゲという村に差し掛かった時、弟子たちを使いに出して、「向こうの村に行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいてわたしのところに引いて来なさい。」と命ぜられたのです。主イエスが呼ばれたのは、子ろばと母ろばです。

 私は今日の説教準備をするまで、主イエスがお乗りになったのは、子ろばだとばかり思っていました。有名なちいろば牧師という方のこともありますから、主イエスがお乗りになったのは、小さなロバ、ちいろばの方だと思っていました。しかし、どうも、福音書記者自身も主がどちらのろばに乗ったのかはっきりとしなかったようです。だから、7節の「ろばところばを引いてきて、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」という記述は、原語では、「それらの上に服をかけ、イエスはそれらの上にお乗りになった。」と複数形で書いてあります。子ろばの上か、母ろばの上にお乗りになったのか、よくわからない。そこで複数形で書いておいた。だから、ある絵画では、主イエスは母ろばに乗っていたり、子ロバに乗っていたり、両方に跨っているものもあるそうです。しかし、いづれにせよ、親子連れのロバに乗るというのは、いよいよのどかというか、のんびりとした風景であったろうと思います。万軍の主という言葉とは無縁であるようなキリストの姿です。主イエスは、このような親子のろばに乗ってエルサレムに入城されることにより、自分は戦争のための王さまではないということをはっきりとお示しになっていると言えます。それは、ご自分のエルサレムの歩みが、十字架の死に極まるのだというメッセージでもあります。エルサレムを動転させる主、事実、この直後に、神殿に入り、両替人や、犠牲の鳩を売る商売人を、荒々しく追い出されるのです。けれども、それによって、誰かを傷つけようということはなかったのです。主イエスは殺すことも傷つけることもしなかったのです。ただ、代わりに御自分が殺されてしまったのです。

 「ダビデの子に、ホサナ」と人々が熱狂する横で、主イエスは親子のろばに乗って、都に入られるのです。そこには、とてつもない温度差があるように感じます。群衆の熱狂は、見るべきものを見た上での熱狂ではないと言わなければなりません。しばしば私たちもするように自分の見たいものを主イエスに重ね合わせて見ているだけであったと言えます。だからこそ、手の平を反すようにして、熱狂して主イエスの後に従ったこの同じ人々が、今度は、主に従った時と同じ熱心さを持って「十字架につけろ」と叫ぶことができてしまったのです。

 これは、注意して頂きたいことですが、無神論者のあり方ではなく、信仰者ならではのことです。主イエスのことを救い主として信じた。期待をした。だからその方に服従し、その後ろから従った。そこに偽りはないのです。けれども、よくわかっていなかったのです。表面的な所しか見ていなかったのです。軍馬にではなく、ろばの親子にお乗りになる方は、その後も理解しがたい、期待とは違う歩みを作られ続けるのです。がっかりしたのです。私たちにもよくわかります。信じない者ではなく、信仰者だからこそ、分かります。神様の救い、神さまの守り、神さまの愛を熱心に信じているのに、禍が重なり、行き詰れば、「この世に神も仏もあるものか」と、手の平を返してしまうことがある。それは特別な人の経験というのではないと思います。神の愛、神の支配を心のどこかで疑うなんてことは、私たちにとって、日常茶飯事だと思うのです。無神論者ではなく、信仰者だからこそ、主イエスに失望もするのです。けれども、ろばに跨りながら、どんなに悲しい思いで、主イエスはこの人々の喜びの声を聴いていたかと思います。私はあなたがたが望んでいるような王さまじゃないんだ。私は、これらかあなたたちに捨てられ、しかし、そのあなたたちのために十字架に着くんだ。

 主イエスは、群衆の期待通りの王であることを、拒否されているのです。しかも、群衆が騒ぐままに任せることによって、彼らの誤解した熱狂、誤解したままの信仰を解きほぐすことも、諦めていらっしゃる。それは、裁判の席で、不思議なほどに何もお答えにならない主の姿が、既に始まっているのだと思わせることです。けれども、それは、このお方が、私はあなたたちの王なんかなじゃないと仰っているのではないし、愚かな群衆を救うことを諦めるということでもないことに、注意しなければなりません。

 福音書記者マタイは、ただちに、ろばに乗ったエルサレム入城を書き始めるのではなくて、ろばを用意するまでのことの次第を丁寧に書き記しました。そして、その書き方は、まさに、このお方が、人間と世界の王さまとして振舞う姿そのものだと言って良いものでした。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」6節には、弟子たちは主の命じた通りにしたとあります。

 不思議なことです。ベトファゲの村の知り合いの誰さんちにいるろばの親子というのではありません。その村に入るとすぐ、親子のろばが見つかるだろう。それを発見できるだろう。見つけたなら、ほどいて連れて来なさい。しかし、もしも、持ち主がその姿を見たなら、「うちのろばに何をするのか?」ということになるのです。けれども、その時には、「主がお入り用なのだ」と言えば、直ぐに渡してもらえると言うのです。主、主人がお入り用ですと言えば、直ぐに渡してくれる。

 このエルサレム入城の前半にわざわざ書かれたいささか丁寧過ぎる描写、しかし、不思議なやり取りは、イエスというお方が、真に王であることを告げようとしているのです。主がお入り用だ。主人が必要としているのだ。一体誰の主人でしょうか?もちろん、弟子たちの主人です。けれども、弟子たちの主人であるという理由では渡してくれることはありません。だから、この「主」という言葉の中には、ろばの持ち主であるあなたの主人であり、さらに言えば、この二頭のろばの本当の主人が、必要としているのだということでなければ、話の筋は通りません。しかも、この主イエスの御言葉どおりに事が運んだということに対して、何の説明もされていないことが、印象的なことです。弟子たちと、ろばの持ち主との間で、問答があったということではないのです。弟子たちの説明にすっかり説得されてしまって、ろばの持ち主が、主イエスを信じるようになったので、ろばが提供されたというのではないのです。弟子たちに託された主イエスの言葉、「主がお入り用なのです」というその言葉一つが、有無を言わさぬ力を発揮し、ろばの親子は御用のために、引き出されました。

 私がいつでも皆さんに注目してほしいと思うのは、聖書の中にあらわれるこういう記述です。人間と神が出会う道、一人の信仰者が、あるいは神の御用のために私たちが動かされる時というのは、こういうものだろうと思うのです。主イエスの言葉が素晴らしいとか、納得がいくとか、説得的だとか、そういう次元の話ではないと思うのです。私たちが神と出会い、神の御用のために、召し出される時というのは、有無を言わさぬものだと思うんです。

 神が神として私たちにお語りになる。しかも、神が私たちに御自分の言葉を聞かせたいとお望みになるとき、神は、私たちの耳をお開きになる。すると、聞かないなんてことはあり得ない。聞くか、聞かないか選ぶなんてことはできない。自分では、神に従う決断を自分の選択でしているつもりになっているかもしれない。教会に来るのも、自分の意志で足を運んだと最初の内は思っているものです。けれども、信仰生活が進んでくると、そうじゃなかったということがわかってくる。私ははじめから神の御計画の中にあり、この方の言葉を聞かないなんて言う可能性は存在しなかった。神がその御力によって、わたしを従う者とされたんだということが、わかってくる。すると、ますます自分への執着を捨て、神を拝む心が私の内に増してくる。そういうものです。

 神様は無から有を生み出されるお方です。神さまが「光あれ」とお命じになると、何もなかったところに光が生まれ、世界が生まれるんです。その御言葉一つによって。何の手がかりも、足がかりもない所に、何の材料もないところに、光が生まれる。信仰が生まれる。服従が生まれる。ろばの親子を御自分の用のために、召し出される主イエスの御言葉も、それと同じ種類の言葉なのです。もしかしたら、色々なやり取りがあったのかもしれない。いや、なかったのかもしれない。それはわかりません。けれども、いづれにせよ、突き詰めて言えば、私たちと神さまの間には、マタイが書いた通りのことが起こる他ないのです。主が私たちを召すことを望む。その力の言葉が私たちの耳を開く。すると、私たちは従う者となるのです。王様の命令というのは、そういうものだと思います。

 だから、ろばに乗ってエルサレムに入城される主イエスは、群衆が喜びの叫びを熱狂的に挙げながら迎えるように、ご自分がまぎれもなく群衆の王であり、天地万物を造った神と等しい、世界の王であられることを、隠し立てすることはないのです。誤解に基づいたままの、叫びであるかもしれないけれども、人間の告白に身を委ねてくださる。そうだ、私はあなたたちの言う通り、王だ。あなたたちを救いに来たんだ。その業を今日、この時から決定的に始める。

 今日の聖書個所とじっくりと取り組みながら、私は主イエスというお方は本当に丁寧なお方なんだという印象を受けました。ご自分のお乗りになるろばの親子を準備される時も、最後にお泊りになったエリコから連れて行かれたのではないのです。エリコからエルサレムまでは、まだ、20キロ程度あります。高低差も厳しいと言います。しかし、ベトファゲとエルサレムは、谷を隔てた目と鼻の先です。親子のろばに無理をかけない距離です。私たちは有無を言わさぬ王さまの命令と言うと、どんなにつらくても文句を言えない強制労働につかされると思いがちですが、この真の王さまは、思慮深い方です。ご自分のものだからといって使い捨てるのではありません。丁寧に扱われます。けれども、この丁寧さはろばに対してだけではありませんでした。そもそも、このお方がご自分の都に入られる時、ろばを選ばれたということが、人間に対するこのお方の丁寧さそのものでした。

 馬に乗る一つの喜びは、目線が高くなることです。普段、歩いている時や、車に乗っている時とは違う、高い視線で、視界が開けるものです。自分の身長と大して変わらない馬の背に乗ると、何十センチも高いところから、景色を見下ろすようになる。それこそ、偉くなったような気分が味わえるのです。けれども、ろばに乗っても、視線の高さはほとんど変わらないのです。子ろばであったら、むしろ、普段よりも、ほんの少し、視線は低くなるかもしれない。ろばに乗る主イエスは、人々と同じ目線を持つ王です。人々と目を合わされる救い主です。だから、それだけ、ご自分を迎える人々の熱狂が間違っていることも、よくお分かりになったと思います。ご自分に注がれるその視線が、本当は御自分を見ていないことにお気付きであったのです。けれどもろばに乗った王さまは、その誤解を蹴散らす道を選ばない王なのです。自分の期待が裏切られると、神も仏もあったものかと、手の平を返す、信仰者のその罪を引き受ける覚悟を持たれているのです。それが、ろばを選ぶ主イエスの優しさです。そして、それは、ご自分のものが一人もこぼれ落ちないように、私たち人間をガラス細工の宝物のように扱われようとする主イエスの優しさです。主イエス・キリストは、ご自分のことを理解できなままでいる弟子たちも、誤解したままの群衆も、そのままで受け入れてくださいます。裏切りも、侮辱も、受け止めてくださいます。

 私たちの弱さと貧しさが、単に、弱い者でなくて、キリストを引き倒し、侮辱するものであっても、何の悪気もなく、神にお仕えしているつもりの、最高の信心深さにおいて、主を殺すときにも、主イエスは、そんな救いようのない私たちが壊れてしまうことのないようにと、ご自分が壊れてくださったのです。それが、ろば、子ロバに乗って来られる王様が私たち、ご自分の民を生かすための不思議な支配の仕方でした。4、5節に、「それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった」とあります。つまり、ここに、父なる神の永遠の御心があるのです。ろばに乗った王、柔和な王。私たちがどんな者であっても生かしたい。必ず生かす。それが父なる神の永遠の御心です。

 主イエス・キリストの柔和さは、私たちを生かすための優しさです。私たちのために本当は私たちが付くべき十字架に私たちに代わって進まれる優しさです。

 今日は幼児祝福式です。ろばを選ばれる救い主は、子どもを選ばれる救い主です。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」今日も子供たちが来てくれました。ここに子どもたちがいるだけで、喜びが私たちの心に湧き上がってきます。この嬉しさは何なのか?それは、この子たちが将来、私たちの老後を支えてくれるという実利的なものではないことは明らかです。可愛いなと単純に思うからです。同じように、しかし、私たち以上に、神が子供たちを喜ばれるのは、まだ、純真無垢で、私たち大人と違って、成長の可能性が詰まっているからではありません。神様は、弱い者、小さな者、自分の力では生きて行かれない者の味方となる神さまだからです。神様はろばを選んでくださるのです。子ろばを選んでくださるのです。その何もできない者を神さまが可愛いと思ってくださるからです。

 その神が、今日、御言葉を通して、私たち信仰者の貧しさを露わにされたのです。主イエスにとって、私たちが人馬一体となる洗練された馬ではなく、主を受け入れる同じ熱心さで主を捨てる愚かな者だと、私たちの心ではなく、御言葉が明らかにするのです。私たちにはそのような罪と愚かさの実感はこれっぽっちもないかもしれません。私にはありません。私は自分はこの生涯において最後まで主イエスにお従いするのではないかという淡い期待がある。けれども、御言葉は、そんなことはないと言います。あなたがたは主イエスと人馬一体となる軍馬ではなく、ろばだと言います。信仰者であるあなたはいつだって、手の平を返す者だと明らかにします。けれども、主はろばを選ばれると言います。子ろばであるか、母ろばであるか、いづれにせよ、ろばはろばです。しかし、神は神に逆らう神と心を一つにできない人馬一体にはなれないロバである私たちを可愛いと思ってくださる。私たちとこのお方との繋がりは、主イエスにかかっているのです。主が、私たちの信仰が無くならないように祈ってくださることにかかっているのです。

 そうであれば、大人となった私たちもまた、自分を飾ることなく、幼子のように、乳飲み子のように、その方の前に、空手でありのままで、つまり、貧しい者として、この王さまの傍らにこの身を置かせて頂けるのです。ろばをお選びになるお方は、私たちがこのお方を捨てても、私たちをお見捨てになることはないのです。キリストの悲しみと優しさが一つとなって、私たちの救いのために、十字架が立ったのです。

 

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