隠れている善行

今日は短く14節までを司式者に読んでいただきましたが、内容のまとまりで言えば、118節までを視野に入れて読むべき個所でもあります。

 

そこでは三つの行為が問題になっています。施し、祈り、そして断食です。三つ共に神に向けてなされる行為です。最初の施しだけは違うとお思いになるかもしれません。これは、貧しい者を物質によって助ける行為だからです。けれども、当時のユダヤの人々は、施しもまた、人に対してなす善行ではなく、信仰の行為だと考えました。神が貧しい者を助けることを喜んでくださるのです。だから、施し、祈り、断食、これらはすべて、神さまに喜んでいただくためになされる信仰の告白的行為だと信じていたのです。

 

ところが、これは罪人である人間らしいことであると思いますが、神さまに向かってなされるはずのこれらの信仰告白的行為が、人に向かってなされる危険があるということを主イエスは指摘されるのです。

 

2節に、「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはならない。」と言われています。

 

来週以降に取り上げることになる祈りも、断食にも同じ注意が促されています。祈るとき、人に見てもらおうと、大通りに立って祈ってはいけない。断食をするときには、いかにも食べてなくて苦しいですという顔つきをしてはいけないと主イエスは言われます。

 

祈りの時に、わざわざ大通りに出て祈るというのはいかにも滑稽なようです。そんな恥知らずなことを誰がするかと思うかもしれません。けれども、これはなにも誇張ではありません。当時の人々は、一日の内に決まった時間に、何度も祈りました。今もイスラム教徒の人が、時間になるとどこにあっても、きちんと聖地に向かって祈るのと同じです。最近は、成田空港にも、その人たちのための祈祷所が設けられていると聞きます。私たちはそういう姿を見て、本当に真剣にこの人たちは平日の時間をも神のものであることを毎日意識しながら、信仰に生きているのだということをある種の感動を持って見る思いがいたします。

 

当時の人々も同じです。信仰深い者は、どこにあっても決められた時間になれば、祈りをしたのです。ところが、主イエスがここで仰るのは、そういう人の中には、何の用事もないのに、ちょうど、祈りの時間と重なるように、人通りのある所に外出する者がいるということを指摘していらっしゃるのです。まるでたまたまそこに居合わせたかのように、けれども、わざわざ祈りの時間に人通りの多いところに出かけて行って、人目に付くように祈る。

 

こういう施し、こういう祈り、こういう断食は既に報いを受けてしまっているのだというのです。尊敬を受けるからです。その人が望んだとおりに、立派な人だと人に思ってもらえるからです。

 

主イエスは、こういう人たちは神さまから報いを頂くことはできない、なぜなら、その報いを人から受けてしまっているからだと仰います。原語ではもう領収書が発行されてしまっているという意味です。

 

けれども、考えてみれば、そのように見世物のように自分の信仰の業を人前で行い、人からの称賛を得ようという人は、神さまから報いられることを望んでいないかもしれません。偽善者という言葉は、役者という意味を持つ言葉ですが、そういう人たちは、神を相手にしているように見えながら、人間を相手にお芝居をしているに過ぎないのです。彼らが本当に求めるものは、もう受け取って領収書を発行してしまっているのです。

 

主イエスは、このようなお芝居の信仰であってはならないと仰います。神の御顔の前で生きていることを信じているのであれば、人に褒められるための人前での奉仕はやめなければならないと仰っているのです。仰ることは難しいことではありません。よくわかることです。

 

けれども、このよくわかることが私たちキリスト者の実際になっているか?知らず知らずの内に、神ではなく、人の顔色をうかがう、人に褒められることを求めているキリスト者になってはいないかと問うてみる必要があります。

 

関東と関西の都市部を中心に、フリーメソジスト教会と呼ばれる教会があります。この教会の興りは、19世紀のアメリカにあります。当時の北米メソジスト監督教会という教会が、礼拝での座席を有料化したことに反発したことから生まれた教会です。そこではたくさん献金をする人ほど、礼拝堂の前の方の立派な席に座れた。椅子の種類からして違ったと聞いたことがあります。ひじ掛けがあってクッションがあって、自分の名前が彫ってある。フリーメソジスト教会というのは、そのことをおかしく思い、批判したところ、教団から追い出されてしまった人たちが作ったグループです。フリーというのは、神が人間に与えてくださる自由をあらわすものですが、「無料」という意味も含まれているそうです。席が有料化してしまった教会に対する批判のこもったフリー、「無料」という言葉だそうです。

 

私たち日本に生きるキリスト者は、これは笑い話のように聞こえるかもしれません。本当の信仰ではない、いわゆるキリスト教世界の文化的キリスト教の慣れの果てだと思うかもしれません。それは、真の信仰ではなく、日本で葬式仏教と揶揄されるほとんど無宗教と変わらないようなものと同列のものだと批判するかもしれません。

 

日本に生きるキリスト者である私たちは、たとえば、神社仏閣の備品のいちいちに個人の名前が刻まれていることに違和感を覚えます。それこそ、神に捧げるものではなく、道行く人に自分の捧げものを誇示するようなものだと思います。一昨年私の祖母の葬儀が行われたときも、お坊さんが祖母の寄付した袈裟を着て、お経を読んでくださいました。遺族にそのことを葬儀中にお話しくださった。その袈裟のまさに袈裟懸けになっている布の部分に私の祖母の名がしっかりと刺しゅうされていることをも紹介してくださいました。私の祖母はたぶんそれを誇りに思っていたと思います。生前も自分はたくさんお布施をしているから立派な葬式をしてもらえるはずだと無邪気に喜んでいたのを思い出します。けれども、そういうことは、私たちキリスト者にとっては違和感を覚えることでしかありません。

 

私たちは、かえって、教会の備品に誰の名前も刻まれていないことを誇りに思います。私たちは、どれくらいの献げものをしたかということを人に知らしめるようなありかたは、信仰者として、恥ずべきことだと思っています。私たちは隠れたところを見ている神の御顔の前で生きていると信じているからです。

 

けれども、教会はそういう過ちを絶対侵さないということではないのです。フリーメソジスト教会の存在そのものが、教会も同じ過ちを犯してきた歴史の証拠でありますし、そのような形で露わになっていないにせよ、私たちにもそういう罪の落とし穴があちらこちらにあるということをよく弁えていなければならないと思います。

 

教会で神の評価ではなく、人の評価を求めている自分であることに気付いたら、私たちは、神のまなざしの下に置かれている自分であることに今一度気付くべきです。

 

ところで、そのように、自分の奉仕が神のまなざしのもとにあることを知った者は、人に対して誇る思いがあったとしても、神の前では誇れない自分であることを発見することになると思います。よく施すこと、よく祈ること、それらのことは、ちっとも、神の御前に捧げる功徳とはならないことに気付かされるはずです。

 

私は最近こういう趣旨の文章を読みました。私たちは祈りというのは、信じるということの次にあるものだと思っているかもしれない。信じた者が、その敬虔な心にふさわしく祈りを練習してそれに習熟していく。だから、祈りの生活というのは、信じるということをスタートとすると、その上に積み上げていくキリスト者らしい生活だと考えるかもしれない。祈れた日は、なんだか功徳が積めたような気になる。

 

けれども、本当にそうか?信じるということと、祈りは別のことか?祈りがなくても自分は信仰者であり続けることができると、祈りの少ない自分の生活であるという後ろめたさの中で、私たちはどこかでそう思い込んでいるかもしれません。しかし、そうではないと言います。祈りは、信仰者が神に捧げる捧げものでなしに、「ただ受けることしかできない位置に人間を置くことだ」と言います。「私は自分の力ではどうすることもできない。だから、神さま助けてください」と祈るのです。そうであるならば、祈れないとはどういうことでしょうか?祈る必要性を感じないということはどういうことでしょうか?自分は、自分の力で何とかやっていくことができるという自分の罪を弁えない罪の表明でしかありません。

 

私たちの教会が大切にしている信仰問答の一つであるハイデルベルク信仰問答ははっきりと言います。「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。」

 

私たちは、私たちの全ての行動において、神の助けを頂かなければひと時も立っていることができない者です。このような私たちの信仰的な視点がそのまま、私たちの祈りになります。そして、この私たちの祈りとイコールで結ばれている私たちの生活、その祈りの外で営まれることなど決してあり得ない私たちの生活は、もちろん私たちの手柄ではなくて、神の恵みであります。私たちの生活が隣人に褒められるか否かは問題ではありませんし、誰が褒めてくれなくても、自分を褒めてやる必要もありません。私の信仰も生活も褒めるに値すると思い込む時、本当に私たちが褒めるべきは神さまだということを忘れているのです。私たちの生活は神さまの助けなくしてはひと時も立っていられない私たちに対して、神が作ってくださる生活だからです。だから、信仰とは即、祈りであり、祈りとは即、生活です。しかも、その生活は、神の助けによって作られる生活ですから、当然、善き生活です。

 

教会音楽家として有名なヨハン・セバスチャン・バッハという人は、自分の書いた楽譜の冒頭にJJと記し、また楽譜の最後にはいつでも、SDGと書いたと言われています。実際にバッハの手書きの楽譜が残っており、その最初にJJ 、最後にSDGと書いてあるものがインターネットを検索すれば、見ることができます。両方ともラテン語で、JJは、Jesu Juva!!(イエス ユーヴァ)「イエスよ、私を助けてください。」という意味で、SDGは、Soli Deo Gloria!(ソリ デオ グロリア)「ただ、神に栄光あれ。」という意味です。

 

このような信仰そのものである祈りに包まれて生まれる音楽は、神の助けによってのみ生まれた音楽であります。そのどの一音たりとも、神への祈りなしに、だから、神の助けなしに書くことはできなかったというべきものでしょう。だから、彼の仕事は、決して自分の手柄にすることはできないものです。他人の称賛に気持ちよくなることもできないし、建前では神さまがしてくださったと言い、本音では、自分で自分は大したものだと思うことも本当にできません。そこに生まれるのは、ただ、祈りに応えてくださった神さまへの感謝でしかありません。

 

しかも、それは教会での業に限られたものではないということは、とても示唆的なことです。バッハは、どんな曲にも、つまり礼拝音楽ではないいわゆる世俗曲にも、折々にJJ,SDGと書き込んだと言います。教会での生活だけではありません。日々の生活が神の助けなくしては、ほんのひと時も耐えることができるものではないからです。私たち信仰者は神の御前での自分の業と存在を、このような慎ましさの中で知る以外にはありません。

 

けれども、本当に不思議なことですが、神はこの私たちをお褒めになるのです。今日の聖書個所において主イエスは、善行をしても、報いを期待するなとは仰っていませんで、人からの称賛を求めるな、自分自身で自分を認めるようなこともするなと仰るけれども、神の報いを期待できるのだということにどうしても目を向けさせたいのです。

 

これは本当に不思議なことです。私たちは人の前ではなく、神の御前に自分があると知るならば、それこそ、称賛に値することはない自分を発見するに違いないと思います。善い業を行っても、誰も褒めてくれない、自分で自分を認めてやるしかないと腹を立てているときも、神のまなざしに気付くならば、たちどころに恥じ入る他ない私たちです。本当に人のためになり人のほめるような生活を作ることができたとしても、私たちは神の御前に、「自分はふつつかな僕です。あなたのお命じになったことを、あなたのお力によってさせて頂いたまでです。」という言葉以外は、どんな誇りも持たないからです。

 

けれども、主イエスの言葉に従えば、神さまは、御自身の恵みであり、御自身の賜物であるところの、私たちの結ぶ良き実、神が自分の力ではひと時も立っていることのできない私たちの祈りに応えて私たちの生涯に結ばせてくださるその生活を、私たちの結んだ実として褒めてくださるというのです。

 

もう9年前になりますが、神学校の最終学年で修士論文を書いているときに、母教会の医学博士である方が論文の進み具合を訊ねてくださり、こういう風に励ましてくださいました。修士論文ていうのは、学生の力というよりも、指導教授の力量にかかっているところが大きいから、先生とよく相談して言われたことをたんたんとやればいいんだよと。先生と二人三脚のつもりでやればよいと。どんなに重いグライダーでも先生が、力いっぱい押して飛び立たせてくれるようなものだと教わりました。

 

神が私たちを用いてなさることはまさにそういうことだと思います。私たちには、善い実を結ぶ力がありませんが、神が私たちといつでも二人三脚で歩んでくださる。むしろ、神さまが前面に立たれ、私たちはその後からついて行っているにすぎないようであるかもしれません。けれども、神さまは自分がやったとは仰らずに、私たちの名前をクレジットしてくださり、よくやったと褒めてくださる。私たちは隣人にその業を褒めるように要求することはできないし、自分を誇ることもできません。ただ、神様に感謝するばかりですが、神さまの方は、私たちのことを褒めてくださる。言い換えれば、この方が事柄に即しているように思いますけれども、神さまは私たちを喜んでくださる。

 

親と子供の関係を思い浮かべてみればまたわかりやすいかもしれません。たとえば、母の日に、私の娘は、母親にカーネーションをプレゼントしますけれども、これは親の財布から出たお金で買ったものです。しかも、小さい娘が自分でお花屋さんに行くわけではなくて、私が連れて行き、私が買うわけです。そんなことは妻も百も承知していますが、「お母さんありがとう」とプレゼントするその花を喜びます。とっても喜びます。うちの財布を管理してるのは妻ですから、自分で自分のカーネーションを買っていると言えます。けれども、嬉しいのです。喜ぶのです。

 

神さまがおぜん立てをした上で、私たちを用いてくださる。しかも、褒めるところなんかないと思うのに、褒めてくださる。神さまは善い業をするうえで、私たちを通さないほうがよっぽどやりやすいでしょうに、私たちをこういう形でご自身の善い業のために用いようとされるのは、これはもう、神さまがただただ私たちのことを好きで好きで、愛おしくてたまらないということなのだと思います。

 

以前ある方が、自分の友人は所属教会の牧師から「あなたには信仰がない」と言われてショックを受けたという話を聞きました。今日の主イエスのお言葉からすれば、信仰と行いは一つですから、あなたはキリスト者らしい行いを持っていないと言われたということでもあると思います。けれども、私は、それは全然ショックを受ける必要のあることではないと思います。信仰は自分で持つものではありません。自分の内側から湧き上がる者ものもありません。それはいつも外から与えられる。神より与えられるものです。神はそれを与えてくださいます。なぜならば、神さまは私たちのことが愛おしくてたまらない。ほめたくてほめたくて仕方がないから、私たちが自分の内側には持っていない褒める材料を与えてまで褒めたい、報いたい。だから、信仰を与え、善い業の実を結ばせてくださるのです。

 

事情が、この通りであるならば、私たちはあまり四角四面な怖い顔をして、私の信仰は本物かとか、善い業をしなければと気負う必要はないと思います。

 

それは、私たちが隣人の評価を真剣に気にしたり、自分で自分を褒めなければだめになってしまうと思い込まなくても良いのと同じです。

 

ただお一人善き方であり、善き業をするのに何も欠けることのない神さまが、あえて私たちを選び、用いられるということは、私たちにとっては思わず笑みがこぼれてしまうようなユーモアのあることなのだとある人は言いました。

 

私たちの生涯の結ぶ実が、小さくて見栄えがしなく、たとえ、誰にも褒められない生涯隠れたままの業であっても、神のものとして神に頼って生きる私たちを神は喜んでくださいます。私たちが神さまによって結ぶ小さな実をも全力で喜んでくださいます。神様は私たちに報いたくて仕方がないのです。だから、必ず、信仰を与えてくださる。必ず、善い実を結ばせてくださる。

 

私たちは愛されている子どもとして、神の御顔の前で生きているのです。

 

そしてそこにこそ、隣人に褒められることを求めて人を裁かず、あるいは自分で自分を褒めることを求めて隣人の言葉に耳を閉ざし自分の内に閉じこもるこの両極端ではない道が開けていると思います。

 

いかに無に等しい私であっても、神が私を重んじてくださる。かけがえのない者と見做してくださる。誰かと比べる必要なく、神がこのあるがままの私を重んじてくださる。その確かな祝福に支えられて、隣人と自分の評価から自由な新しい歩みが生まれます。私たちをして人を裁かず、人を生かすことだけを目指す本当に自由な、神が示される神ご自身に似た生き方を始めることができると思うのです。

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