近づいて来られる神

聖書 マタイ3:1-1

 新共同訳聖書には小見出しと呼ばれる少々太字のゴシック体で印刷された文字が、聖書本文の中に挿入されています。これはもともと聖書本文には含まれないもので、教会が利便性のために後から付け足したものです。ですから、聖書を声に出して読むときは、その小見出しは、読む必要のない個所です。けれども、この小見出しは福音書を読むときには、特に便利なもので、その小見出し部分太字の表題の下にカッコで、今読んでいる福音書の一つの物語が、他の福音書のどこの部分に書かれているかということが分かるようになっています。

 たとえば、マタイによる福音書を読みながら、今読んでいる主イエスの御言葉、あるいは行った出来事を他の福音書ではどこで扱っているかなと小見出しを見てみますと、小さくマコ1:12-13とか、ルカ4:1-13とか書いてあり、そこを開けば、並行している記述が読み比べることが出来るようになっています。

 そこで興味を持って、一つの福音書を読みながら、小見出しを頼りにして、重なる箇所を丁寧に読んでみようとするとき、気付かされることがあります。案外、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四つの福音書すべてに語られている物語は少ないのです。

 多くの場合、マルコとルカの名前の両方が挙げられたり、あるいはそのどちらかであったりということが多く、ヨハネ福音書にまで言及されているものは、ほんの少数と言って良いと思います。

 それだけに、4つの福音書で共通に取り上げられている聖書の出来事を見つけたときは、おそらくその物語が、広い範囲の教会に知られていた古代のキリスト教会の共有財産であり、主イエスを信じる者なら誰もが、これは主イエスの福音を語る上で、欠かすことのできない出来事だと信じ、それだから多くの人々によって伝えられたものだということを想像することが出来るのではないかと思います。

 たとえば、主イエスの誕生の詳細を語る福音書は、マタイとルカだけですが、主イエスが十字架のお掛りになったこと、また、ご復活され、弟子たちにその姿をお現わしになったことは、全ての福音書によって証言されています。これは、初代のキリスト者たちにとっては、主イエスの誕生を覚えるクリスマスよりも、主イエスのご復活を祝うイースターの方が重要であったということ、もう少し、丁寧に言い換えれば、まずは何よりも主イエスのご復活の出来事に打たれ、神に捕らえられたことによって教会が生まれ、その教会が、この死から甦られたお方が一体どなたなのか?ということを改めて問い始めた時に、そのお方の誕生の次第が視野に入って来たということであったということが出来ます。

 つまり、4つの福音書に共通している主イエスの死からのお甦りの出来事は、そこからさらに多様で個性的な仕方で記憶され、選ばれ、語られ、書き記された各福音書の語る主イエスの御言葉と行いの基礎となっていると言うことが出来ると思います。

 そこで、これは意外にも感じられ、是非とも考えて見たいことでもあると思いますが、今日私たちが読みました洗礼者ヨハネの物語もまた、主イエスが成人された後の公の御生涯に先立つものとして、4つの福音書全てが語る数少ない物語の一つであるということです。

 主イエス・キリストの出来事、その方がこの地上を歩まれなし遂げたことを語る上で、そのお方が公の活動を開始される直前に行われていたこの洗礼者ヨハネの活動は、主イエスの活動と切っても切り離せないものであり、この主の福音と呼ばれる主イエス・キリストの良き知らせを語る上で、どうしても省略することはできない出来事だと4人の福音書記者たちによって、あるいはその背後にある教会によって見做されたということだと思います。

 しかも、この4つの福音書を比べながら、今日私たちが読んでいますマタイを見ると、特に主イエス・キリストの先触れとして描かれる洗礼者ヨハネの活動とその言葉は、他のどの福音書にもまして、主イエスの活動との連続性が意識されているように見えます。すなわち、この福音書における洗礼者ヨハネの第一声は、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」というものであり、これは実に、続く4:17に記されますように主イエスが公の活動を開始された時の第一声そのものでありました。

 この洗礼者ヨハネのメッセージは、マルコ福音書にも、ルカ福音書にも、ヨハネ福音書にも、洗礼者ヨハネの言葉としては記録されてはおらず、ただ主イエスのお口から上った言葉として記録されています。だから、マタイはそれだけ、洗礼者ヨハネの活動と、イエス様の活動が、深く重なり合っていることを語っているのだと言えます。洗礼者ヨハネも主イエスも同じことを語られ、同じことを人間に求めたのです。「あなたたちは悔い改めなければならない。なぜなら、天の国が近づいて来たから。」

 よく言われることですが、「悔い改め」という言葉は、ただ、考え方や見方をちょっと変えて見たり、生き方をちょっと軌道修正してみたりと言うようなことではありません。健康も守られ、生活も安定していて、人間関係もそれなりに上手く行っている。けれども、何か満たされないものがある。心にぽっかり穴が開いているように感じる。そこで、その心の隙間を埋めるために、今までの生き方をちょっとだけ軌道修正し、心の豊かさを求めようと教会の門をくぐってみる。

 あるいは、わたしもその口でありましたが、それよりも、もう少し、大きな課題を抱え、これはどうにも自分一人の力は限界に行き詰ったから、その自分の力を超えた部分を助けてくれる力を求めて、教会に来てみるということがあると思います。

 しかし、ここで求められている「悔い改め」というものは、向きを変えること、方向転換を意味しています。何かを少し足せば済むことではないし、自分の足りない部分を補ってもらうだけではすみません。生半可なものではありません。生き方の向きを根本的に変えなければならないのであり、それは、自ずと今までの自分の在り方を否定するという徹底した自己批判が求められているということが出来ると思います。

 洗礼者ヨハネの姿は、まさに、そういう悔い改めをするとどうなるのかという姿をよく表しているものだと言えるかもしれません。4節に「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」とあります。これは、禁欲主義者の典型的な格好だと言って良いと思います。我々が普通、価値あるものだと思っているものを全て捨ててしまって、全然別の方向を向いて生きている人の姿がここにあると言えます。

 そして、このヨハネが人々に授けていた洗礼とは、「罪の告白」が伴う洗礼、つまり、「自分は間違っていた」という罪の自覚が伴う洗礼でした。その洗礼には、必ずヨハネから洗礼を受ける者は、皆、この人のように、町での生活を捨てて、荒野に出て行かなければならなかったという出家のようなことが伴っていたわけではなかったと思います。けれども、今までの自分の生き方に足りないものをプラスする、そういうプラスをもたらしてくれる活動などではありませんでした。プラスではなく、マイナス、全面的な自己批判です。

 ヨハネの求めた悔い改め、そしてそのしるしである洗礼は、自分の「罪」を認めること、自分の過ちを認めること、自分のこれまでの生き方を根本的に否定すること、全存在の向きを変えてしまうことを意味していたということは確実です。

 このヨハネの洗礼は古代教会の洗礼と同じように、流れる川の中に、身を沈めて行われるものであったようです。流れる水に全身を浸すのです。それは、多くの宗教で水が果たすように、汚れを清めるという意味があります。けれども、全身です。手先、指先ではなく、全身を水の中に沈めます。だからそれは、使徒パウロが語ったように、古い自分を水に沈めて死なすこと、葬ることであります。

 しかも、7以下の洗礼者ヨハネが、ファリサイ派、サドカイ派と呼ばれる人々に向かって発した厳しい厳しい言葉を真面目に考えれば、神の御前においては、誰も逃れることのできない自己否定だということだと思います。群衆もファリサイ派もサドカイ派も逃れることが出来ません。

 ところで、福音書を読み通してみた人にとって、ここに出てくるファリサイ派、サドカイ派という名で呼ばれる人々は、主イエス・キリストの敵対者であり、何とかして主イエスの評判を貶め、それが叶わなくなっていったとき、主イエスを殺す計画を立てた、主イエスの十字架の責任者の一角だと理解していると思います。それゆえ、この人たちは、文句なしに、悔い改めが必要な父なる神と主イエスに反対する悪役だと捉えがちだと思います。

 彼らは本当の信仰を捻じ曲げ、自分たちの都合の良いようにしてしまった人々、神に従っていると見せかけて自分の心に従っている人々、偽りの信仰者だと思っていると思います。

 ところが、サドカイ派に限っては、あまり、詳細が分かっていないようですが、ことファリサイ派と呼ばれた人々に関しては、実に、彼らは真剣な信仰者であったと言われています。

 洗礼者ヨハネが彼らに向かって「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と激しく叱責するとき、私たちは、彼らは、儀式的なことは守ろうとするけれども、内実は伴わない人々なんだと思うかもしれません。

 しかし、決してそうではありません。ファリサイ派の禁欲が、荒野に生きる洗礼者ヨハネとその弟子たちの禁欲には確かに及ばぬものであったとしても、彼らの生き方は私たちが思いも及ばぬような厳格で、清潔な生き方をしていました。サドカイ派もおそらく同じだと言えます。両者とも、何々派と呼ばれるくらいの人たちなのです。ある宗教的グループを形成したのです。一般の人たちとは違うのです。いわば、意識高い系です。こだわった生き方をしています。信仰にこだわった生き方です。日常生活とは、根本的には無関係なところでアクセサリーのように付け足される信仰ではありません。信仰が彼らの生き方そのものを規定しているのです。

 たとえば、この人たちの生き方は、マタイによる福音書19:16以下に記された金持ちの青年の物語と呼ばれる一人の資産家の青年の姿に見いだすことが出来るかもしれません。

 この青年は、ファリサイ派とも、サドカイ派とも書かれていませんが、平行箇所のルカによる福音書18:18以下では、この人が、「議員」であったと書かれています。

 色々なところを引用して恐縮ですが、主イエスの弟子であり、ユダヤの議員であったニコデモという人がいますが、ヨハネによる福音書3:1では、この人は、ファリサイ派に属する議員であったと記されています。さらに使徒言行録23:6では、この議員たちが、一部がサドカイ派で、一部がファリサイ派だと書かれています。

 すると、この金持ちの青年として教会によく知られている人物は、ファリサイ派か、サドカイ派の人であるという想像はそれほど的外れなものではないと思いますし、そこにファリサイ派、サドカイ派の人々の信仰の在り方を見ることが許されると思います。

 そこでは、この青年が主イエスに問われ、こう答えていました。

「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

 金持ちの青年が、「どの掟ですか」と尋ねると、主イエスはお答えになります。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、隣人を自分のように愛しなさい。」

 すると、その青年は答えたのです。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

 これがファリサイ派、サドカイ派の信仰の最も良い実りであると思います。もしかしたら、この答えには若者らしく少々一面的過ぎる自己評価があるかもしれません。けれども、不当な評価ではおそらくないのです。

 神の戒めを守り、しかも、単に神の戒めを表面的に守っているとは決して言えないような心のこもった生き方をしていたのです。隣人を自分のように愛しなさいと言う主の御言葉を自分は守っていると言うのです。この青年は、人が好きなのです。人間愛を持っているのです。

 私たちが、洗礼者ヨハネの厳しい言葉を理解する上で、この厳しい言葉を投げかけられたファリサイ派、サドカイ派の人々とは、この青年とは、別の種類の人間であると考えない方が、良いのではないかと思います。少なくとも、私よりもずっと真面目な人々です。ずっと愛のある人々です。

 しかし、主イエスは、この青年に向かい仰ったのです。「金持ちが天の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 けれども、この言葉は、金持ちは自分の財産を実は貧しいよりも手放せないから主イエスに従いきれないのだという風に読むべき言葉ではありません。これを最初に聞いた人々は、「それでは、だれが救われるだろうか」と疑問に思ったのです。それは、誰もが、天の国に近いと思っていた人の前にも天の扉が閉ざされているらしいことへの人びとの戸惑いの言葉なのです。

 今日の聖書個所が語っている出来事のインパクトを私たちが、正しく理解しようとするならば、この理解を避けて通っていくことはできません。悔い改めにふさわしい実を結んでいるように見える人々、少なくとも、私たちよりは、そうだと言えるような人々に、洗礼者ヨハネの裁きの言葉が語られます。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りから免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。…斧は既に根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 すると、どうなるのでしょうか?私たちは、このようにヨハネに言われてしまうのは、ファリサイ派や、サドカイ派の人々だけではなかったと考えざるを得ないのではないかと思うのです。

 5節に記されたエルサレムとユダヤの全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯からヨハネの元に来て、洗礼を受けたいと願い出た人々も皆、その誰一人として、この厳しい裁きの言葉から自由な人はいなかったと考える必要があるのではないかと思うのです。

しかも、その裁きの言葉を語る洗礼者ヨハネ自身も、実は、同じではなかったかと思うのです。

 彼は、間もなくやって来る神より遣わされる審判者についてこう言います。11節です。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」

 裁きを語る洗礼者ヨハネは、自分を悔い改めにふさわしい実を結んでいる者と見做していないことは明らかです。「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と思っているのです。

 だから私たちは、こう考えることが出来ます。たとえば、洗礼者が求めた悔い改めにふさわしい実というものは、どれほどの良い人間として生きているか?という程度の差ではないということです。

 私たちの悔い改めが結ぶ実が、ファリサイ派では足りない。サドカイ派では足りない。もっと徹底して洗礼者ヨハネのように、全ての日常生活を後にするようにして、その一時だけに努めるときにだけ、ふさわしい実を結んでいると言えるということではないようです。そうではなくて、私たちのどんな善い行いも、清潔な生き方も、神に喜ばれる方向転換にはなりえない。そう言っているのではないかと思います。

 「『我々の父はアブラハムだ』などとは、思ってもみるな」という言葉は、神の御前には本当に誰も誇れる者はいないということであると思います。

 だから、洗礼者ヨハネが、主イエスの先触れとしての神さまからの使いとして何を語り、何を明らかにしたかと言えば、神の御前において、お互いからお互いを隔てるものを全部取り除いてしまったということだとも思います。つまり、私たちは、神の御前においては、隣の人と自分を比べることが出来なくなってしまったのです。人と比べて、自分はこの人よりはましな人間だとか、自分は正しい誠実な人間だとかいうことはできません。自分の正しさや良さを持ち出して、「神さま、私はましな人間です。良い人間です。私を褒めてください。私に報いてください。罰を与えないでください。人よりもちょっぴり多めの祝福を与えてください。この世で帳尻があわなければ、天国に迎え入れてください。」と申し上げることはできません。

 神さまによる究極的な承認、完全な肯定を頂くという意味においては、人間は全く無力なんだと洗礼者は語っているのです。このメッセージが、洗礼者ヨハネが語ったメッセージであり、直後の第4章を見れば、主イエスもまったく同じことをお語りになられたのです。

 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りから誰が免れると教えたか」という我々人間の内のましな人間たちに語った言葉は、まさに、マタイ19章で、主イエス御自身が、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言ったこととは、まるで同じことなのです。だから、この金持ちの青年が、持ち物を全て売り払い、ヨハネのような生き方をしたとしても、同様に裁きの火を手にしたお方の前では、「わたしは、その方の履物をお脱がせする値打ちもない」と言わなければならないことにはおそらく変わりがないのです。

 さて、もしかしたら、今日の説教は、苦しく厳しいとお感じになっている方が多いかもしれません。徹底的な裁きを聞かされていると思われるかもしれません。

 けれども、私自身の思いとしては、そして、もちろん、蝮の子らであり、神の御前に何の値打ちもないという裁きの元に自分自身を数え入れている私ですけれども、今までのことも全部、恵みの言葉でしかありません。

 私たち人間にとって、主イエスの福音の出来事を語るときに同じように語らざるを得ない裁きの言葉は、いつでも、必ず、ほとんどそのまま福音の言葉として響いているものだと私は信じています。

 洗礼者ヨハネにとって、「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」という言葉は、間違いなく厳しい裁きの宣告であります。けれども、この神の裁きの言葉を、イエス・キリストにおいて聞く者は、この私たち人間の業に対する徹底的な裁きの宣告は、その否定を小さな小さな否定にしてしまう徹底的な恵みの宣言として聞かされているのです。

 ヨハネの言葉は、マタイが厳密にそう理解したように、主イエスもまたお語りになりうる言葉であります。主イエスもまた、同じメッセージを携えて来られたのだと言えます。

 けれども、主イエスがこの厳しい裁きの言葉を語るとき、それは、私たちにとって、途方もない恵みの言葉として響かざるをえません。全く同じ言葉が、全く違ったものとして聞こえてきます。

 神は石ころから、アブラハムの子を造り出すことがおできになる。それは、ただ、主イエスを抜きにしては、私たちの無力と、無能力を語る裁きの言葉に過ぎないかもしれません。それはその通りです。

 けれども、それがただ洗礼者ヨハネの口からではなく、主イエス・キリストというお方の存在を通り抜けて語られるとき、この同じ言葉が別の響きを湛えるようになるのです。

 人間は言います。「それでは、誰が救われるだろうか?誰も救われないではないか?」

 主イエスは私たちを見つめて仰います。「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)。

 私たちは、神の御前に石ころのようなものでしかありません。けれども、神はこの石ころから神の子たちをお造りになるのです。

 しかも、石ころのような人間から神がその神の子たちをお造りになる時、神は、そんなことは造作もないことだと、指一本動かすことなく、石ころから神の子を造り出されたというわけでは決してなかったのです。

 それは、ヨハネの後に来られた偉大な方、神の独り子イエス・キリストの十字架を必要としたのです。神が徹底的な犠牲を払われたのです。

 私たちは、このイエス・キリストというお方を見上げる時に分かってきます。私たちがどんなに無価値で、良い所の少しもない者であったとしても、神は、私たちを捨てることはできなかったということ。決してご自身にふさわしくない私たちを御自身のものにするために、神は、御子の価高い命を捧げてくださったということ。神が私たちに代わってすべて支払ってくださったということ。

 そのことに目を留めれば、分かるのです。私たちがどんな者であっても、私たちは絶対に捨てられない。絶対にです。それが私たちを愛する神の愛です。

 だから、イエス・キリストにあって、裁きは即、恵みであります。私たちの正しさが何の意味も持たないということは、即座に、私たちの罪が、キリスト・イエスにおける神の愛から私たちを取り去ることはできないことと一つであるからです。

 ある神学者は、神が私たちに語ってくださる言葉は「偉大な然り」だと言いました。神さまが私たちに語ってくださるのは、「然り」、すなわち、「私はあなたに賛成する、私はあなたの味方である」という神さまの肯定だと言います。

 そして、その神様よりの私たちに対する然り、賛成が、偉大であると言われるのは、その「然り」には、「私たちの罪にもかかわらず」という私たちの罪を見据えた言葉が必ず伴う賛成だからだと言います。

 それは今日の聖書個所を念頭に置くならば、裁きの言葉を伴うから、最高の然りであるのです。キリストの出来事は、裁かれなければならない人間から始まる。だから、洗礼者ヨハネの物語から始まる。そのような人間の地点から始まる。

 我々は捨てられないのです。絶対に捨てられないのです。だから、明るい顔で、罪を告白できます。罪人なのに、健康で明るいのです。神がイエス・キリストにおいてやって来られ、こんな私たちを神の子としてしまったからです。キリストこそが私たちに対する神の偉大な然りです。

 そのイエス・キリストの神さまが、どんな私たちであっても、今ここで私たちを、今ここでご自身の子と呼んでくださっているのです。

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