父の心をわが心とする  長老奨励

ルカによる福音書 15:11~32  宮川美恵子長老

この放蕩息子のたとえはとても有名なたとえで、私たちもいろいろな説教を聞いてきました。私はこのたとえを聞いていつも気にかかるのがお兄さんです。

お兄さんはなぜ僕を呼んで話を聞いたのだろう?どうしてすぐお父さんに聞かなかったのだろう?お兄さんはこれまで弟を心配していなかったのだろうか?また、お兄さんが嫉妬するのは当然ではないだろうか?お兄さんはこの後どうしたのだろうか? そんな疑問がいっぱい私の中にわいてくるのです。

 

このたとえ話はルカによる福音書の15章の始めから続いています。

イエス様は「徴税人や罪人」たちが話を聞こうとやってきたときに、「ファリサイ派の人々や律法学者」から責められるのです。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」「律法違反ではないか」と責められるわけです。律法学者たちは、この兄の立場に似ています。

 

そこでイエス様がたとえを3つ話されます。

1つめは「見失った羊のたとえ」です。99匹の羊を野原に残して1匹を探し出し、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言います。

2つめは「無くした銀貨のたとえ」です。それは私たちにもよくわかるたとえです。私たちは10万円持っていても、その中の1万円を見失ったら大変だといって必死で探すでしょう。思い出そうとするでしょう。そして見つけたら本当に喜んで、神様が見つけてくださったと感謝して献金してしまうかもしれません。ここでもイエス様は「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と言っています。

 

これらのたとえについても、99匹を野原に残しておけるだろうか?あるいは悔い改めの必要のない正しい人がいるのだろうか?という疑問や、銀貨を1枚みつけたくらいで「一緒に喜んでください」と言うだろうか?という疑問を覚える方もいるかもしれません。でも主イエスは「一人の罪人が悔い改めたら、天では大きな喜びがある」とおっしゃいます。

 

そして3つめがこの放蕩息子のたとえですから、一人の人が悔い改めると天の父はこんなにも喜んでくださる、1匹の羊ではなく、1枚の銀貨ではなく、遠く離れていた我が子が悔い改めて帰ってきたのですから心から喜んで下さるということをまず読み取っておきたいと思います。私の父が終戦後1年ほど経って、昭和21年6月10日に満州から金沢へ帰ってきたとき、父の母は風邪をひいて寝込んでいたのだそうですけれども、飛び起きて畑に行き、さやえんどうをもいで味噌汁を作ったのだそうです。父の母の病気はすっかり飛んでいってしまい、さやえんどうの味噌汁は父にとって生涯忘れられない味になったのです。この地上の親子ですらそうなのですから、真の父なる神様は本当に私たちが神様のところに帰ってきたことを喜んでくれると思います。

でも私にはこの兄はどうなるのだろう、この兄は救われないのだろうか、もし自分が兄のような立場に立ったなら、どうすればよかったのだろうという疑問がずっと残っていました。実は私は2人兄弟の姉で下に弟がいるからかもしれません。この教会でも弟息子のような人を迎え、自分が兄息子のようだと感じたことがあるからかもしれません。

 

聖書を丁寧に読んでいきたいと思います。

12節で弟がお父さんに「私がいただくことになっている財産の分け前を下さい」と言います。今で言うなら「生前贈与」ということになります。みなさんは「生前贈与」をしますか?この弟は「生前贈与」の要求をお父さんに突きつけたことになります。弟はずいぶん図々しい気がします。生意気で自信満々な気がします。お父さんは弟に甘いのか、言う通りにします。そしてお父さんはお兄さんにも財産を分けます。私はこのお父さんは二人の息子を信頼しきった気前のよいお父さんだと思います。

 

「何日もたたないうちに」弟息子はまじめに働くのがイヤになって遠くへ行き、放蕩の限りを尽くし財産を全部使い切ってしまいます。お父さんはきっとそうなっているのではないかと想像できたのではないかと思います。でも、昔は盗賊や強盗、それに獅子もいたそうですからもしかしたら獅子に食べられてしまったのではないか、と心配していたかもしれません。親は子どもが幾つになっても親ですから、絶対心配でたまらなかったはずです。

 

一方、兄息子は弟のことをどう思っていたのでしょうか?「もう本当に何を考えてるんだ。どうして手伝ってくれないんだ」と強い不満を抱いて、裁いていたかもしれません。私はこの弟息子のような人が現実にそばにいたら「すごく嫌な人」「アブナイ人」という印象をもちます。兄息子にすれば父や兄を助けるのが弟として当然だ、という思いがあったと思います。お父さんが心配して弟の話をすると兄息子はおもしろくない顔をしたと思います。だから、お父さんはだんだん兄息子に弟のことを話しづらくなったと思います。

 

兄息子はお父さんをよく助けて真面目に働き、お父さんの言いつけに逆らったことは一度もありません。でもきっと弟の話はしにくい状況になっていたと思います。弟の話がしにくいことがきっかけで、他の話もしにくくなって一緒に働いてはいるけれども、あまり会話のない毎日が続いていたのではないでしょうか?ですから、ある日、家がにぎやかでどうしたんだろう?と思った時、すぐ「お父さん、どうしたの?」と聞かずに、わざわざ僕を呼んで尋ねたんだと思います。弟息子だけでなく兄息子の心もまた父から遠く離れていたと言えると思います。

兄息子はそこで子牛をごちそうしていると聞いて腹を立てます。自分と弟を比べます。自分は真面目。弟は不真面目。自分は父を助けている。弟は父を心配させている。自分は言いつけ通りにしている。弟は言いつけなんか一度も守らない。自分は正しい。弟は罪人。自分は聖い。弟は汚れている。自分は自分を律して立派にがんばってきた。弟は自堕落に父の財産を食いつぶした。どう考えても自分は正しい。弟は間違っている・・・。それなのに、なんで父は自分には子山羊1匹くれないのに弟には牛なんだ!一生懸命がんばった自分への愛は少なくて、ただ帰ってきたと言うだけの弟への愛がずっと大きいなんてお父さんはどうかしている!と兄息子は感じて喜びよりも嫉妬心で頭にきたのではないかと思います。兄息子自身もまた自由な人ではありません。

 

私は放蕩の限りを尽くす弟息子の気持ちはよくわかりません。でも、兄息子の気持ちを想像できるのは私自身が、そして多くのクリスチャンが兄息子と似ているからだと思います。真面目に聖書を読み、十戒を守ろうと努力してきたクリスチャンはしばしばファリサイ人のようになって「裁く人」になってしまいます。

では、兄息子はどうすれば良かったのでしょうか?

教会報に以前書いたことがあるのですが「ナゲキバト」という小説を読んだときに、この疑問がぱっと解決したように思いました。兄は「父の心をわが心とすれ」ばよいのです。父があんなに喜んでいる、私もうれしい。父があんなに悲しんでいる。私も悲しい。父のために何をしてあげられるだろうか?父の悲しみをどうやって慰めてやろうか、というふうに「父の心をわが心とする生活」を日々送るのです。兄自身がいつも「父に帰る生活」ができていれば弟が帰ってきたときにも「お父さん、良かったね」と言えると思うのです。

 

「ナゲキバト」という小説では、兄はそのように行動します。放蕩の限りを尽くした弟が牢屋の中から家に手紙を書いてきたとき、その手紙を読んで悲しむと同時に、居所が分かったとお父さんは喜びます。でもお父さんにはもう弟の罪を弁償するだけのお金がありません。そこで兄は自分の財産を売って弟を買い戻すことを父に提案します。そしてお金をつくりお兄さん自らが長い旅をして弟を牢屋から救い出すのです。小説はここで終わらずにまだ続きます。家に近づいた弟は素直に悔い改めず、自分なんかお父さんにあわせる顔がないと言って納屋に入り、持っていたカンテラを干し草に投げつけるのです。納屋はあっという間に炎につつまれます。兄は燃えさかる炎の中、なんとか弟を担いで納屋の入り口までたどりつきますが、そこで力尽き倒れます。畑から帰ってきた父は倒れている二人を発見しますが、二人を同時に助けることはできません。押し寄せる炎を前にしてどちらか一人しか助けることはできないのです。一人だけならなんとか助けられるかもしれない状況です。そこで、お父さんはどちらを助けたと思いますか?まだ悔い改めていない弟を助けるのです。兄はそのまま炎につつまれていきます。

再び聖書に帰りたいと思います。兄息子は一生懸命言いつけを守り働いていました。でもいつしか父との会話が減り、父の心がわからなくなっていたのではないでしょうか?

律法学者についてマタイ15章ではイエス様は「偽善者たちよ」と呼びかけ、イザヤの預言を引用しています。

「この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。

人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている」

律法学者は自分の力で努力して神様に義とされようとします。毎日呼びかける主の言葉を聞くより、自分の計画を優先します。

私たちもしばしばそうなります。「クリスチャンなら毎朝必ず聖書を読まねばならない」とか、「奥まった部屋で机に向かって祈らねばならない」とか「ねばならない」を自分で作り出します。そうするとたとえそれがどんなにいいことであっても「人を裁く道具」になってしまいます。「あの人は祈りが足りない」「あの人は聖書がわかっていない」と直接口には出さなくても心の中で人を裁くようになります。イエス様の時代のファリサイ派顔負けのパリッパリのファリサイ人が仕上がります。そして自分で作り出した律法や目標に気をとられ「父の心」を見失ってしまうのでしょう。

大澤先生は6月11日に第11回目の説教の中で、堀江先生は金沢元町教会に赴任したときから「自由と解放」の説教を語ることを心がけていたと話されました。つまり、私たちは15年間、罪からの解放と自由の説教を聞いていたことになります。その結果、教会の中に自由な明るさがあふれているように思います。解放して放任したわけではありません。自分の思いとおりに好きなようにしなさい、罪あるままに自分の思いを優先させて好きなようにやりなさい、というわけではもちろんありません。解放して「イエス・キリスト」に結びつけてくださったのです。イエス・キリストにつながることで罪からも解放され、「神の子」として自由に生きよとおっしゃってくださいました。堀江先生の説教集のタイトルは「聖霊と共に歩む」です。律法ではなく、キリストに結ばれ聖霊に導かれて歩む生き方をすすめてくださったのです。

 

私自身、実は「聖霊に導かれて歩む生き方」、「父の心を求めて歩む生き方」は少し「しんどいなあ」と思うことがあります。それより人間の決まり事に従って「ねばならない」で歩んだ方が楽だと感じるのです。

でも兄息子の心をお父さんは全部わかっていたように、私たちのことも神様は全部わかっていてくださいます。放蕩息子のたとえでは、すぐお父さんが出てきて兄息子をなだめます。宴会をほっぽり出して兄息子に駆け寄ります。なだめられても兄息子はがまんできません。そこで文句を言いつのります。お父さんは必死でなだめます。「わたしはいつもおまえといるではないか。わたしのものは全部おまえのものだよ。」

 

兄息子への語りかけはわたしたちに対して今もなされていると思われます。「私はお前を愛しているよ」と。私たちが神様に不満を言いつのっても神様の愛は揺るぎません。

私たちは振り向けばそこに主が立っていてくださるのです。わたしたちへの愛のために必死で働き、いつも祈り、十字架をかついでガルバリの丘を登られた主。「わたしはいつもお前といるよ」「お前の気持ちは全部わかっているよ」と語りかけてくださる主がいるのです。わたしたちは振り向くだけでファリサイ化する自分の心から解放され、父の心を身体いっぱいに吸い込むことになるでしょう。

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