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約束が生み出す信仰

マタイによる福音書 28:16-20

 

 主イエス・キリストが、「すべての民」への伝道を命じられた時、11人の弟子たちが、想像していた「すべての民」が、どこまでの人々であるのかということを考えて見るのは、私たちの心を大きく広げる愉快な想像となると思います。たとえば、主イエス・キリストのすべての民に対する伝道命令を受け取った教会の基礎となる11人の弟子たち、その人たちが想像した地の果ての民の中に、私たちは、確実に含まれていなかったと思うのです。そのような私たちが、今、ここにいて、彼らと同じ主の弟子として、彼らと共に、主の体を形作っている。これは、神の御業は、誰の心をも超えているということの確かな印であると思います。

 今日の聖書個所で、ただ主イエス・キリストお一人だけが、正確に今ここにいる私たちがご自分の弟子となることを見定めておられた。ただ、その主イエスの御心にしかなかったことの実現を私たちはこの身で経験しています。今ここに作られている金沢元町教会という群れは、マタイによる福音書第28:16以下の弟子たちと、ご復活の主イエスのやり取りが生きた現実となっている、その時、その場、まさに主イエスが弟子として招かれたすべての民の一部なのです。

 主イエスのお語りになったその言葉の広がりを、ここで私たちは主イエスの11人の弟子たち以上に、よく知っているということです。このような御言葉との出会いは、とてもわくわくさせられることであると思います。生ける神の言葉は、決して私たちの理解の範囲に留まらないのだと気付かされます。11人の弟子たちの誰も、初代教会の人々の誰も知らなかったし、心に思い浮かべることすらできなかった民である者が、主の弟子となっているのです。

 汲み尽くすことのできない主イエスのお言葉、そのお心というものは、たとえば、一人でデボーションしている時にも、祈祷会で皆で御言葉の分かち合いをしている時にも、御言葉が理解できず、自分は全然、主イエスのことも父なる神のこともわかっていないという途方に暮れる思いを与えることがあるかもしれません。御言葉を聞いても聞いても、水面に映る影のように、ぼんやりとしか神様の思いが分からないという思いになるかもしれません。けれども、それは決してがっかりばかりするようなことではないと思うのです。神の言葉の捉え難さとは、神のなさることは、いつでも私たちの思いをはるかに超えているということ、しかも、人間のちっぽけな想像を超えて、はるかに素晴らしいことを主は行ってくださるということ、そのような信頼を私たちの心の内に作り出し、神様へのさらなる賛美に必ず私たちを至らせると思うのです。

 だから、パウロは、エフェソ書3:18でこういう風に祈り、賛美しました。

「あなたがたすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように」。

 主は私たちが願うよりも、もっと良いこと、もっと素晴らしいことを必ず実現してくださいます。「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることのおできになる方」、パウロがこのように告白するお方が、誰も心に思い描くことのできなかった私たちを御自身の弟子とし、今日私たちに与えられた物語においては、11人の弟子たちの前に現れたのです。

 父なる神によって、死から甦らされたそのお方イエス・キリストは、ガリラヤで弟子たちを待っておられました。弟子たちは復活の主イエスを探す必要はありませんでした。はっきりとした待ち合わせ場所が与えられていました。弟子たちは、主イエスが前もって指示しておかれた場所に行けばよかったのです。必死になって探し出す必要はありませんでした。その努力は主イエスがなしてくださったからです。

 主イエスが指示しておかれたガリラヤとは、弟子たちの故郷であり、生活圏に他なりませんでした。私たちにとって、私たちの暮らす金沢であり、野々市であり、石川であり、北陸であり、私たちの生活があるところに他なりませんでした。だから、主イエスがガリラヤで待たれていたということは、まさに、主イエスが弟子たちが必然的に向かう先に、先回りして来られたのだと言うこともできるのではないかと思うのです。主イエスが指示された山とは、弟子たちには周知の懐かしい山であったと思います。主イエスが山上の説教を語った山であり、祈るために退かれた山であったと思います。主イエスは弟子たちの生活圏の中でも明確にこの場所で会おうと決めてくださいました。それは、私たちにとっての、この礼拝堂と同じ種類の所でしょう。自由にいつでも、この私たちが生きるその所、どこでもお会いできるであろう主イエスが、しかし、「ここで会おう」と、私たちのために特別に定めてくださった礼拝の場所です。

 11人の弟子たちとご復活の主イエスとの出会いは、どのような再会であったでしょうか?17節に「そして、イエスに会いひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」とあります。正反対の態度が、復活の主イエスにお会いした弟子達の間に起きました。主イエスを拝み、ひれ伏す者と、疑う者。疑うとは何を疑うのでしょうか?今、自分の目の前にいる主イエスの復活を疑ったということでしょう。幽霊か?幻か?そう思ったのでしょうか?復活の主イエスに顔と顔とを合わせてお会いして、なお、信じない者がいました。

 私たちは、私たちが主イエスの復活を信じ難いところがあるとすれば、それは、この目で、その復活の主のお姿を見ていないからだと思うかもしれません。私たちは弟子の証言を頼りにして信じているのであり、また、その弟子たちが、そのような復活者に出会ったとしか言いようのないような変身を遂げている所に、復活のリアリティーを感じるのであり、自分の目で実際に見たわけではないというところに、疑いの入り込む余地があると思うかもしれません。この目で、一目でもご復活の主を見ることができれば、99パーセントの信仰は、100パーセントになると思うかもしれません。

 けれども、この11人の中には、復活の主にお会いしてなお疑う者もいたのです。それは、突き詰めて言えば、その人たちは、主の復活を信じていないということです。これは教会の歩みにとって、決定的に重要な局面に見えます。ユダの抜けた残された11人が、真の弟子であるかどうか、彼らが真の教会の基礎でありうるかどうか、復活の主イエスに出会って頂きながら、その方にひれ伏して礼拝するか、疑うかということは、決定的な判断材料ではないかと私は思います。そして、ここで疑うということは、教会の礎となる弟子としては致命的な欠陥であると思うのです。

 けれども、ある聖書学者は、17節の言葉は、原文に素直に訳せば、ちょっとびっくりさせられることですが、弟子たちの間に二つの信じる者、疑う者のグループが生まれたということを意味はしていないと言います。それはこう訳せると言います。

 「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑った。」

 ひれ伏した者が、同時に疑う者でもあったと読めると言うのです。私たちも同じではないかと思います。ここにも信じる者と疑う者の二種類の人間がいるわけではないと思います。信じる者であると同時に、疑う者でもある。疑いながらも信じている。それが我々の現実の姿であると思います。

 より丁寧に言えば、私たちの信仰とは、ここでの弟子たちと同じように信じることのできない者であるにもかかわらず、復活の主がやってこられ、思わずひれ伏してしまったに過ぎないのではないか?しかも、ひれ伏して終わりではなく、また、引き続いて疑いが起こってくる。そういう根っからの疑いを持つ者である。

 けれども、18節、このひれ伏し、しかし、また、むくむくと疑いが起こってくる者へと「イエスは近寄って来られ」とあります。そういう根っからの疑う者に、もう一歩、復活の主イエスが近づいてこられる。そうすると、やっぱり、ひれ伏さざるを得なくなるのではないか?そのようにして、主イエス御自身が、弟子たちの内に信仰を作り出されるから、主はここで弟子たちの不信仰に目を留めておられないように見えます。だから、復活の主イエスにお会いした者が、どう反応するかということは、私たちにとっては生まれたばかりの教会が立つか、倒れるかの瀬戸際に見えますが、福音書が注意を払っていないように、主イエスも、福音書記者もその疑いを重視する必要はなかったのだと思います。なぜなら、私たちの信仰の歩みというものは、ここに掛かれている通りの経過を辿るからです。疑いが頭をもたげても、もたげても、主イエスが、もう一歩、もう一歩と私たちに近寄って来られる。そうやって、保たれている私たちの信仰なのです。これは特別に弱い信仰者の救済措置ではありません。皆そうです。私もそうです。ひどく疑り深い人間です。そんな疑う者に主はもう一歩近寄って来てくださる。だから、人は信仰者であり続けることができるのです。だから、人間の疑いは、クローズアップされる必要はありません。

 主イエスは、その疑う者達にどのような言葉を掛けられるのでしょうか?18節以下です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 たいへん有名な大宣教命令と呼ばれる言葉です。勇ましい伝道への派遣の言葉に聞こえます。けれども、改めて文脈の中で読んでみると、このような勇ましいとも思える派遣の言葉が、ここで語られるということは、少し不思議だと言えるかもしれません。もう一度、私たちの人間的視点に戻して考えて見るならば、ひれ伏した弟子たちは、疑う者たちなのです。その疑いが解消されたなどとは、まだ、どこにも書いていないのです。だとすれば、私たちであれば、疑う者に命令を与えることは普通しないと思うのです。それよりも、まず、疑う心を解きほぐすことを試みると思うのです。疑う者を教会の伝道の基礎となる11人としたままで、命令を与えることは、その命令の実現のためにとてもリスクが高いと思うのです。

 疑う者には、まず、福音の恵みを十分にわからせる。恵みの言葉をとことん語る。その上で、疑いが十分に無くなったら、恵みとしての戒めを与える。キリスト者としての備えが十分にでき、共同体として気力体力ともにみなぎったら、使命を与える。そういう順序をたとえば、わたしは心に描いてしまいます。ところが、主イエスは、違います。疑う者を含めたままで即、奉仕へと召し出しました。特別な使命を授けられるにふさわしい準備が整っているようには見えない者に対して、その前に信仰の基礎を整えようということなしに、疑う者を100パーセント御自分の弟子と見做し、大切な使命を与えます。これは驚くべきことだと思います。

 なぜこのようなことをなさるのか?主イエスは、私たちよりもずっと人間に甘いということなのでしょうか?あるいは、主イエスは清濁併せ呑まれる方である。またあるいは、人間が真に信じる者となることを諦めているということなのでしょうか?そうではなく、これはまさに、甘やかしの正反対にある、主イエスの権威に拠るものだと思います。権威あるお方は、どんなどうしようもない人間も諦める必要がないことによるのだと思います。

 疑う者を弟子として扱い、大切な使命を託されるお方は、まず、このように仰いました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」ご復活の主に授けられた天と地の一切の権能、それは一切の権能です。それは、地上のイエスが、お持ちになっていた権威、教え、癒し、悪霊を追い出し、罪を赦した権威のこと、風や湖さえも従わせる権威のこと、すなわち、新しいものを作り出す力、現実を変える働きをする力のことです。

 しかも、マタイによる福音書第28章では、今やその権威は、「一切の権能」と呼ばれています。風や、湖や、悪霊を従わせるだけではありません。天と地の一切を従わせます。そこには、疑う弟子も、今までは神の民と呼ばれなかった全ての民も含まれるのではないでしょうか?弟子は服従するからこそ弟子であり、信じるからこそ弟子です。服従しない者は弟子ではないし、信じない者も弟子ではありえません。けれども、その信仰、その服従は、この天と地の全権をお持ちになったお方が、そう願い、近寄ることによって、生み出される信仰であり、服従です。そのお方が、弟子たちと共にいてくださるゆえに、ただそのことだけに基づいて与えられる服従であり、信仰です。

 そして、この天地の全権をお持ちになる方は、整っているとは言えない者たちに断定的に約束されます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。信じ続ける者ではなく、ひれ伏し続ける者ではなく、ひれ伏し、即、疑う者への約束です。整えられていない私たちへの約束です。

 しかし、世の終わりまでいつも主イエスと共にいて頂ける者は、いつまでも、疑う者であり続けることはできないのです。私たち人間の疑いは、どれほど深いものであったとしても、主イエスの約束に打ち勝つものではありえません。私たちが何度疑っても、何度躓いても、共にいる主は、さらに一歩深く我々に近づき、我々はひれ伏さざるを得なくなります。それゆえに、私たちは、世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださる主イエスのゆえに、世の終わりまで主イエスの弟子であり続けるでしょう。

 さて、最後に、洗礼の言葉に少しだけ触れたいと思います。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」と言われています。これは、原文では、おそらく、日本語とは、違うニュアンスを持った言葉です。直訳では、「父と子と聖霊の名の中に浸せ」という言葉です。洗礼を授けるとは、父と子と聖霊の名の中に、人を沈めてしまうことです。それは、一人の人を父と子と聖霊の中にある者としてしまうこと、それ以外の者としては、もう見ないし、もう知らなくなるということだと思います。全ての民にそのような洗礼を授けるように弟子たちは遣わされます。それは、まさに、今まで語ってきた意味において、彼ら自身と全く同じ意味において弟子とすることだと思います。全ての民を父と子と聖霊の名の中に浸すことは、実に、疑う者をなお、弟子と見る主イエスのまなざしの中に置くことを意味すると思います。それは、主イエスが天と地の一切の権威を持っているという信仰に基づく行為です。

 しかも、ある人は言います。全ての民への洗礼命令は、「異邦人が洗礼を受けることによって、初めて主の支配のもとに置かれるというようなことを意味してはいなかったであろう。」と。そうではなく、「洗礼を受ける者がそこで告白したのは、自分が既にイエスに属する者となっているということであり、その当然の帰結として、弟子となり得ることを認めたのである」と。「自分が既にイエスに属する者となっている」。これが、洗礼に先立つ洗礼の根拠だというのです。

 だから、私たちに託された大宣教命令には、全ての民を弟子と見做し、事実、弟子とする主イエス自身の先立つ業があり、私たちの奉仕は、その主の業を告げる私たちの証人としての奉仕です。疑う者を弟子とし、全ての民を父と子と聖霊の中に浸された者としてしまう天と地の一切の権威を持った主の力ある業の証人です。

 それは、私たちの想像をはるかに超える神の出来事です。この人は、主の弟子ではない。この国民は主のものではない、そして私もふさわしくないと諦めることは、もう、出来ません。あの友も、あの家族も、あの敵も、あの民も、そして私たち自身とその群れ自身も、私たちの見るところによる、理解と将来の姿の型にはめておくことはできません。そのために、弟子は遣わされ、働きます。どのように働くのでしょうか?主イエスと同じものを見ることによって、主イエスのなさりようを告げることによってです。疑う者を、全ての者をそのインマヌエルの中に、「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と約束されている者として、巻き込み、呑み込むようにして、私たちは全ての人間に対して罪と死との戦いの終わりと、神との和解を告げる主イエスの良き報せの証人となるのです。

 

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