私を救う権威

今週私は、いくつかの面談の時を持ちました。そこで、それぞれに、本当に不思議な証しを聞きました。

たとえば、私の前任地の教会の一人の方が週の半ばにこの教会を訪ねてくださり、こういう話をしてくださった。それは、あるキリスト教主義学校の礼拝で公にされている話なので、それだけは語ることが許されることだろうと思い、上手くその方の思いのままに伝えられるか自信はありませんが、ご紹介いたします。

その方には、二人のお子さんがいた。一人は息子さん、一人はお嬢さん。その方は、クリスチャンホームで生まれ育ちましたが、それほど信仰には熱心でなかった。けれども、教会の周辺に生きていたから、娘が保育園に入園する段になったら、当り前のように教会付きの保育園に入れるようなこともした。そこで、園長である牧師と親しみ、楽しい時間を過ごされた。ところが、それから、10年がたち、お嬢さんが14歳になった時、体育の時間中、心臓麻痺を起こし、一夜のうちに、突然逝ってしまった。

こんな時こそ、父親は冷静でいなければならない。娘を知るあの人にもこの人にも連絡しなければならないと、駆けずり回りながら、保育園でお世話になったあの教会の牧師にも連絡した方がいいかもしれないと思いながら、寝床につかれました。

次の朝の9時ころ、その牧師から連絡がきました。卒園以来10年ぶりの電話であったと言います。誰か人伝に、娘のことを聴いて、お悔やみの電話をかけてきたのだろうと思ったそうです。

けれども、電話口の牧師の声は、やけに明るい。そして、「お嬢さん元気ですか?」と尋ねたと言うのです。彼は、絶句してしまいましたが、ようやく「実は、昨夜亡くなりました」と答えました。牧師は、「ただ何となく、声が聴きたくなって電話したんだ」と仰ったそうです。

電話を切ると、彼は一言呟いたそうです。「虫が知らせたのかな。」それを着たお母さまがすかさず仰った。「虫なんかじゃない。神様が知らせたのよ。」その時、思ったそうです。「私は神と出会ってしまった」「神様の奇跡とはこういうことなのか」と。幼い頃から聞いていた神が、私の神として迫ってきたのです。天と地を創造された神、死者の中から私たちの初穂としてお甦りになられたイエス・キリストの父なる神が、他の誰でもない、この私の神として出会われたのです。

私たちに一人一人にとって、このような私の神との出会いは、同じように癒しの出来事にはよらないものかもしれません。それどころか、このような奇跡的な出来事によるものでもないかもしれません。

けれども、既に司式者によって朗読されました聖書の二つの出会いの出来事は、見える現実に逆らって、それどころか、主御自身がそっぽを向いているように見えるその所で、わたしはあなたの救い主であり、あなたの神であることを信じてほしいと願われる神の思いを語るのです。どのような試練の中でも、たとえ私がそっぽを向いているように思える時でも、信じていいんだ。信じることができるんだ。

主イエスの言葉が集中的に語られた山上の説教を終えて、今日から、マタイによる福音書第8章を読み始めます。

これを読みだすとすぐにお気づきになることと思いますが、今度は、主イエスの言葉ではなく、主イエスがなさった御業が集中的に語り出されています。

けれども、それは、今までの個所と分断された新しい段落というわけではありません。山上の説教の終わりで、主イエスの言葉が持つ権威について語られ、ここからは、その権威ある言葉の実際の姿が鮮やかに示されていると言って良いと思います。権威という主題がここからも続いている。

英語の聖書では、この「権威」と訳された言葉はオーソリティーって訳されます。それが正しい翻訳でしょう。しかし、ギリシア語の辞書を引くと、権限、権威、支配する力、威力と出てきますから、たとえば、パワーと仮に訳してみても良いかもしれない。その方が、主イエスの権威が何なのかわかりやすくなるかもしれません。権威とはパワーのこと。人々は主イエスの語り方を聞いて、この人は、パワーを持つ者としてお語りになったと感じたということだと思います。この人の言葉にはパワーがある。

しかし、パワーがある言葉だというと、誤解するかもしれません。パワーがある言葉とは、やたら元気で威勢のいいはつらつとした声だとか、重々しく厳かな宗教的口調だとか、論理的で説得力のある美しい言葉だとか、そういうものが、主イエスの言葉を聞いた群衆が感じた主イエスの言葉の権威、パワーだと理解してしかねません。

けれども、そういう誤解がないように、第8章では、その主イエスの言葉のパワーが具体的にどういうものであるか、目に見える形で現れた出来事を描いているのだと言えます。

主イエスが群衆と共に山から下りると、その御元に重い皮膚病を患った人が来て、ひれ伏し、懇願しました。

「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります。」

ある人が、印象深いことを言います。なぜ、主イエスは、山から下りると、まず、この重い皮膚病にかかっている者に出会ったのか?それこそが、重い皮膚病を患った者が、社会的に抹殺されていることのしるしだと言います。

なぜならば、この病を患う人は、人里に近づくことが許されなかったからです。この病を患った者に触れてはいけないとされていました。触れたら、同じように触った人が汚れるとされていました。

だから、健康な人と同じ場所に住むことが許されませんでした。家族から引き離され、重い皮膚病を患った者は、その者たちだけで、決められたところに離れて住みました。この病にかかった人は、風上に立つことさえ許されませんでした。人が近づけば、口を手で覆いながら、「汚れた者、汚れた者」と聞こえるように言って風下に移動しなければなりませんでした。自分の汚れが風に乗って風下の人に及ばないように、知らずに、人が触れてその人を汚れさせてしまうことがないように。

そういう人に忌み嫌われた病を、主イエスは清くする力がある。それが、主イエスの言葉の権威、パワーだと、マタイは鮮やかに語るのです。

ここから始まる奇跡物語において、聖書は、主イエスの権威、パワーがどういうものであるか語ります。それは、人の心を変える説得力を持つという類のものではありません。清め、癒し、悪霊を追い出す出来事を引き起こす言葉です。

哲学者であったキルケゴールというキリスト者は、本物の権威というものは、その権威ある人自身の説得力とか言葉の美しさとか、そういうものには依存しないのだと言いました。

どんなに言葉が下手であろうが、論理的に破綻していようが、有無を言わせず、その言葉通りに人や物事を従わせるのが真の権威だと言いました。

奇跡物語はそのようなキリストの権威ある言葉の力を語っています。キリストの権威は、人を社会的に抹殺してしまうような重い皮膚病を清め、ただ一言だけで、百人隊長の僕の麻痺を癒す力ある言葉だと。

けれども、主イエスという方は、御自身の言葉のそのような権威を、私たちが信じようが信じまいが、無関係に、働き続ける客観的力として、行使されることには何の関心もありません。

主イエスは、御自分の力が、ただ「私を救う権威」として私たち人間に知られ、信じられることを求められるのです。

だから、今日の聖書個所は、主イエスの権威の具体例が主題となっていると共に、その権威を信頼する私たち人間の側の信仰が主題となっています。

ここでは重い皮膚病を患った人の信仰が、もう一つの主題です。常識に従うならば、この人は山から下りてきた主イエスに出会っても、本当は主から離れていかなければならない者です。主を自分の病によって汚さないように、口を手で押さえ、「汚れた者、汚れた者」と言いながら、風下へと退かなければなりませんでした。

けれども、この人はそうしなかった。むしろ、さらに一歩主イエスに近づき、ひれ伏して拝みながら、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがお出来になります」と申し上げました。そこにこの人の信仰がありました。

御心とは、「望む」という言葉が用いられています。人がある一人の人に向かって、ひれ伏しながら、あなたが望むなら私は清くなりますという事態というのは、望むも望まないもあなた次第、私はどちらでも受け入れますというような悠長なことではないと思います。

その時、人は、あなたの望みが私の生命線です、あなただけが私を清められますと主イエスに頼り切っているのです。

主イエスはこの人に応えます。「よろしい。清くなれ。」この言葉は原文を見ますと、重い皮膚病を患っている人の言葉と響き合っている、わざわざ主イエスが、その者の言葉に寄せていった言葉であることに気付かされます。

病の人は主に言います。「もし、あなたがお望みになれば、あなたは、わたしを清くお出来になります。」主イエスは言います。「わたしは、望む。」

このような二人の間でなされた言葉の響き合いから、主イエスがどんなに、この人の信頼を喜ばれたかということがよく伝わってきます。

私は、望むよ。私はあなたを清くしたいんだ。そうだ私はあなたが信じる通り、そのことを望むんだ。主イエスは、信頼をしっかりと受け止めてくださる御方です。私の信頼の全てが丸ごと受け止められるのです。

けれども、そのことは、いつでも信頼を表明する者の期待を越えていくのだと思います。

この重い皮膚病を患った人の常識外れの行動、大胆な信仰は、実は、なお、主イエスの思いよりも、小さなものに過ぎなかったことは、そこで主イエスが取られた行動からはっきりとわかります。

主イエスは、重い皮膚病を患った人に触ります。人が忌み嫌った汚れに主イエスは触れられました。清めるだけでなく、触れることを望まれました。

次の百人隊長の僕の癒しの出来事を読めば、主イエスという方は、人を癒すために、その人に触れることを必要としていなかったということは明らかです。ただ、一言で、癒し、清めることがお出来になる。

けれども、隣り合った二つの出来事において、重い皮膚病を患う人には、主イエスはあえて、触れられました。治療のための必要不可欠な手段ではありません。

にもかかわらず、主イエスが手を伸ばして触れられるのは、重い皮膚病が損なってしまったその人間の傷口そのものの場所を主イエスがよくご存知であったからだと思います。何年も、もしかしたら何十年も、人の肌のぬくもりを忘れていた人です。そしてそれこそが、その病のもたらす痛みの中心であることを主はご存知であったのだろうと思います。

御心のままに、何でもお出来になる権威あるお方は、私たちがこの方にかけるどんな大きな期待、深い信頼を越えて、もっともっと素晴らしいことをしてくださるのです。

私はそれを望む。あなたを清めたい。あなたに触れたい。

だから、これは信仰を持つように、もっと日常的な言葉遣いをするならば、主イエスを徹底的に信頼するように私たちを励ますために記録された出来事です。

この重い皮膚病を患った者の記事は、私たちをして、主イエスをどこまでも信頼することへと励ましてくれます。常識的には、主イエスから離れていかなければならない者であっても、近づくことが許されています。どこまで信じても、私が願ったよりも、もっと良いことをしてくださるのです。

しかも、マタイという人が、この奇跡物語をただ一つ報告するだけでなく、畳みかけるように、もう一つ百人隊長との出会いの出来事を重ねて語ることによって、主が、私たちに限界を知らない信頼を呼び起こそうとしておられることが、誤解される余地のないようにされています。

マタイが続けて書く必要を感じたもう一つの出来事、それは主イエスが山から下り、町に入られた時、出会った一人の人、百人隊長との出会いです。百人隊長、ローマの兵隊です。

その人が、主イエスのお側に近寄り、頼みます。

「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」

新共同訳聖書では、主イエスは、この言葉を聞くと「わたしが行って、癒してあげよう」と仰ったと訳されています。

ところが、多くの学者は、この主イエスの御言葉は、全く別の形に訳せることを指摘します。たとえば、岩波書店から出ている新約聖書の翻訳はこういう風に主イエスのお答えを訳しています。

「私が行って、彼を治すのか」。疑問文です。明らかに否定的な響きが含まれています。

そこで、多くの学者が指摘することは、この出来事と、マタイによる福音書15:21以下のカナンの女の娘の癒しの出来事です。

自分の娘が悪霊に取りつかれたという異邦の女が、主イエスに叫びながら着いて行きました。「主よ、ダビデの子よ、憐れんでください。」

ところが、この女性との出会いにおける主イエスの最初の態度は、厳しいものでした。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」

聖書を受け継いできた選びの民、イスラエル、すなわちユダヤ人にわたしは遣わされている。外国人であるあなたのためにいるのではないという趣旨の言葉です。人を門前払いするような言葉です。

多くの学者は、今日私たちが聴いている百人隊長と主イエスの出会いもこれとよく似ているというのです。

主イエスのお言葉は、「わたしが行って治すのか?」という疑問文に訳せる。否定的な響きがあるのです。

おそらく、このような読み方は、説得力のあるものだと思います。なぜなら、その時、8節の百人隊長の答えもよく意味が通るようになるからです。

すなわち、「わたしが行って治すのか?」という主イエスの言葉に対して、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」という答えは、異邦人である自分のことをよく弁えた答えなのです。

自分は、仰る通り、主イエスを自分の家にお迎えできる資格のある者ではありませんと答えるのです。

主イエスの言葉は、厳しい言葉です。怒って帰ってしまっても仕方のない言葉であったかもしれません。

しかし、百人隊長は心折れることなく、ひたすら懇願いたします。確かに自分はあなたに何かをお願いできる立場ではありません。あなたにお越し願えるようなものではありません。けれども、主よ、たった一言でいいのです。お言葉をください。あなたの言葉には権威があり、私の僕を癒すことがお出来になるから、たった一言でいいんです。

そのことを真に兵隊らしい言葉で語ります。自分の部下は自分の言葉に忠実に従います。行けと言えば行きますし、来いと言えば来ます。命を懸けて命令を遂行します。権威ある言葉にはそのような実行力があります。あなたの言葉はその権威ある言葉ですと。

主イエスは、この百人隊長の言葉に感心したとあります。この感心したという言葉は、原語では、「驚かれた」という言葉です。これほどの信仰、これほどの信頼は、イスラエルの家の中でも見たことがないと主は驚かれました。

主イエスが驚かれるというのは、不思議な表現かもしれません。徹底的に信頼してほしいと望まれるお方が、その信頼を見つけられると驚いたというのは、少し、意外であるように思えます。私を信じることは、異邦人であっても、自然で当然のことだという思いを持たれても、それこそ当然であると思います。

けれども、主はこの百人隊長の徹底した信頼を驚かれました。その主の驚きを思い巡らしながら、たとえば、私の心に浮かんで来るのは、ルカによる福音書第15章に記された三つのたとえ話、失われた者が見出されると、法外に喜ぶ神の姿を語る主イエスの言葉です。

神は、人間の信頼を探し求めておられます。そして、一人の人が、悔い改めて、信頼を表明するとき、神の心はいてもたってもいられなくなり、どうしても動いてしまいます。その信頼を見い出したとき、神は爆発的に喜ぶのです。それが、百人隊長の信頼に心が激しく動かされる主イエスの驚きの内実だと思います。

驚くほどに主は百人隊長の信仰を喜ばれるのです。しかも、主が爆発的に喜ばれたという百人隊長の信頼とは、たった一言の主イエスの言葉にすがるその信頼の深さへの喜びであると共に、主イエスの言葉を突き破るようにしてまで、主イエスを自分を救う、この私の救い主としたその信頼を喜ぶ喜びであると思います。

あなたはただの救い主ではありません。私の救い主、私の主です。主イエスの躓きある言葉を乗り越えてまで表明されたその信頼を主は驚くばかりに喜ばれるのです。

私は、これは本当に心強い物語だと思います。私たちにとって、本当に勇気を与える物語であると思います。

山上の説教を終えられた、その主イエスの権威、力、そのご支配のもとに自分はあるんだと告白した者は、本当に、示唆深いことでありますが、当然、そう信じることができる者ではなかったのです。

選びの民でありながら、その神の選びの民の内から断たれた重い皮膚病を患った者であり、初めから神の選びの民とは全く関係のなかったローマの兵隊だったのです。

そういう者が、主イエスの権威ある言葉の恵みに与るのです。ふさわしくないと考えられた者の上にこそ、主イエスの力が実現されたのです。

この人たちは、世間の目や、常識どころではありません。主イエスの言葉すら突き破って、主イエスと自分の関係を見つけたのです。

しかも、主は、このようなふさわしさのかけらもない者にも、しぶしぶ仕方なしに、憐みを施すというのではまるでないのです。その彼らの常識と現実に逆らって表明される信頼を爆発的に喜んでくださるのです。この主の御心が、今も変わらずに、私たちに向けられている。その為に、この出来事が、今日ここで、語られています。

けれども、その信仰を見出しがたいことを神はどんなに深く悲しんでおられるか。神を当然、信ずべき者の中でさえ、それを見出すことが極めて難しいのです。主イエスは、「御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」という言葉を、それこそ、悲しい思いで語らなければならなかったのだと思います。

私はあなたの救い主だとキリストの差し出す御手を押しのけるゆえに、自分から滅びへと突き進んでいってしまう人間です。

しかし、その人間の姿を語る主イエスの裁きの言葉を恐れをもって聴きながらも、主なる神が、この私の神となるというその覚悟を決して捨てられなかったゆえに、主イエスの十字架がこの世界に打ち立てられたことを深い思いで知る私たちです。主イエスは、神を信頼しない故に、人間の受けるべき裁きの孤独を十字架で独り耐えてくださったのです。

しかも、それこそが、主の力の出来事そのものでした。人を清め、病を癒し、悪霊を追い出し、それらはすべて、主が人の罪を滅ぼし、人を全くご自身の者としてしまうための、神の力ある権威が勝利した出来事でした。やがて、私たちは地上の命を終えます。けれども、生きる時も、死ぬ時も、人の主人は、もはや罪と死ではなく、イエス・キリストの父なる神なのです。それは、人間の業ではなく、ただ神の権威がなす出来事です。

けれども、それだけに、主は、そんな私たちの信仰、信頼を、驚くばかりに喜んでくださるのです。得難い宝物が見つかったと私たちの信仰を喜んでくださるのです。

しかも、そのような神の喜び、神の驚きを引き起こす私たちの信仰とは、私たちを救いたいと願われる、ひたすら私たちのための神の御心を、信じるということ以外ではありません。神は私の神としてその身を向けていてくださるのです。

そのように私たちの神となり、私たちの信仰を喜んでくださることを思うと、私たちの信仰は燃えずにはおれません。その神に信頼することは、私たち人間にとって、全く当然のことです。

また、それだからこそ、私たちは、その自分の信仰を誇ることはありません。やがて主イエスが、マタイによる福音書11:25で語られるお言葉、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」という祈りを、私たち自身の告白とさせていただくのです。

この神を、私の神として今、信じさせていただいているのです。私たちがその方を私の神と信じているというその事実において、既に、神の権威が現実となっています。すなわち、神は、この私の神として、今日も、ここで身を向けていてくださっているのです。

コメント

この記事へのコメントはありません。