罪人は立ち上がって従う

私たちの主イエス・キリストが、人間を招かれる時、その招きと服従は、全く思いがけない場所で起こります。そのことを今日の御言葉は、冒頭から語ります。

 

一人の人間がいました。マタイという男です。彼は、収税所に座っていました。そこには、彼の仕事がありました。税金を取り立てる仕事です。

 

この仕事は、評判の良い仕事ではありませんでした。当時、ローマ帝国に不本意にも、支配されていたユダヤの民に対し、同じユダヤ人でありながら、その支配者の手先となって、税金を取り立て仕事だからです。

 

しかし、だからこそ、それは、うま味のある仕事であったとも考えられます。仲間の恨みを買う分だけ、金持ちになれました。決められた税金の額だけを帝国に納めれば、あとは、自分の裁量に任されていました。何かと理由をつけて、多く集めれば集めるほど、自分の懐を豊かにすることができました。

 

だから、今で言えば、結局、その仕事を請け負ったのは、暴力団に近い類いの人たちだと言えるかもしれません。このような仕事を請け負うことができたのは、真っ当な人間ではなかったと考えられます。罪の中にいることに開き直った人間であったのです。

 

一人の人が、そのような仕事の真っただ中にいる場所、そこに、主イエスはやって来られたと今日の聖書個所は語ります。

 

その徴税人が、罪の意識に苦しんでいた、本当は真面目に生きたくても、生きられない自分の人生を呪っていた。そんなことは、どこにも示唆されていません。

 

シィイエスが彼のもとを訪れたのは、一日の仕事を終え、自分の生き方に疲れ果て、後ろ指さされながら家路に就く、自分の罪のあり方に疑問を持ち始める時間と場所と言うのではありません。

 

その徴税人の職場に、主イエスはやって来られ、命じたのです。

 

「わたしに従いなさい。」

 

その招きは人間には余りにも唐突であり、異様に思われるので、マタイの人生には何の変化ももたらさず、何も起こらず、そのお言葉が、空しく宙に消えてしまって当然のようなものです。

 

しかし、彼はその場所から立ち上がって従いました。

 

マタイという徴税人、彼は、その場所から「立ち上がってイエスに従った」のです。もしかしたら、誰かから税金を取り立てている最中であったかもしれない。お金を一枚、二枚と数えている最中であったかもしれない。しかし、その場所で、劇的な服従が起きたのです。「彼は立ち上がってイエスに従った」のです。しかも、その理由はただの一文字も書かれはいません。

 

この福音書を書いたマタイが、まさに自分の服従を描きながら、このような招きと服従の物語が、彼の福音書を読む全ての者に対するの招きと服従のモデルとして語ってます。そのことに、私たちは、恐れ戦かざるをえないといます。

 

このような無条件の服従を私はできるだろうか?自分の服従はこんなに純粋なものではなかったのではないだろうか?

 

けれども、ある神学者は言います。「ただこの転身の全重量は、主の呼びかけの中にある。」マタイが主の弟子に慣れたただ一言の理由もないというのは、マタイが無条件の服従をなしたという以上に、服従を引き起こす力は、マタイの側には一切なく、主イエスの側のみにあると言うことです

 

そこで、多くの人が指摘するのは、「彼は立ち上がってイエスに従った」というマタイの服従を語る言葉遣いの「立ち上がって」という言葉「よみがえる」と訳される言葉だということです。

 

主の招きへのマタイの服従は、死人よみがえり」として描かれているのです。彼は死んでいたのです。当然自分の力では、徴税人の生活から、罪の生活から立ち上がることできなかったのです。罪の中で死んでいるからです。しかし地獄の香りを放つこの徴税人マタイに、キリストの言葉が語られます。すると、立ち上がるのです。主の招きが、死人を甦らせたのです。ここに語られるのは、そのような復活のの招きだけが造りだす服従の出来事です。

 

一人の人が、主の弟子となるというのは、ここに典型的に見られるように神が引き起こされる奇跡なのです。死人のよみがえりに比べられる奇跡です。マタイはそのことを語りたい。自分の側に服従する理由が何もないにもかかわらず、自分は立ち上がって従った。私は死んでいたのに、まさにその死から、主イエスによって、よみがえらされたのだと語りたいのです。

 

しかも、マタイはこの奇跡はただ自分一人の身に起きた例外的な出来事だとは致しません。

 

そのようなマタイ復活の奇跡に結びついて、報告されます。10節、「イエスがその家で食事をしておられた時のことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席した。」

 

ここには直接、主イエスの招きがあったとは語られていません。けれども、また、彼らも招かれたのです。この物語の最後の言葉が、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と語られているとおり、そこに集まった人々の数だけ、主イエスの招きと、死人からの甦りがあったのです。

 

彼らが、この食卓に着いているのは、彼らが少しは良い所があったからではありません。ただ、主イエスの父の憐れみのゆえです。

 

ここに私たちの教会の姿があります。神を求めてもいなかった者達が、それぞれの、神に従い得ない罪の生活の只中で、招かれ、ただ、その主イエスの招きによって、よみがえらせていただき、にお従いする者にして頂いたのです。

 

ところが、この主の招きを理解しない者がいました。11節に登場するファリサイ派の人々です。彼らは弟子に向かって、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」と非難しました。

 

徴税人と罪人たちの服従、すなわち、神に対して死んでいた者たちの復活として福音書記者マタイが記す光景を目の当たりにしたはずの正しい人は、正しい人の罪に陥ります。不正を働く人、正しくない人に対する憐れみを失っているのです。

 

正しさにおいて病んでいるのです。神の言葉に具体的な生活において誠実に従っている正しい人こそ、神の戒めに従い得ない、いつまでも罪の中にとぐろを巻いているように見える人を見ながら、「神様、わたしはこの罪人のようなものではないことを感謝します」と言ってしまうのです。

 

私たちは徴税人マタイやその仲間たちが主イエスに対してなす服従、友に主と食卓を囲む姿を、聖書の言葉に従って、罪に死んでいた者の復活と理解しますが、しかし、主イエスの御言葉に丁寧に聴くならば、それは、彼らの本質が、存在の根底から変化したのだとは理解できません。

 

なぜならば、主は、ファリサイ派の批判に対し、「この人たちは、今までは道徳的に死んでいたが、これからは生まれ変わった新しい人間としてあなたが喜んで認めるような生き方を開始する。」とは仰らないからです。

 

だから、ファリサイ人の批判は、正しいものであるとも言えます。彼らにはわかっています。「主イエスよ、この人たちは、あなたが目を話せば、即座に、また元の生活に戻りますよ。また、同胞から金を巻き上げる生活を始めますよ。あなたが手を離せば、また罪の中に倒れこんで、神に対して死んだ者のようになりますよ。」

 

その通りです。

 

しかし、主イエスは仰います。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 

主イエスはご自分を正しい人のためではなく、罪人のための存在と定めておられます。あなたがどうしようもないと正しく見抜いているまさにその罪人のために、私はいるんだと仰います。

 

けれども、また、主イエスは、ここで単純に、「だから正しく丈夫なあなたと私は無関係だ」とファリサイ人を退けられているのではなく、そこでこそファリサイ人もまた、主イエスの招きを受けているのだと言えます。

 

と言うのは、「行って学びなさい」という言葉は、ユダヤの教師が、その弟子に対して使う特別な表現だと言われているからです。

 

「行って学びなさい」とは、「ファリサイ人よ、行ってしまえ」というのではないのです。あなたがたはその正しさにおいて病んでいるね。私はあなたのその正しさのためにではなく、正しいあなただからこそ、捕らえてしまっているその罪を、そのあなたの本物の罪を癒すために来たんだ。わたしはあなたをも招く。あなたが気付かず、見抜けず、あなたがまさにそこで死んでしまっているそこであなたを招く。その罪の中から出て良き、わたしに学びなさい。

 

マタイを弟子として招いた主イエスは、このファリサイ人達をも、既に弟子としてみなしておられるのです。

 

今日の聖書の言葉を説きながらある人は、我々はこの聖書個所を読む時、自分をマタイのような徴税人、あるいは主と共に食卓を囲む罪人と自分を同一視したがるが、キリスト者は、むしろ、このファリサイ人と似ているのではないかと言いました。

 

私たちは、誰かからお金を巻き上げるということを意識的には進んでしないでしょう。うま味を得るために権力者の手先になることをしない。

 

あるいは、神の言葉をないがしろにし、好き勝手に生きるということもしない。日曜ごとに礼拝に出席し、聖書を読んでは、その神の御意志に従いたいと願っています。

 

私たちは、この御言葉を読む時、マタイや罪人に近い者だと自分を思いたくなります。決してファリサイ派が自分だとは致しません。けれども、本当のところ、教会に行かず、聖書も読まず、好き勝手に生きている家族を見ては苛立ちを覚え、しかし、宗教なんかに頼ってという家族の幽かな軽蔑の目に対抗するように、心の中で、その者たちと違って、私は神の戒めに従っている、見出しがたい狭くて細い命の道を自分は歩んでいるという優越感さえ覚えることから、完全に無縁というわけにはいきません。

 

だとすれば、私たちはマタイや、主イエスと食卓を囲む罪人などよりも、よっぽど、このファリサイ人に近いのです。

 

改革者ルターという人は、だからこそ、この聖書の言葉を説くことは難しいと考えました。しかし、なお、こう言わざるを得ませんでした。

 

「キリストがおられるところ、それがどこであっても、そこにわれわれはいたいと思っている」しかし、「キリストは、ご自身がおられないところには、来られないのである。」

 

私たちは、マタイとして主イエスにお会いしたいと思っても、本当にマタイでないならば、そこでは主にお会いできないのです。けれども、私たちがファリサイ派であるならば、ファリサイ派として主にお会いしたくないと思っても、そこで主にお会いするのです。

 

そこで、誤解しないように、よく考えてみるべきは、ファリサイ派の問題は、浅い意味での偽善などではないということです。ファリサイ人というのは、表面上は神に従う良い人間だけど、裏では神を神とも思わず、人の称賛を得るためだけに善行をなす罪深い考えに捕らわれている偽善者だと言うのではありません。当時の人々の中で、最高にまじめで、最高に正直な種類の人間です。また、ファリサイ主義とは、神の恩寵を信じないということでもありません。

 

むしろ、彼らは、人間は神に十分な恩寵を頂いているのだから、神の戒めの内に、人間は誰もが立てるはずだと考えることです。神が心と肉体というただ神が創造された恵みの賜物をくださり、律法というその人間の取扱説明書も頂いたのだから、恩寵を頂いている私は、その神の言葉を常に参照しながら、正しく歩む力を与えられていると信じています。

 

だからこそ、神から与えられた命を、神から与えられた能力を用い、神から与えられた神の言葉に生きようとしない、それを自由に好き勝手に罪のために用いる徴税人、罪人たち、神の恩寵を無駄にしながら生きているこの人たちを、批判します。そして、この誰もが与えられている恩寵を無駄にしている人びとを、主イエスが招き、天国に入れてしまうことを、神への冒涜と感じられるのです。私たちにもよくわかることです。しかし、主イエスは、そこにファリサイ人の罪を見ます。ファリサイ人の病を見ます。

 

彼らは余りにも、人間を自立的な者と見過ぎています。その結果、律法主義に陥っています。律法主義とは、御言葉を与えたまま、人を一人ぼっちにさせることです。

 

けれども、そこにファリサイ派の罪があるのならば、主イエスはそこで、人間に声をかけてくださるのです。「他のどこでもなく、あなたが本当に貧しい者である、そのあなたの罪人であるあなたの場所で私はあなたを招く。その罪の中から立ち上がりなさい。私は、健康な者のためではなく、病人のために来たのだ。あなたを一人のまま捨て置かない。私が来た。」

 

その時、呼ばれた者は、必ず、マタイのように自分独自の罪の中から、死人が生き返るように立ち上がるのです。主が手を取り、起こしてくださるからです。

 

そのように立ち上がらせて頂いた者もまた、主が目を放し、手を放すならば、同じように、元の罪の中に倒れこんでしまうでしょう。

 

しかし、罪人の手を取り、立ち上がらせてくださった主は、マタイによる福音書でははっきりと世の終わりまであなたがたと共にいるインマヌエルなる主だと約束してくださっています。いつまもであなたと共にいる。いつまでも、あなたを支える。

 

だから、私たちは立っていられます。徴税人の罪に、あるいはファリサイ人の罪に倒れそうになっても何度でも立ち上がることができます。

 

私たちが罪に倒れそうになる時、その私たちの元に、訪ねて来られ、そこで私たちは何度でも主イエスにお会いできるからです。そのようにキリストがほんの一瞬も私たちから手を離されないので、私たちは、自分の罪に滅びてしまうことがないのです。

 

ルターが語った「義人にして同時に罪人」という言葉がありますが、まさにそれは、このことを語っています。

 

長い時間をかけて少しづつファリサイ化してしまった教会、キリストの十字架によって罪を清められ、神の恩寵を頂いて義人になった者は、神の言葉に従うことができる、その御前に信仰の功徳を積むことができる者へと既に変えられていると言いだしてしまった教会に、否を唱えたのです。

 

そのように洗礼を受けた後は、自分は善い者だ。自分は義人だと言うところでは、キリストは本当には必要でなくなってしまっていることに気付いたのです。

 

考えてみれば私も長いこと、自分がカトリック的な義の理解をしていたことに思い至ります。自分はキリストによって完全に義とされているので、罪人であるという言葉遣いは捨てるべきだと思っていた時期も長くありました。

 

その意味で、私は、自分が生まれ育った教会の影響を良くも悪くも受け続けてきたのだと思いました。

 

ホーリネス教会と、聖霊派の教会を足して二で割ったような教会で過ごしました。その二つの教派がどういう教派であるかは、ここで詳しく説明することはできません。興味があれば、礼拝後にでも、個人的にお声がけいただくか、あるいはインターネットで調べてみてください。

 

今関係あることだけ言えば、私が受け取った範囲では、洗礼を受けた者は、もう罪を犯さない。十字架によって贖われ、今は、聖霊の導きによって支配されて、ひたすら義人としてだけ生きるのだと教わりました。簡単に言えば、罪の赦しの洗礼を受け、聖霊を頂いたのちは、キリストの十字架を卒業してしまうのです。罪を赦すキリストの学校を卒業し、今度は、正しい者として生きる聖霊の学校に進学するのです。

 

けれども、今思えば、それこそが、ルターが当時、戦わなければならなかった教会の陥った過ちと、とても似ていると思います。

 

ちょうど、先週の火曜日に、北陸連合長老会の牧師会があり、そこで学びの時がありました。熊野義孝という牧師であり、神学者であった方の、『キリスト教本質論』という本を読んでいますが、そこが、まさに、この「完全に義人にして、完全に罪人」というルターの言葉を巡って、語る部分でした。

 

神が、今日の御言葉を語るために与えてくださった個所だと思いました。そこで、長年もやもやしていたものが、はっきりとわかりました。

 

熊野という人はこういう趣旨のことを言います。もしも、私たちが、罪人にして同時に義人ということを、私たちの性質に関わることと考えるならば、これは矛盾することだということで、当時の教会は、ルター派を激しく批判しました。

 

当時のカトリック教会は、ルターとは違い、こういう風に考えました。神の一方的な恵みによって、まず神の愛が人間に注入される。すると、人間の性質は善きものに変化し、信仰を持つことがきできるようになる。その善き存在、義人とされた人間の信仰を神が喜ばれると考えていたと言います。その意味で、カトリックも信仰義認なのです。しかも、その信仰とは、人間の自力ではありません。神が注入してくださる恵みによってその本質が新しくされ、実を結ぶことができるようになった人間の信仰が義と認められるという信仰義認です。

 

おそらく、私たちは、ルターの語った信仰義認をそういうものだと捉えてさえいます。けれども、熊野という人は、それこそがルターが戦った理解だというのです。

 

このようなカトリックの義人理解に反対して、ルターは、神が人間にくださる義を、性質の変化とは基本的に理解していなかったと言います。むしろ、その理解にこそ反対し、宗教改革が起きたのだと言います。

 

ルターは人間が神に義とされる、神より義を与えられるということを、第一に、神による人間の本性、心根の変化を意味するとは、理化しませんでした。

 

そうじゃないんだ。罪人が義人して立ち上がることができるのは、どこまで行っても、義なるキリストが罪人なる私を立ち上がらせてくださるんだ。義なるキリストが手を離せば、いつでも私はまた倒れるんだ。

 

このお方が、いつまでも私たちと共にいて下さり、私たちに常に与え続けてくださる義、そのお方によっていつでも外から頂き続ける義があるから、私たちは義人だということに、ルターは聖書を読んで気付いたのです。

 

ここで、教会が大事にしてきたハイデルベルク信仰問答という文書の問い61の答えを思い起こすことは意味のあることだと思います。

 

61「なぜ、あなたは、信仰によってのみ、義とされると、言うのですか。」

答「それは、私が自分の信仰の価値によって、神に喜ばれる、ということではありません。そうではなくて、ただキリストの贖いと義と聖だけが、神の御前における私の義であり、私はこの義を、ただ信仰によってしか、受け容れて自分のものにすることができないからです。」

 

だから、そこには、聖人が生まれる余地はありません。誰もエリート信者になりません。

 

なぜならば、そこにおいて、信仰が深まるということは、いよいよ私がキリストなしでは立ちえない乳飲み子のような存在であることに習熟していくことだけだからです。

 

しかし、また、それだから、キリストが共にいて下さり、義を与え続けてくださるゆえに、誰もが貧しいままで聖人であり、誰もが祭司です。

 

それゆえにこそ、熊野義孝という神学者は言います。「罪人にして同時に義人」という言葉を私たちは捨てることができない。

 

しかも、それは、私たちが私たちの存在、自分のアイデンティティーを安全に確保するための自分に言い聞かせる独り言ではなく、キリストに救われた者が、神にささげる賛美と信仰告白の言葉として語り続けるのだという趣旨のことを言います。

 

マタイという人が、自分の服従の理由を一言も書かず、その時の心境を少しも書かないのは、そのためです。服従の理由は、いつでも、私たちの側にはなく、神が私たちを立ち上がらせてくださり、支えてくださるということ以外にはないからです。

 

神の御前に、キリストの御前に、私たちは完全に罪人であることを、私たちの卑屈さや、絶望ではなく、賛美として告白いたします。

 

「神様、罪人の私を憐れんでください」という告白は、主よ、あなただけが正しいお方です。あなたが私の永遠の救い主です。私はただの一瞬たりとも、義人として自分の足で立てるとは思わず、あなたを必要としない瞬間は私には今も、将来もありません。私は永遠にひたすら、あなたに手を取って立ち上がらせていただく虚しき者です。ただあなただけが、善きお方ですという徹底的な神賛美なのです。

 

 

だからこそ、私たちは罪と悪魔の前では、私たちは罪人ではなく、完全に義人だとはっきりと言えます。私は、完全にキリストの義に包まれており、悪魔が手出しできるような罪人として、キリストの義から指一本、髪の毛一筋もはみ出てはいないからです。

 

主イエスが、「貧しい者は幸いである」と仰ったとき、その貧しさと、貧しい者の幸いとは、まさに、このような告白の中にはっきりと見えていると思います。

 

最後に、「罪人にして、同時に義人」と私たちのそれ以外にはありえない神の御前にあるあり方を語ったルターが、罪を犯した同僚シュパラティンに送った慰めの手紙の一部をご紹介したいと思います。

 

以前にもご紹介したことのある文章です。

 

ルターは罪を犯して心塞いでしまった同僚に、それは大したことのない罪だとは語らず、またあなたはもう罪人ではないとも語りませんでした。そうではなく、あなたは自分が今打ちひしがれているよりももっと大きな罪人だと言いました。そして、こう書き送りました。

 

「それ故に、わたしのこころからの願い、また警告はこれです。どうぞ、私ども、とんでもない罪人たち、頑迷固陋な罪人の仲間入りをしてください。そのようにして、キリストを、絵空事の、子どもっぽい罪からしか救い出すことができないような小さな頼りない存在にしてしまわないようにしてください。そうです、それはとんでもないことです。そんなことをすれば、私どもの益になりません。そうではなくて、キリストは神から救い主として私どものところに遣わされた方です。キリストだけが救い得る方です。まさしく、とんでもない大きな罪、重い、呪われるべき違反、罪業から救い得る方です。最大、最悪の、要するに、地上の罪すべてを犯した者をも救い得る方です。」と励まします。そして、続けて、かつて、自分が恩師から語ってもらった言葉を紹介します。「ああ、あなたは絵空事の、まさに絵に描いたような罪人になりたがっておられる。だからこそ、絵空事の、まさに絵に描いたような救い主だけを得ようとしておられる。正しく真実の事柄のなかに身を置いていただきたい。そしてそのことに習熟していただきたい。キリストはあなたの真実の救い主、あなたは真実の、大いなる、呪われるべき罪人であることに習熟していただきたい。神がみ子を送ってくださり、私どものために献げてくださっているのに、神を軽んじ、絵空事を抱えてうろうろしないでいただきたい。」

 

私たちは絵空事の罪人ではなく、絵空事の義人ではありません。キリストは私たちの実生活の只中に来られます。まさに、今、私たちが置かれている私たちの罪の現場に踏み込まれます。絵空事の夢の中で、うろうろしている私たちの手を取り、そこから出てきて、渡したと共に来て学びなさいと起こしてくださいます。

 

そうやって罪に開き直ることからも、自己義認、自己正当化からも自由にされ、ただ神が本当に語ってくださる義の内に、義人であることが許されています。

 

そこにおいて、神への賛美として私たちは自分の罪を安心して数え上げることができるのです。赦しに支えられながら、私を世の終わりに至るまで決して見捨てないキリストに支えられながら、神への賛美として、自分の貧しさを数えるのです。この正真正銘の罪人を、なお、神の子と数えてくださる主は褒むべきかなと。