心の貧しい人々は、幸いである!

 

 本日は、礼拝後、1400から、一泊二日の教会修養会が行われることが予定されています。津幡の倶利伽羅塾で、「何かが生まれる修養会パート3」と題して30名弱のメンバーで行ってまいります。これは、今まであまり言いませんでしたが、この教会に赴任する前に、総会資料で、この教会の修養会が「何かが生まれる修養会」というタイトルで2年連続で行われたことを知りました。それで、これは、なかなか面白い奇抜なタイトルだと思っていました。赴任前に既に、こういう修養会のタイトルを見て、この教会に来ることにだいぶ肩の力が抜けた部分がありました。私は、この修養会のタイトルから斬新で柔軟な、そして生き生きとした、そういう教会の雰囲気を嗅ぎ取っていました。

 たぶん、そうは見えないかもしれませんが、私はどちらかと言えば、すぐに緊張してしまい、新しい環境に慣れるまでに時間がかかるほうです。だから、こういう型にはまらない、あまりかしこまらないでよい雰囲気の教会に招かれたということは、本当にありがたいことだと思いました。しかも、私は、ただ、このタイトルからユーモアのある気取らない教会であるということだけを喜んだわけではありません。「何かが生まれる」というのは、私たちの信仰の本質を突くタイトルだとも思いました。

 実は、このタイトルを聞いて、思い出した一つの書物の名前があります。トマス・ロングというアメリカの有名な説教者の説教集の名前です。そのタイトルが、まさに、『何かが起ころうとしている』というものでした。それは、クリスマスの説教集です。本の紹介文にこう書かれています「クリスマスは神の仕掛けたミステリー。ほんとうのクリスマスを知った時、あなたは変わる、何かが起こる・・・。」何かが生まれる、何かが起こる。これは、私たちの信仰のキーワードであると思います。なぜならば、生ける神の言葉を聞く場所と私たちが信じる教会で、その言葉を聞きながら、何事も起こらないというのは、やはり、考え難いことだからです。神の言葉が語られ、聞かれるならば、そこで何かが生まれないわけにはいかないのです。聖書にこういう言葉があります。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種まく人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは。わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ551011

 今日は、教会創立記念日である109日に一番近い日曜日です。131年の歩みに思いを馳せる時でもあります。考えてみればよいのです。この教会の131年の歩みにおいて、何も起こらなかったのではありませんでした。当たり前のことですが、最初のメンバーはだれ一人残っていないのです。けれども、神様は、この教会のために働き続けてくださいました。神の出来事に捕らえられた新しいメンバーが加えられ続けていきました。神の出来事が起こり続けて、今、ここに教会があります。

 これは、確かに神の業でしかありません。なぜならば、聖書に、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない」という言葉があり、また、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」という言葉があるからです。つまり、信仰者が生まれること、私たちが信仰を持ち続けること、だから、教会があり続けるということは、単純に言って、神様の業が、そこにあるということです。私たちに求められることは、神さまのなさることに比べれば、多くはないと思います。神さまの生ける働きにアンテナを張り続けること、そして、そのなさりように、驚き続けること、そして、喜んでその神さまの出来事によって、自分を変えていただくことだと思います。この教会が積極的に取り組んでいるデボーション、聖書黙想というものは、まさに、アンテナを働かせていることだと言えます。

 聖書黙想を日本に紹介した加藤常明先生は、しばしば黙想のコツとして聖書の手触りに気付くこと、すぐには読み飛ばせないような、ざらっとした部分を見つけることだと言いました。おやっと思わせること、ざらっとした部分が、立ち現れてくる。そこを簡単に通り過ぎず、立ち止まり、じっくりと味わってみる。すると、思いもよらなかった恵みに気付く、神の出来事が立ち現れてくるということが起こるのです。そのようにして、聖書の手触りを確かめるようにしながら読むと、今日共にお聞きした聖書の言葉は、特別なざらつきを持った言葉だと言うことができると思います。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

 よく知られた山上の説教の始まりの言葉ですから、何気なく読み飛ばしてしまうということがあるかもしれません。けれども、この言葉の前に立ち止まってみると、不思議で、しかたのない言葉であると感じます。この言葉は、私たちの常識の上の上を言っているような言葉であると思うのです。

 人間の幸せ、幸いを語る主イエスの言葉です。どういう人間が幸せな人間なのか?私たちが、心や、貧しさというここに語られる二つの言葉を主題としてその幸せを思い巡らすとき、私たちがそこで納得する幸せは次のようなものではないかと思います。

 一つ目は、経済的に豊かなものは幸せであるという考えです。ある統計によると日本に住む場合、年収が800万円まで、総資産が1億円まで、人間の幸福度はどんどん上がっていくと言います。面白いことに、それを超えると幸福度は特段上昇しなくなるそうですが、そこまでは一般的に言って、自分が幸せだという気持ちは上昇していくと言います。だから、ごく単純に言って、経済的に豊かならば、幸福だと思えるというのは、多くの人間が、赤裸々に、あるいは暗黙裡に認めるそれなりに納得のいく幸福の基準と言えます。

 次の幸福の組み合わせは、経済的豊かさとは、別のところにある幸せです。これも何か突拍子もないことではありません。たとえば、経済的には、貧困に属するブータンという国に生きる人々は、自分が幸せだと感じる割合で言えば、日本よりもずっと高いということが少し前に話題になったことがありました。実に、97パーセントの住民が、自分は幸せだと答えたと言います。経済的に豊かでなくても、心が平安であり、豊かであれば、それは、幸せの一つの在り方だと確かに言えると思います。

 そこで、改めて、私たちは主イエスの山上の説教の言葉に向き合うと、意表を突かれる思いがいたします。

 「心の貧しい人々は、幸いである。」

 私たちは恐らく、普通ならば、こういう風に変換して聞きがちなのです。経済的には貧しくとも、心が豊かであれば、幸いである。けれども、主イエスはそんなことは仰っていません。「心の貧しい人々は、幸いである」と仰っています。とても、ざらつく言葉です。簡単には飲み込めない言葉です。

 心の貧しさとはいったいなんであるのか?果たして、豊かな心の反対だと言って良いのだろうか?

 そこで、まずは心の豊かさを考えてみるのです。私たちの考える心の豊かさとは、色々な形が挙げられると思います。隣人愛に溢れる心、優しさに溢れる心、たとえば、人にどんな悪口を言われても、相手の心を慮り、きっとあの人には大変なことがあり、心に余裕がなかったのに違いないとそう考えることのできる心、隣人への共感力に富んでいて、人の痛みを自分の痛みのように考えることができる心、人の喜びを自分の喜びのように祝福できる嫉妬とは無縁の心。心が豊かであるというのはたとえば、こういうことであると思います。

 そして、心の貧しさとは、単純に考えてみるならば、たとえば、今、挙げたことの反対だと考えれば良いと思います。主イエスは、「心の貧しい人々は、幸いである」と仰いました。だから、これは、どんなに躓きの大きい言葉でしょうか?

 しかも、ここで言われている「心」とは、「霊」という風に訳しても良い箇所です。だから、物質的に貧しくとも、精神的な貧しさを抱えていても、霊の豊かさを表す信仰が豊かであれば、幸いだということですらないのです。 とにかく、問題となっているのは、豊かであることの幸いではなく、貧しさの幸いなのです。しかも、その貧しさとは徹底した貧しさです。ここで使われている貧しい者という言葉は、「物乞い」と訳しても良い言葉です。

 しかし、考えてみれば、この主イエスのお言葉は、主イエスという方の口から語られた言葉であることを考える時、これは少しも不思議ではないものだと言わないわけには参りません。ファリサイ派の人々が、罪人と食事を共にする主イエスに向かい、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、批判的に問うた時、主イエスは答えました。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであっていけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」心の貧しい者の幸いとは、罪人と食卓を共にされる主イエスが彼らの元に来てくださったという幸いです。 

 つまり、主イエスが幸いを語るのは、確かに貧しさのゆえに、自分と同じ貧しい者を食い物にして生きる者、神の助けを期待しないで自分だけが頼りだと生きている者、事実、そういう生活をしている者です。それが、主イエスがご自分の食卓に招かれた徴税人であり、罪人です。主は、天国はこのような者のものであると約束されるのです。

 そこで、ある説教者は、私たちの時代に生きる天国の約束された心の貧しい者の姿を具体的に次のように描き出して見せます。

 「新聞にひとりの男の顔を見たことがあります。テカテカに髪にポマードをなすりつけて、いくぶん前にうなだれて、二人の弁護士にはさまれて泣いている男の顔です。…(若い女性を)殺したと訴えられながら、証拠不十分で釈放された男です。ひどい環境の中で生きてきたひとりの人間です。テカテカにポマードをぬった男なんて、私たち教会に来ているキリスト者は、むしろ避けてしまうのが普通ではないでしょうか。そして証拠不十分であれば、私たちはますますそういう人間に対する疑いの思いを深くするだけです。しかし、神はこのような人間のためにこの世に来てくださいました。そのような人間のかしらに罪のゆるしを置こうとしておられます。」

 また、こうも描き出します。

「ひげも剃らず、安っぽい酒の匂いをプンプンさせている男、それが天国の持ち主なのです!」

 「ひとりの法律の学生がおりました。彼は試験勉強をしている最中に、私にこう言ったものです。『やっぱり私はひどい馬鹿なんです。毎日毎日、夜遅くまで勉強しています。いったい何のためです。いつか化粧タイル張りの浴室、すてきな着物を着た妻、そして自動車を持ちたいため、だけなのです!』年月が過ぎて…この男に会いました。彼はアメリカ製の大型車を乗り回し、ゴルフに興じ、そして胃潰瘍を患っていました―『心の貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものだからである!』」。

 まだまだ、心の貧しい者のリストは続いていきます。世界中を好きなように旅をするけれども、ちっとも幸せではない大実業家の妻、シングルファザーとして、6人の幼い子供を育てなければならない男、この人は、誰も助けてくれない神は信じない、自分だけが頼りだと言っている人、教会に通っていたけれど、もう信仰を失いかけている一人の人。つまり、ここで主イエスが語っておられるのは、ルカによる福音書第15章に語られる有名なたとえ話の放蕩息子のことだということです。

 父親の財産の半分を生前贈与してもらい、早速家を飛び出し、放蕩の限りを尽くして、無一文で帰ってくる。父は、そのよれよれの襤褸布をまとっただけのような変わり果てた息子を迎えるために迎え入れる。天の父は、そういうお方だと主イエスは仰いました。

 ここでも、主イエスは、そのような者こそが、天国の跡継ぎだと仰るのです。私は、このような貧しい心と私たちが完全に無関係だということは決してないと思います。主イエスが、兄弟に馬鹿と言う者は、人殺しの罪を犯す者だと仰るとき、それは私たちの心の内にある、人を人とも思わず、自分の都合の悪い存在、自分の苦手な存在ができれば消えてなくなってほしい、死んでしまったって本当は構わないと思っている貧しい心が誰の内側にもあることに気付くようにと招かれたのだと思います。

 けれども、こうも言うことができます。そうだからと言って、私たちの中の多くの者は、こういう者で完全にあるというわけではもちろん決してない。私たちの思いはむしろ、自分の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないというものだと思うのです。

 私たちの心は、おそらくファリサイ派の人々によりよく似ているのです。ここ数日のニュースを見ながら、本当にそう思います。私たち自身の内側にもあるだろう心の奥底に隠れている貧しさではなく、本当にその貧しさが、現実になってしまった出来事を聴くと、自分との隔たりの方をむしろ大きく感じるものです。その時、自分は、放蕩息子の兄なんだとつくづく思います。

 主イエスのところに集まった、罪人を目の前にすれば、嫌悪感を覚えるファリサイ人です。私たちは、本当に、聖書を精神化して読んでしまうものなのだと思います。心が貧しい者に天国が約束されていると言われれば、心遜った謙遜な者こそ天国が与えられると、なぜだか、読み替えてしまう。そして、それは自分のことだと思う。

 自分はあの実業家のように、お金さえあれば幸せだなどと思っていませんし、あの犯罪者のように、人間を自分の好き放題に扱っていいものだなどと思ってはいません。日曜日外に遊びに行かずに、礼拝に欠かさず出席しています。なぜなら、私は、人間は自分一人で生きている者ではなく、あなたの助けなしに生きることはできない者と信じているからです。あなたの助けなしには生きられないと思っている心貧しき者とはこの私のことです。私は、この主イエスの御言葉を読むとき、そういう風に理解し、読んでいる自分がいることを思います。

 けれども、それによって、何をしてしまっているのか?主イエスが、祝福を告げられた本当に心の貧しい者の前に、天国の扉を閉めようとしているのではないかと思うのです。心貧しき者とは、神を侮辱し、必要としないものではない。心の底から神を飢え渇いて待ち望んでいる者ではないかと。

 しかし、考えてみれば、ここにこそ、私たちの心の貧しさが浮き彫りになっているのではないかと思うのです。つまり、人を押しのけて金を愛する心、人を殺してでも自分の欲求を満たしたい心、酒を飲んで紛らわすことしかできない心、買い物依存症になっても満たされない心、神を信じられなくなってしまった心、それらが確かに貧しい心であるように、罪人、徴税人にそっくりな人が、教会に入り込んでくることを喜ぶことができない心も貧しい心ではないか?

 だとすれば、私たちは、自分が考える貧しい心に自分が当てはまるかどうかということに一喜一憂などする必要はないし、天国の約束された心の貧しさを自分のものにするために、心の貧しさとは、謙遜な心と読み変える必要はないのだと思います。そんなことしなくとも、私たちの心は、十分貧しいのです。

 私たちは、この言葉をまっすぐに読むならば、自分とは異質な人を受け入れない心を厳しく指摘されているということに気付かないわけにはいきません。

 私たちのある者の内には、神を神としない貧しい心があり、また私たちのある者の内には、人を人ともしない貧しい心がある。しかも、どちらも一面的ではなく、それぞれが、それぞれの仕方で、そのような貧しい心を抱えていることを認めないわけにはいかないのです。

 けれども、「心の貧しい人々は幸いである。天国はその人たちのものである。」

 ここにいる弟息子にも、兄息子にも、この教会の外にいる弟息子にも、兄息子にも、誰一人例外なく、貧しい心の者に天国の跡継ぎの約束が与えられています。今月、2017年の10月は、ルターの宗教改革から500年にあたる記念の年の記念の月です。

 ルターという人が、ヴィッテンベルク城の城門に、95か条の提題という免罪符、贖宥状を批判する文章を公開した時、その第一のテーゼにはこのように記されていました。

 「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めなさい…」と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」

 私は、最近、この言葉をよく思い巡らしています。私たちがその全生涯を悔い改めに費やすというのは、あまりにも、暗いものではないだろうか?常に、自責の念に囚われ続けることではないだろうか?

 けれども、これは全く暗い生き方、いつも心が攻め続けられているような生き方を生み出すのではないと思うようになりました。

 「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである。」

 私は思います。天国の住民こそが、本当に悔い改めることができるのだろうと。天国の跡継ぎであることを確信するならば、そこで、初めて本当の悔い改めが起こると思うのです。罪を攻め続けられるものは決してその罪を認めることができないでしょう。ただ、赦された者だけが、自分の罪を本当に認めることができるでしょう。それは、単純に真実だと思うのです。

 その時、全生涯における私たちに対する悔い改めの迫りとは、何度でも立ち上がれるという良い知らせ以外の何物でもないと思います。キリストにある裁きの言葉は、これは本当のことですが、即、恵みの言葉以外には聞けないのです。赦しに覆われた裁きの言葉です。

 私たちはそれぞれにどんな心の貧しさの中にあっても、キリストによってその貧しさを赦していただき罪覆われた者として、天の国を受け継ぐという将来の確実なキリストのゆえの約束に基づいて、自分の陥っている罪から立ち上がることができるのです。

 著名な説教者、ヘルムート・ゴルヴィッツァーは、今日私たちが聴いているマタイによる福音書5:3を、クリスマスの説教として説き明かしながら、こう言いました。

 「私たちは、驚くべき贈物を授けられている者である。その大いなる贈物を歓迎して喜び、その喜びのゆえに今度はすべての人に私たちの喜びを告げ示し、同じ喜びにあずかるように手を差しのべ、贈物を授けられた者として贈物をする者にならねばならない。まさしくここから、クリスマス・プレゼントの習慣が生まれた。」

 私たちの心の貧しさがどれほどのものであり、どのような形を持ったものであったとしても、天国は心の貧しい者たちのものであります。それは、本当に私たちは、赦しに生きることができるということです。私たちはどんな者であっても、生きていて良い。私自身も、私の隣人も、キリストにある神は、その存在を否定されることはあり得ないのです。

 キリストが、私たち人間の貧しさをご自身の十字架として担ってくださり、代わりに、心貧しき者を神の子とし、天国の相続人とされたからです。

 罪赦された者として、既に、天国の約束を頂いた者として、だから、何度でも私たちは、悔い改めることができます。赦しを受け取ったものだから、天国の跡継ぎとされているから、悔い改めることができます。その悔い改めは、言うまでもないことですが、ただ、心の問題に留まらないでしょう。たとえば、具体的に、神が下さった赦しと、そして神が下さった富を分け合うという形を取るのだと思います。それが既に与えられたキリストの贈物への小さな応答として受け止めて頂けますし、この世に神の義を映し出すものとして用いられるのだと思います。教会は赦しに立ち、赦しを告げ合う赦しの共同体です。

 私たちの身に既に起きたその出来事により、何かが生まれないはずはないのです。何かが起こらないはずはないのです。