牧師室だより No.61

 2月は、たくさんの雪が降りました。全国各地からご心配のご連絡を頂き、またその中で、「毎日祈ってます」とある方からメールをいただき、大きな励ましを得ました。毎日祈られているということはすごいことだと思います。毎日の慌ただしさの中で、つい忘れてしまっていますが、落ち着いて考えてみると、自分はいつも、あの人、この人の毎日の祈りの内に覚えられているだろうなと思える方が、幾人も思い起こされます。牧師の内にも、信徒の内にも、私のために今日も祈っていてくれる人がいると、確信することが許されています。それが私を力づけてくれます。自分もそんな人間になりたいと思います。時に私たちは、何でも一人で問題に対処しているつもりになることがありますが、見えない所で、なんとたくさんの人に支えられ、それによって立つことができていることでしょうか?ふとしたきっかけでそのことに気付かされる時、驚き、自分の無知を恥じると共に、心暖められ、嬉しくなり、元気が湧いてきます。祈りは、小さな奉仕ではないと思います。祈りは大きな力です。しかも、執り成しの祈り、隣人が私のために捧げてくれる執り成しの祈りは、かけがえのないもの、私たちを生かす力となります。祈りは人に聞かせるものではありません。ただ、神を相手にするものです。けれども、「毎日、あなたのために祈ってます」という一言、また、ふとしたきっかけで知られるその事実は、祈られている者を必ず勇気付けるものだと思います。毎晩、自分のために祈る母の姿から、信仰に至ったという証は、一つや二つではありません。祈る者の姿を通して、祈られる者は、その先の神のお姿に出会うのです。

 この執り成しの祈りは、広がる祈りです。家族のため、友人のために留まりません。地域のため、金沢のため、日本のため、アジアのため、世界のため、執り成しの祈りは広がっていきます。世界の反対で自分たちのために毎日祈ってくれている人がいるという事実は、祈る者以上に、祈られる者にとって決して小さなことではありません。大きな励ましです。祈りは事実として無力ではないのです。

 

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