牧師室だよりNo.68

牧師室だより№68

今日から待降節が始まります。教会暦では、一年のスタートですが、私たちの日常の感覚では、もう一年も終わりという思いです。

一年を振り返れば、心が重くなることばかりが思い起こされてくるかもしれません。先週の水曜日、三年ぶりに対面で開催された石川地区信徒大会の後半では、それぞれの教会が伝道の課題を分かち合うという趣旨で、短い報告を持つことになっていましたが、半分以上の教会が伝道の課題を分かち合うよりもコロナ三年目の苦しい現状を吐露するようなものとなりました。

「我らを試みにあわせず悪より救いいだしたまえ」という主の祈りの言葉を祈らずにはおれない思いにさせられました。けれども、既に、そのように祈れるということが、私たち教会に与えられている大きな大きな恵みであることに気付かされます。

前世紀の暗い時代に、「私たちは時の間を生きている」という言葉が、盛んに教会で口にされた時期がありました。「時の間」とは、主イエスの最初の到来の時と、主イエスの再臨の時の間の時代を表す言葉です。その言葉に含まれているニュアンスは、一つには、神の御支配がはっきりとは見えない時代を教会は歩んでいるということであると思います。

けれども、私たちは孤独ではありません。私たちが祈れる、祈って良いということも、この時の間に与えられていることです。祈れる、祈って良いということは、目にははっきりとは見えずとも、神が私たちと共にいてくださる。終末前には、解決不可能な課題に直面しながらも、打ち叩くことのできる父の胸が私たちには向けられているということです。

求道者の方と一緒に読もうかと思案している本の中に、こういう一節がありました。「キリスト教に入るとは、祈り始めることであります。…世界の根源が人格的な絶対者であるということの発見は、世界を神と人間の交わりの舞台として神に備えられているという認識をもたらし、そしてそこに神と共に生きる勇気を心の中に惹き起こすのであります。」

大きな大きな課題の前にあっても、私たちは孤独ではない。祈って良い。ここに信仰があります。

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