造り上げるための言葉

9月5日 コリントの信徒への手紙Ⅱ12章19節から21節

 今日、私たちに与えられた聖書の言葉は、教会に託された神さまの言葉が、どういう種類の言葉であるか、はっきりと語っている言葉だと思います。神より召された奉仕者、協力者として、使徒パウロが語り続けてきた言葉は、いついかなる時にも、19節後半「すべてはあなたがたを造り上げるため」だと言います。

 パウロの言葉、それはイエス・キリストの福音を告げる言葉ですが、それは人と教会を造り上げるために語られる言葉です。人を壊す言葉ではありません。教会を壊す言葉ではありません。滅ぼす言葉ではなく、造り上げて生かす言葉です。

 当たり前と言えば、当たり前のことです。教会に託されているただ一つの使命は、全ての者に向かって、イエス・キリストの出来事を語ることです。

 「イエス・キリストの十字架の死とご復活によって、私たちは救われた。」この知らせを、教会は福音と呼んできました。祝福の音、良き報せ、福音です。それは祝福の音ですから、滅ぼす言葉ではなく、当然、造り上げるための言葉です。

 私はこの知らせが人を造り上げることを、実感した経験があります。

 教会は、齢を重ね施設で暮らすようになった、教会の友を、しばしば訪問いたします。そこで聖餐を囲んだ小さな礼拝を捧げます。中には、齢を重ね、記憶が壊れ、イエス様のことを忘れてしまったかのような仲間を訪ねることがあります。

 牧師になりたての頃、そういう方を訪問するとき、自分が準備してきた福音の説教が伝わるのか、いつもドキドキしていたことを思い出します。なるべく簡単な言葉で準備し、神さま、助けてくださいという思いで、小さな礼拝を捧げます。

 ある時、こう語りました。「福音と言うのは、福が来たということです。祝福のイエスさまが、ここに来られました。」

 すると、そこで暮らす教会の友がぱっと立ち上がり、両手をひらひらさせながら、言いました。「皆さん、福が来ました。ここに福が来ましたよ。」と。グループホームの皆さんが過ごすリビングの一隅を借りて、礼拝を捧げていました。共に暮らすお仲間に向かって、顔をほころばせて、「福が来た」と、呼びかけだされたのです。ご自分がどこで暮らしているかも定かではないのに、福音の喜びに満たされ、福音を隣人に告げる者とされました。

 またこういうこともありました。別の方ですが、施設にお訪ねした時、礼拝を始める前に、こう仰っていました。「私は大仏の娘だ。私は小さな頃から大仏の娘だ。」その方と親しく教会生活を送っていた同行者は、その言葉を聞きながら、少し悲しい顔をしていました。

 しかし、聖餐礼拝を終えた直後、自分は大仏の娘だと言い張っていたその方が、目をキラキラと輝かせて、「ああ、私は神さまの子どもであることを、今、思い出しました」と、仰いました。その言葉もまた、御自分だけでなく、同行の友を慰める祝福の言葉となりました。

 不思議なことです。しかし、福音の言葉は壊す言葉ではなく、聞く者、語る者を造る言葉、生かす言葉だなと、実体験として私の心に深く刻んだ二つの経験でした。

 イエス・キリストの出来事、福音の言葉は、造り上げる言葉、壊れて行こうとするものをも、造り直してくださる言葉だと、そう思いました。福音の言葉は、造る言葉、生かす言葉、癒す言葉です。

 使徒だけでなく、主イエスご自身も仰いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)。主イエスというお方は、ご自分の使命を、壊れている者、病んでいる者、罪人を、癒し、救うことと定めていらっしゃいます。私たちを滅ぼすのではなく、生かすために、全身全霊を傾けられます。そのために、天より地へと送られたのです。

 このような使命を神の御子が、ご自分の使命としてくださっているということは、何と嬉しいことかと思います。イエス・キリストの一挙手一投足、その言葉の一つ一つが、私たちを壊すのではなく、造り上げるための言葉であるというのは、ありがたいことです。

 そうであるならば、いつまでもそのお方の言葉を聞いていたい、その方のなさる一挙手一投足を見逃すまいと、じっと耳をそばだて、目を凝らすと思います。具体的には、私たち人間を造り上げようとされた神さまの出来事であるイエス様の出来事を証しする聖書を大切に読んでいきます。

 ところがそこで、私たちは、私たち人間と、イエス様の思いがけない関係性に突き当たります。その言葉の全てと、その一挙手一投足をもって、私たち人間を造り上げるために、来られたこのお方を、私たち人間は喜んで受け入れなかったのです。

 最終的には、このお方のことが全然気に入らなかったのです。その為さること、その語ることが、最終的には気に入らなかったのです。

 どうして?と思います。私たちのことをこれほど思ってくださる方の何が気に入らないのか?と、今の私たちは、聖書に記録されたファリサイ派や律法学者、そして弟子たちの態度を見て、思います。

 けれども、確かに聖書の歴史的記録は、このお方の一番の理解者であり、フォロワーであった人間さえ、最終的には「そんな人は知らない」と切り捨てたと告げます。

 なぜでしょうか?イエス様の語る言葉と、為さる行動の一つ一つが、自分を造り上げるもの、教会を造り上げるものとは、全然思えなかったからです。

 主イエス・キリストの福音が自分を壊すもの、神の民を滅ぼしてしまうものに思えたからです。

 これはいちいち聖書から実例を引っ張り出してみるまでもないでしょう。イエス・キリストの福音に出会った時に起きてしまう私たち人間の強い反感、反抗というのは、もはや、福音の物語の取り除くことのできない一部となってしまっているからです。

 イエス・キリストの福音が語られるところ、イエス・キリストと私たちが出会うところ、そこでは、必ず、人間の反発が起こるのだと、四つの福音書が伝えています。

 教会は、この主イエス・キリストの福音を述べ伝えるために存在する群れです。このイエス・キリストの福音を告げようとするパウロです。

 パウロもまた壊すためではなく、造り上げるために語るのです。神に召された神の協力者として、主イエスの業に従ってまいります。

 しかし、協力者もまた、指導者と同じ反応にぶつからざるを得ません。

 20節でパウロは言います。「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待通りの者ではない、ということにならないだろうか。」

 造り上げるための言葉、祝福の報せ、和解の言葉、とても心地の良い言葉です。期待を持たせる言葉です。

 イエス・キリストの福音は、どんなに優しい言葉だろうか?どんなに勇気づけられる言葉だろうか?どんなに自信を与えてくれる言葉だろうか?

 私たちは、期待します。しかし、その福音が使徒によって人間に向かって語られるとき、聴く者はがっかりいたします。傷つけられたと感じます。壊されたと感じます。

 なぜならば、21節のパウロの言葉からわかるように、イエス・キリストの福音が告げられるところでは、私たちに「悔い改め」が求められるからです。

 私たちを造ろうとするイエス・キリストの福音、教会を造り上げようとするパウロの言葉の中には、「私たちは悔い改めなければならない罪人だ」という言葉が必ず混ざっているのです。

 福音、良き知らせと言われているのに、自分の罪を認め、悔い改めよと迫られる。このことを自分のこととして聴いた人は、当然、自分の正しさを手放せと迫られます。もっとはっきり言ってしまえば、あなたは間違っていると聴かされるのです。造り上げる言葉ではなく、壊す言葉に聞こえるのです。福音は、その語感から私たちが期待するような、期待通りの言葉ではないのです。

 私たちは福音の言葉、人を造り上げる言葉と言うからには、おそらく、こういう言葉が聞けることを期待しているのではないでしょうか。

 人間だから弱いところがあるよね。一所懸命生きているけど、争ったり、ねたんだり、怒ったり、気兼ねなく悪口を言い合える仲良しグループを欲しがったり、あの人よりはちゃんとしていると言って安心したかったり、心の不安定さで周りに迷惑をかけたり、人間だからしょうがないよね。神さまは、あなたの頑張りと共に、そういう弱さもご存じだよ。あなたのことを悪い者じゃないと言ってくださるよ。だから、安心して良いんだ。

 こんな言葉、ぜひ、毎日聴きたいものです。こういう福音だったら、誰も苛立ちません。誰もイエス様を十字架につけて殺そうとしません。少なくとも、最後まで、イエス様を見捨てなかった人はいたと思います。

 でも、主イエスの福音はこういうものではありませんでした。使徒の宣教の言葉というのは、こういうものではありませんでした。

 私たちは、悔い改めなければならない罪人だと語るのです。あなたの忌むべき行いを悔い改めよと、生き方の方向転換を求めるのです。

 それのどこが福音なのでしょうか?それのどこが人を造り上げる言葉であり、イエス・キリストの出来事は人を造り上げる出来事なのでしょうか?

 21節の始めと終わりに、伝道者パウロのこんな言葉があります。

 「再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。」また、「悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。」

 この二つの言葉を読みますと、悔い改めを迫る福音伝道者パウロの心は、その言葉の聴き手と、一つのものになってしまっていることに気付かされます。

 パウロと聞き手は、裁きの言葉を含んだ福音を語る者と、その福音を期待外れの福音として聴くことのできない者として、お互いがお互いにとって期待外れだと表面的には対立しています。しかし、もっと深い部分では、パウロの心は、その人たちにしっかりと結びついてしまっています。

 あなたがたがイエス・キリストの福音を拒否するとき、あなたがた以上に、私が神の御前で面目を失うんだ。自分の罪を悲しむこともできないあなたがたであるが、私は、悲しくてたまらなくなるんだ、、、と。

 嫌われても、神さまに託された言葉を語らなければならない。でも、その言葉を聞いて反発する者の姿を自分のことのように悲しんでしまう。

 まるで親のようなパウロです。「あなたの語ることなんて知らない」と言われているのに、「じゃあ、お前たちのことなんて知らない」と言えないのです。彼が想定していることが起きることを、誰よりも、心配し、恐れているのです。

 しかし、これは、パウロがいい人であるとか、優しい人であるとか、彼の個性によるものではないでしょう。パウロの語る言葉、それは、19節を見れば、「キリストに結ばれて」語っている言葉なのです。

 まさに、この言葉通り、福音の言葉を拒否する者に取って代わって神の御前に自分が恥じ入る身代わりの恥、悔い改めを拒否する者に成り代わって、神の御前に嘆き悲しむその悲しみは、疑いなく、イエス・キリストご自身のものでした。

 ここにこそ、裁きの言葉を含む福音が、ただの甘い言葉ではなく、本当の意味で人を造り上げ、生かす言葉である秘密があります。

 このような使徒パウロの聴く者と一つとなってしまった心から透けて見えてくるのは、私たちの罪が露わにされる時、ただ私たちを責めるのではなく、自分はちっとも悪くないのに、一緒になって、罪を被り、責めを負ってくださるイエス・キリストです。

 いいえ、私たちが自分の罪を認められず、そこから逃げ出す時、私の代わりにその裁きの場に踏みとどまり、私の代わりに一人で、裁かれてくださったイエス・キリストのお姿です。

 そういう方がおられる。私のために、そういう方が存在する。これこそが福音です。甘い言葉ばかりを語らなくとも、決して私たちを見捨てないのです。私たちと一つなのです。

 はっきり申しますが、教会の語る福音とは、罪赦されるとか、永遠の命を頂けるとか、良い人間に成長できるとか、そういうことではありません。

 こういうイエス・キリストがおられるということ自体が福音です。イエス・キリスト、イコール福音です。

 罪赦されるとか、永遠の命を頂けるとか、良い人間に成長できるとか、そんなことは、イエス・キリスト、この人間が、この神が、私たちのためにおられる、私たちの真の兄弟であり、友であられるということに比べたら、ほんのささいなことでしかないと私には思えます。

 もちろん、それらの恵みを否定する必要はありません。けれども、私は、私たちキリスト者が、イエス・キリストを見ないで、その方がくださる宝ばかり数え、それが福音の至宝であるかのように錯覚していることに我慢がなりません。イエス様こそが、福音そのものです。

 私たちにもまた、悔い改めが求められていると思います。信仰の刷新が求められていると思います。

 もしも、信仰のもたらす賜物や利益を数えることではなく、また自分の罪を数えることでもなく、ただひたすら主イエスを見つめて行くならば、私たちは福音の中に響く裁きの言葉をも、福音として聴けるようになるでしょう。

 なぜならば、どんな言葉を聞くときも、イエス様が、どこまでもイエス様でいてくださるから、このイエスさまとの一体の中に私たちは置かれているからです。逆に言えば、イエス様がいてくださらなければ、罪の赦しも、永遠の命も、良い人間に成長していくことも、何ら神のくださる良い知らせなどではありません。そんな福音は、教会の外にいくらでも転がっています。

 キリストにあって、神に愛されている皆さん、ただこのお方がいてくださることが嬉しいから、喜ばしいから、何度でも本当に自分の罪を悔い改めることのできる人間、目を覚まして、何度でもイエス様を喜ぶ喜びに気付き直す人間、これがこの福音自身、つまり、イエス様が造り上げようとしておられる皆さんの姿、本当の私たち金沢元町教会の姿です。

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