和解の使者として生きる

2月7日コリントの信徒への手紙Ⅱ5章11節から21節まで

「わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと願います。」この言葉の前に立ち止まりじっくり反芻してみますと、なんだかとても現代的な願いであるように思えてきます。「わたしは、あなた方の良心にありのままに知られたいんだ。」良心という言葉の元になっているギリシア語は、意識とか、自覚という意味もありますから、「わたしは、あなた方に意識的に、自覚的に、はっきりと、ありのままに知られたいのだ」と言っていると、ひとまずは採って良いと思います。

 私たちは、誰に対しても、ありのままの自分で、自分の本音のすべてで、ぶつかっていくわけではありません。当たり障りのない対応を心がけるということが、しばしばあります。本音のありのままの自分として知られるよりも、見せたい自分を、それなりに演出しながら、人と接しているというところが誰しもあると思います。その意味では、私たちは、誰に対しても、ありのままに知られたいと願っているわけではないことになりそうです。

 しかし、もう一歩踏み込んで考えると、なぜ、私たちが自分をありのまま人前に差し出すことをしないかと言えば、二つの理由があると思います。一つは、誤解されてしまうことを恐れているからだと思います。ありのままの自分の心というのは、少々ぶっきらぼうな所があります。少々朴訥とし過ぎるようなところがあります。それをそのまま真っ直ぐに表現すると、誰かを軽んじたり、傷つけようという意図は一切持っていないとしても、場の空気や、TPOをいうフィルターを通す前のままでは、聴く人、受け止める人に、誤解されてしまうかもしれないという恐れから、そのまま差し出せないのだと思います。ありのままの正直な自分の気持ちをそのままに伝えることによって、むしろ、誤解され、真意が伝わらなくなってしまう。表面的な武骨さ、率直さばかりに目を止められ、むしろ、批判が潜んでいるのではないかと、誤解されてしまう。そうであれば、率直な気持ちなど表明せず、常に曖昧に、のらりくらりとしていた方がいいのです。けれども、もしも、誤解なく真っ直ぐに伝わるのならば、お互いを隔てているややこしい誤解がなくなり、ありのままに知り、知られる本当の人間関係に生きられたら、どんなに嬉しいことでしょうか。

 しかし、もう一つ私たちが自分が他者よりありのままに知られることを恐れる思いがあります。それは、誤解されることの恐れとは全く逆に、もしも、ありのままの自分が知られてしまうならば、人に嫌われ、拒否されるに違いない、誰にも受け入れてはもらえないと思うから、知られるわけにはいかないという思いもあるのではないでしょうか?私たちは、自分のことをよくわかってくれていて、自分の語った言葉と、なした行動を誤解することなく、きちんと理解してくれる良き理解者である人を、持つことがあると思います。配偶者であったり、無二の親友であったり、その人の前では、細かく丁寧に、気を遣って伝えなくても、率直でも、朴訥としていても、多くを語らずとも、誤解されずにわかってくれるという存在を持つことがあります。

 けれども、誤解せずにわかってくれる人、過大にも、過小にも評価することなく、私たちの等身大の姿を見せることができる関係を築くことができる相手に幸運にも生涯の内に出会ったとしても、やっぱり、自分の心に思い浮かんでいるありのままのすべての思いを、晒け出すことは難しいのではないかと思います。なぜかというと、飾ることのないありのままの自分というのは、必ずしも、善いものではないからです。

 近年、マインドフルネスという言葉を、よく聞くようになりました。禅宗の座禅のあり方を取り入れたありのままの自分になるための瞑想の方法として、一般的に広がりつつあるようです。色々なやり方があるでしょうが、一つ大切なことは、目を閉じて自分の呼吸に集中することのようです。自分の体に聞く。自分の心に聞く。今この時の自分の体の状態、心の状態を見つめ直すのです。24時間365日、煌々と光が照っている都市部での不自然な生活を送ることに、動物としての人間の心と体が悲鳴を上げているのかもしれません。自分の生活の中で、心と体を持った存在であることに気づこうとマインドフルネスを実践する人は多いのです。

 けれども、心と体の声に正直に耳を澄まして聞いて、ありのままの自分になって行動していれば、それで済むのか?むしろ、自分のありのままの声というのは、利己的で、自己満足的で、人間的とはとても呼べない獣のような声を含んでいるのではないでしょうか?

 ある著名な哲学者は、「本当の自分」というタイトルでエッセイを書くように求められたとき、本当の自分なんて怖くて自分でさえ見られないと言いました。本当の自分というのは、これが自分と思っている自分のもっともっと下の方にいて、暗闇の中を這いずり回る獣たちと一緒に蠢いているようなもののことではないか、そんなものは恐ろしくて見ることはできないと言いました。それゆえ、私たちは、ありのままに自分が知られてしまうことなど、望んでいないとも言えます。

 けれども、この場合もまた、本当は別の願いがあるのだと思います。それは、自分でも受け止めることが難しいありのままの自分を、本当はそのままで受け入れてもらいたいのです。だから、11節の後半の言葉は、そのまま私たちの心の奥底の願いを語っているようで、現代的に感じるわけですが、パウロがこう語っているというのは、現代的な願いというよりも、昔も今も変わらずに、私たち人間の持つ本質的な願いなのかなと思わされます。

 しかし、そこで、私たちとの距離を感じてしまうことは、パウロの場合は、「わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたい」と願う時、それほど、葛藤を感じているようには見えないところです。知られたいけど知られたくない。知られたら、誤解されてしまうとか、知られたら嫌われてしまうとか、悩んでいるようには見えないところです。むしろ、彼は、自分の「ありのままにあなた方に知られたい」という言葉が、自己推薦の言葉に聞こえてしまうかもしれないとさえ言います。

 これは、一つには、鼻高々の高慢に聞こえるかもしれないという誤解を恐れる言葉とも言えるかもしれませんが、逆に言えば、パウロ自身が見るありのままの自分というのは、ありのままのパウロを見た人が、自慢していると見えるほどに、自分に自信があったのだという風にも、考えられそうです。それこそが、私たちとの一番の隔たりのように感じられるところです。

 ここでパウロは、パウロのことをつまらない人間だ、不完全な使徒だと批判して、パウロを卒業し、大使徒を自称する人々の指導に服そうとするコリント教会員に向かって、「あなたがたにありのままに知られたい」と言っています。ありのままの私を知ったならば、あなた方は、内面ではなく、外面を誇っている大使徒に応じられるようになる。パウロとその一行のことをこそ誇りに思うようになるとまで言うのです。これは、牧師である私が教会員の皆さんに向かって、「皆さんが見たいように見ている大澤ではなくて、私のありのままを誤解なく知るようになったら、私がこの教会の牧師であることが誇らしくてたまらなくなるでしょう」と言っていることになりますから、なかなかすごいことを言ってしまっているわけです。だから、「自己推薦をしようというのではありません」と、言わなければならないのですが、それを聞いても、自己推薦しているだろうと、言いたくなりそうですね。それは、パウロ自身も自分のこの言葉がどれほど、聞く人の心をざわつかせることになるのか?誤解を招くのか?混乱さえ引き起こしてしまうかもしれないと思っているのだということは、13節で、「わたしたちが正気でないとするなら・・・」という言葉の中に示唆されていると思います。

 欠けや弱点を抱えたつまらない土の器の伝道者だけれども、そういうありのままの自分をできることなら受け入れてほしいというような、謙遜な言葉ではないのです。弱みを見せるパウロにならば、好感を抱き、こんな正直な人からこそ、福音の説教を聞きたいものだと万一思うかもしれません。でも、パウロは、「ありのままの自分を知れば、私があなた方のための使徒であることをあなた方は誇らしく思う。正気でないような言葉に聞こえるかもしれないが、これを受けいれることは、あなた方のためになる」と言うのです。なかなか簡単には飲み込めないような、言葉が続いているのです。

 やはり、ここで問題となってくるのは、結局パウロのありのままの姿っていうのはどういうものなんだということでしょう。それを知ったらコリント教会の人々が誇らしくなってしまうようなパウロのありのまま。この言葉の背後には、先ほども少しだけ触れましたが、コリント教会を建てたパウロと、パウロが去った後に、やってきて教会を指導した自称偉大な使徒達のどちらの言葉を聞くのかというコリント教会の中の綱引きがあります。それもパウロがだいぶ分が悪いのです。なんで分が悪いかと言えば、パウロは、自分のことを使徒の中でも、一番小さな者だと言っていたからです。自分は弱く貧しく取るに足りない者で、ただ神の憐みによって、使徒とされているに過ぎないと公言していたからです。けれども、パウロが去った後にやってきた人たちは、自分たちは大使徒だと言ったのです。推薦状を携えた正当な使徒だと言ったのです。それで、パウロの宣べ伝えた信仰の初歩を卒業して、霊的人間として成長していく次のステップを教えようと言ったのです。彼らは事実、見た目も、話しぶりも、風采の上がらぬパウロよりもよほど立派だったようです。人を惹きつけるものを持っていたのです。このような分の悪い状況において、パウロはある時には、彼ら大使徒に比べて決して見劣りのすることのない立派な人間的な条件を満たしていることをあえて主張することがありました。第Ⅱコリント書では、やがて読みます第11章で、自分の人間的な誇りについて語りますし、有名なところでは、フィリピ書の第3章で、人間的な観点における自分の非の打ちどころのなさということを語ります。しかし、それらの個所と同じように、今日の個所で、コリント教会員が誇れる初代牧師パウロの優れた点を、包み隠さず教えるからありのままに知ってほしいということではないようです。やがて学ぶ第11章にも、またフィリピ書第3章にも共通していることですが、パウロが、そのような人と比べて見劣りするところのない自分のプロフィールを語るときというのは、いつでも、恥ずかしさが伴っています。ちり芥に等しい愚かな点を数え上げる愚かな行為だと言わずにはおれません。たとえ、大使徒と比べて見劣りするところがないとしても、パウロは、そんな自分の華々しいプロフィールの部分をコリント教会員に自慢に思ってほしいとは全く考えません。誰それから指導を受けたとか、どこそこ神学校を卒業したとか、何々教会の牧師であるとか、うちの先生は、本を何冊出したとか、どういう苦労を重ねてきたとか、そういうことは、誇りにならない。

 コリント教会の人々が、ありのままを知って誇りにすることができるというパウロのありのままというのは、11節の前半によれば、「神にありのままに知られている」パウロのことです。つまり、神が知ってくださるように、あなた方が私のことを知れば、あなたがたは私のことを喜ばずにはおれない、誇らずにはおれないと言っているのです。それでは、神さまがどういう風にパウロのことを知っているかと言えば、それは、14-21節の間に、色々書いてあります。たとえば、新しく創造された者とか、神と和解した者とか、神の義を得ることができた者とか、神さまからそういう良い者として、知られているパウロの姿が浮かび上がってまいります。

 そしてそれは、パウロが好き勝手に言っていることではなくて、14,15節を見れば、キリストの出来事という確固とした証拠に基づいて言っていることだいうことがわかります。キリストが私たちのために死んでくださった。キリストの出来事を通して、私たちは神と和解させていただいた。キリストが私たちの罪の責任を引き受け、罪赦され、代わって私たちは義とされた。七尾教会の釜土達雄先生が一昨年の交換講壇にここに来て語られた教会学校での「神さまは、イエスさまより達雄ちゃんの方が大事だったのよ」と語られたという思い出話を忘れることができませんが、まさにキリストの十字架の出来事というのは、神さまにとって、私たちの命は、御子の命の重みを持つということなのです。

 だからパウロは言うんです。神さまが見ているように、ありのままに知っているように、あなたがたが私のことを知ってくれたら、私のことを誇りたくなって仕方なくなるだろうって。なぜって、イエスさまの命が込められた私だから、神さまが独り子の命と交換に罪より買い取られた私だから、この私は神さまの目にどんなに大切な者として見られているか?重んじられているか?実は、パウロが言っていることはそういうことです。

 そこで、これを聞いた人、ここまで聞いて理解した人は誰もが直ぐに気付くことですが、大切な独り子の命と交換してまで、神さまが失いたくない、大切だと言って、買い取られた者というのは、パウロだけじゃないんです。パウロ自身が誤解しようもなくしつこく言っていることですが、神の独り子イエス・キリストは、「すべての人のために死んでくださった」のです。パウロのためだけとは書いてないし、使徒たちのためとは書いてないし、信仰者のためだけとも書いていません。今日の所では、「すべての人のために死んでくださった」と書いてあります。だから、16節、「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。」と言います。コリント教会の人に、パウロのことだけをこの神のまなざしで見るようにと求めるのではなくて、「だれをも」です。すべての人を、この神の知り方によって知ろう。それが、本当の知り方、ありのままの人間の知り方なんだと言っているんです。私たちキリスト者は、私たち教会は、キリストの愛に駆り立てられて、牧師のことを見るんです。長老のことを見るんです。信徒のことを見るんです。教会の壁を越えて、家族のこと、友人のこと、お隣さんのこと、袖擦りあう人たちのこと、会うことのない遠い国の人たちのこと、もう死んでいってこの世にはいない人、まだ生まれていない未来の子どもたちのこと、すべての人のことを、キリストがその命を懸けて愛した、キリストの命の重みを持った、かけがえのない人間として見るのです。

 そして、この場合、今日の聖書箇所から教えられるもう一つ大切なことは、これは、肉に従わない見方、キリストの出来事において人間を見る見方だからと言って、人間の罪や欠けに目をつぶるということではないということです。むしろ、肉に従わずに、つまり、自分の感性によって、人を見ずに、福音のメガネ、神のまなざしで隣人のこと、自分のことを見たときこそ、はっきりと自分の罪の深み、人間の野蛮さが見えるかもしれません。今、反出生主義と言って、こんなに生きづらい世の中、罪深い人間の世界であるならば、生まれない方が良かった。人間は滅びた方が良いという哲学がにわかに若者の間に流行ってきているようですが、実は、聖書も同じように語る面があります。ヨブ記や、嘆きの詩編や、哀歌や、ユダへの主イエスの言葉や、いや、主イエス自身の十字架上の叫びを聞けば、聖書もまた、生まれてこない方が良かったと叫ばざるを得ない私たち人間の罪の現実、その罪が生み出す辛さを知っていると思います。

 けれども、パウロをありのままに知っていてくださるという神のまなざしというのは、自分でも見たくもないような下の下の方で蠢いている本当の私たちを見つめながら、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、主イエスが、丸ごと引き受けてくださった出来事に表れた神のまなざしです。これから先、どんなに罪深く情けない自分に出会ったとしても、主は、「何を今更言ってるんだ。私が十字架で引き受けたのは、まさにそのお前だ」と新しく仰ってくださるのです。

 北海道家庭学校という非行少年を集めた学校で校長を長く勤めた谷昌恒(たにまさつね)先生が、著書の中でこういうことを言っています。少し長いですが引用します。

「私たちは、自分がどんなに醜いか、卑しい、けちな人間にすぎないかを知っています。身のおきどころのない思いに責められることさえあるのです。それはまことに辛い苦しい自覚であります。絶対者の前に立たされて、自分がいかにみじめな存在であるかを知るのです。/しかし、同時に私たちは神に許されている、救われているという喜びを感じています。信仰者は、人々の想像を超えて、しぶとく、強く、勇気に満ちていることがあるのです。普通の人がへこたれても、参らないのです。希望を失わないのです。/深い慚愧と、強い信念と。反対の極にあると思われる二つのものが、信仰者の中に同居しているのです。…神の前に立たされて、まるのまま見すえられていると思う時、恥ずかしさと安堵とを同時に覚えるのです。私たちはそこに生きていく上での土台をおくのです。」

 これは教会で語られた言葉ではありません。他の施設ではどうしようもなくなって、家庭学校に集められてきた子供たちに向かって語ったのです。これが私が生きている土台であり、あなた方が生きていく上の土台でもあるんだ。まるのまま見すえられているんだ。そのまるのままの君たちが、赦され、受け入れられているのだ。

 今日の聖書箇所というのは、キリスト者の類まれなるアイデンティティーを語る言葉であると言えます。人々の想像を超えて、しぶとく、強く、勇気に満ち、普通の人がへこたれても参らない、そういう強さを生み出す神が与えてくださったキリスト者のアイデンティティーです。けれども、忘れることができないことは、このことを語るパウロの言葉は、その始めも終わりもまた半ばも、伝道ということが視野に入っているということです。11節では、「人々の説得に努め」と語られ、14節、15節では、「すべての人のため」のキリストの死であると語られ、18節以下では、まず私たちがこの和解を知らされた理由は、和解のための奉仕の任務を私たちに授けるためだと言うのです。

 私たちを力づける「私たちは神にありのままに知られ、赦されている」という事実は、私たち教会が独占するためのものではありません。教会を通して、いよいよ拡散するように、すべての人の現実となるようにと、その任務のために私たち教会は存在するのです。

 今から送り出されます一週間、私たちが誰かに直接この福音を告げる機会があるかないかはわかりません。けれども、少なくとも、見えるものが違ってくるということが起こらずにはおれません。私たちがこの一週間出会い、接するすべての人が一人の例外もなく、その者のためにキリストは死なれたのです。キリストの命が込められた人間である自分と隣人が造る世界が見えてきます。今から、この礼拝から押し出されて、そのような神の祝福の事実を見るまなざしと信仰に生きる者が、この地域に送り出されていき、それぞれの場で地の塩のように、世と溶け合って生きるのだと考えますと、私たちはとても嬉しく、とても頼もしく、とても誇らしく心弾むのです。

 

 

コメント

この記事へのコメントはありません。