人間の弱さと強さ

6月14日  マタイによる福音書 26章69節~75節

 朝晩の祈祷会が再開となりました。合わせて22名の参加がありました。長いひと月以上のお休みを経ても、祈祷会を慕い求める私たちの心は変わりませんでした。ペンテコステの礼拝の時もそうでした。わたしの予想を超えて、52名の方が、礼拝に集まりました。教会というのは、弱いようでいて強い。

 全国の牧師たちの間で話題になっていたことの一つは、このコロナ禍による自粛は、弱っている日本の教会にとって、致命的な打撃になるのではないかという心配でした。

 けれども、ふたを開けてみれば、私たちの信仰は、試練を通じて、かえって鍛えられつつあるということが、明らかになったのではないかと思います。

 私たちは、自分たちの教会の積極的な選択としてではなく、ほとんど強制的に、孤独な礼拝生活を、しばらくの間、強いられました。自室で一人、あるいは夫婦、親子二人で、礼拝を捧げました。誰に強制されるわけでもなく、誰の目を気にするわけでもなく、ただ、神さまに招かれて、その招きの促しだけを聞いて、礼拝生活を続けました。

 その試練を通して、私たちの信仰はそれ以前よりも、少し成長させられたのです。ルターが重んじた、一人神の前に立つ、信仰の側面を学び直したのです。他の誰でもないこの私の名を呼ぶ神の声を聴き、神の御前に立たされ、神と向き合う一個の人格とされた一人一人なのです。そのような一人一人が集められ、教会を造るのです。教会の信仰には、極めて太い輪郭線を持った個人という側面と、共同体という側面の二面があるのです。

 それは、私たちが先週聞いた通りの神さまのなさりようであると思います。

 私たちがこの方との関係を断とうとしても、神様は、キリストにおいて「あなたがわたしを捨てても、わたしはあなたを捨てない」と、ご自分に敵対する一人一人に、仰るのです。しかも、「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」と、誰一人例外なく、ご自分の出来事に巻き込まれていくと、仰ったのです。

 その神の決意が、ここに金沢元町教会を造り出し、私たちを礼拝者としています。

 しかも、それは何も、特別な時だけではありません。家庭礼拝推奨が開けた、最初の礼拝、5/31のペンテコステ礼拝でだけ、私たちをこの場に連れ戻す神さまの力が強く働いたというのではありません。

 毎週毎週、いや朝ごとに、私たちをご自分のものとして招かれる神さまの呼びかけがあるから神への信頼に目覚め、私たちは、今日一日信仰者であることができるのです。そのことを改めて、今日の聖書個所でも教えられます。

 今日与えられました御言葉は、たいへん有名な箇所で、多くの方の心に残っているものだと思います。

 主イエスが捕らえられ、裁判に引きずり出され、大祭司から処刑の判決が下される。その大祭司の中庭に、ひそかに、弟子のペトロが紛れ込んでいる。

 そこで、三度主を裏切るのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と胸を張って言い切ったペトロが、主イエスを激しく呪うのです。

 それは、主イエスのお言葉通りでした。「はっきり言っておく。あなたは今夜、この夜、鶏が鳴く前に、夜明け前に、三度わたしを知らないというだろう。」と仰った通りだったのです。

 私たちは、しばしばペトロを、熱血漢でありながら、いざというときに、頼りのない人のように考えることがあります。特に、今日の三度の裏切りの出来事を、思い浮かべながら、大事な場面で失敗してしまう、そういうペトロ像を描いているところがあります。

 けれども、今日のために読んだいくつかの説教や、参考書から、これは読み違いをしていたかもしれないと考えさせられました。というのは、ある人が指摘するには、ここはそれほど、劇的な場面ではなかったろうと言うのです。

 そこは大祭司の庭でした。つい先ほど、ユダヤ人の最高議会による主イエスの処刑が決める法廷となったところです。

 しかし、ペトロは、その裁判の席の主イエス側の証人として、そこにいたわけではありませんでした。夜中の裁判という異例の事態において、その夜陰に乗じて、そっと、見物人の内に紛れ込んでいただけです。

 けれども、そこで、不意打ちのように、一人の女中に、「お前さんも、あのガリラヤのイエスと一緒にいたろう。」と、尋ねられたのです。

 人と場所を少しづつ変えながらと、二度、三度と繰り返して。そしてその都度、激しさを増しながら、ペトロは、主との関わりを否定してしまうのです。

 このペトロの裏切りは、たしかに劇的な場面として描かれています。

 ペトロ自身も、この出来事を、重大なこととして捉えていたことは、外に出て、激しく泣いたという言葉からも明らかです。また、ペトロだけでなく、四つの福音書がすべて、この出来事を記したということは、最初期の教会にとって、すべてのキリスト者にとって、これが重大な出来事であったことを示しています。

 しかし、これはある説教者の指摘に沿って見返してみれば、なるほど、4人の福音書記者たちが、重大視した出来事であったとしても、主イエスの裁判の席と比べれば、本当に些細な会話に過ぎないと言わざるを得ないものであります。

 ペトロを問い質していたのは、兵士ではないのです。大祭司の手下でもないのです。まして、大祭司自身でもなかったのです。

 女中です。ペトロがそこに紛れ込めると考えた、当事者としてではなく、傍観者として、第三者として、興味本位でその場に集まってきた者の一人、数日前は、主イエスを歓呼の声でエルサレムに迎えた群れの中にひょっとしたらいたかもしれない、一人、二人の女中と、三人、四人のやじうま、そのような人たちに問われただけでした。

 だからそのことを指摘する人は、これは極めて日常的な会話のやり取りではないかとまで言います。

 そうであるかもしれません。別に、大祭司に中庭でなくても、この日からしばらくの間は、ガリラヤの訛りがあるだけで、「お前もナザレのイエスの仲間ではないか?」と冗談半分で尋ねられるようなことは、日常的な会話になったに違いないと思います。

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 だから、この会話を私たちが今まで思い描いていた以上に、ずっと日常的な普通の会話であったのではなかったかと、想像してみる人は、次のように言います。

 「イエスを主と告白するかどうかということは、決して彼が思い描いていたような衆人環視の華々しい舞台」で問われるようなことではなかったのだと。「それは、庭の片隅で無名の庶民の一人から『お前さんも、あのイエスのお弟子ではなかったのか』と、囁くように問われる」、日常的な出来事として起こったことだったと。

 裁判の席で処刑をちらつかされながら、詰問されるのではなく、無名の庶民から囁くように問われ、思わず、「そうではない」と、答えてしまった。しかし、その時、鶏が鳴きました。鶏が鳴くのを聞いて、ペトロは、愕然としたのではないか。そこにこそ、主イエスが見つめておられた人間が問われる本当の場所、また本当に弱い人間の姿があるからです。

 私たち信仰者が直面する主への裏切りというのは、踏み絵を前に置かれて、それを踏むかどうかという決定的な場面によって、試されるのではありません。

 裏切りというのは、公の裁判の席に引き出されるならば、自らの死を覚悟して、自分はキリストの弟子だと証言する一人の信仰者にも、起こることなのです。

 たとえば、そういう者が、殉教すらいとわない覚悟を決める間に訪れる本当につまらない瞬間に、起こるのです。

 決定的な信仰告白の場面の前の、取るに足りないことだと思われる人との何気ないやり取りの中で、交わされる会話の中で起こることなのです。そこで否定してもまだ、それは決定的瞬間ではないと思い込んでいる、取り返せると思い込んでいるその所で、思わずしてしまったその否定が、どうしようもないくらい、決定的な否定なのだということなのです。

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 鶏の鳴く声を聴いて、ペトロはそのことを悟った。四人の福音書記者たちは、最初の教会もまた、自分たち自身の姿を見た。

 そして、彼らと同じようにそのような自分を見なければ、私たちも本当の自分を見たことにはならないのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と胸を張って言えてしまえる間は、見るべきものが見えていないのです。

 つまり、信仰の決断とか、信仰の告白というものは、大祭司の前でのこの瞬間とか、裁判官の前でのこの時とか、私たちが決定的なこの時と身構えて準備するような時ではなくて、日常の無数の瞬間瞬間において、主イエスへの告白を問われていることだということなのでしょう。

 そしてそのような無数の瞬間に、問われるならば、私たちは、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう。」という主の御言葉の前に、「主よ、あなたが守ってくださるのでなければ、わたしはそのような薄情者に過ぎません。」という他ない者なのです。

 だからまた、別の人は、この聖書個所を読みながら、私たちは悔い改めが済んだ解決済みの何者かになってしまうのではなく、常に新しく神の前に罪人として立つのだと言いました。

 そして、自分の悔い改め、自分の信仰の服従を作り出すことのできない私たち、そこに手も足も出ないような私たちのことを、全てご存じの上で、十字架の道を選び取ってくださった主イエスの恵みに頼り切る他ないと私たちに呼びかけます。

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 詳しいことは言えませんが、私はかつてこの教会の方ではない、ある婦人とこういう話をしました。自分は最近大きな失敗をした。もう家族に顔向けできず、死にたいとさえ思ってしまうと。

 私はそこまではっきり申しませんでしたが、まあ、煎じ詰めれば、こういう趣旨のことをお話ししました。

 そんなこと、今更分かったんですか?主イエスの十字架が語るのはそういうことではないのですか?生きるに値しない我々が、生きることを望まれた主イエスのゆえに、十字架が立った。その方が、私たちを生かすために命を擲たれた、それが、我々の日々ではないですか?と。

 やはり、これは少し乱暴な言い方だったと思います。しかし、それは、厳しすぎるということでなしに、誰にとっても、主イエスの十字架の恵みはわかり切ったことにはなり切らないという意味で乱暴な言い方であったと思います。

 自分の罪深さと、神の恵みの深さというものは、いつでも、新しく今更わかるものなんです。20年キリスト者をしていようが、30年キリスト者をしていようが、たとえ牧師として、10年、20年、40年生きようが、毎朝その事実に打たれショックを受けてもちっともおかしくないほど、改めて新しくわかることなんです。わかり切るなんてありません。

 しかし、その都度分かるということは、その都度立ち直らせて頂いたということです。自分の罪を悟った者は、既に、その罪の奴隷ではないのです。キリストの僕として生きるのです。

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 今日は色々な説教者の言葉を引用するようですが、ある方から最近たまたま頂いた小さな冊子に3年前に石川地区信徒大会にもいらした小島誠志先生が、このペトロの否認について書いた文章が載っていて、たいへん感銘を受けました。

 小島先生は、ペトロの涙に注目して仰います。

 「ペトロは悔やんで泣いたのではありません。主イエスの憐みが心底わかって泣いたのです。罪人をどこまでも追い求める神の愛に圧倒されて、『激しく泣いた』のです。」

 よくわかりました。罪を知り、悔い改めることとは、後悔することではありません。自分の罪を嘆き、自責の念に生きることでもありません。罪を知り、悔い改めることとは、神の憐みに圧倒されることです。どんな自分であっても、自分は本当に生きて良い許可を与えられているということを、知り直すのです。ここにこそ、人間の再生があるのです。

 そして、それは、ただ一度きりのことではないし、裁判の席のような決定的な場面でのみ起こる特別な気付きではありません。

 日ごと、朝ごと、瞬間ごと、いつでも失敗と不信仰に落ちて、罪を忘れ、だから赦しを忘れて行きそうになる私たちに、日ごと、朝ごと、瞬間ごと、注がれ、立たせてくださる神の圧倒的な愛なのです。その神の愛ゆえに、私たちは弱いけれども、強いのです。

 

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神さま、

 あなたのくださる恵みに慣れ切ってしまうことがありませんように。

 今この時も私たちを生かす恵みに驚き続ける瑞々しい心を作り出してくださいます

 ように。

 かさぶたに覆われた頑なな心を、柔らかな肉の心とし、

 何度でも悔い改める自由を与え、

 あなたに対する、また隣人に対する

 しなやかな愛に生きることができますように。

 イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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