最強の神の愛

12月29日 大澤みずき牧師説教 「最強の神の愛」ローマの信徒への手紙8章31-39節

私たちに今日与えられました聖書は、大変豊かな内容をもっています。ある説教者は、この箇所で3回に分けて説教していました。ですから、たった1回で説くにはもったいないようなところでもあるのですが、ハイデルベルク信仰問答の問28の参考箇所として挙げられていますので、そこで語ろうとしているところに集中しながら、聞いていきたいと思います。

ローマの信徒への手紙8章31節以下というのは、1章からのまとめのような役割をもっている部分であると言われます。書き手のパウロは、ローマの信仰者に向けて、キリストの救いとは何かを1章から、直前の8章30節まで記しています。そして、その締めくくりとして、31節以下を記しています。そこで、パウロが伝えたことは何かと言いますと、キリストの愛についてです。

1章からキリストの救いとは何かを語ってきて、そのまとめとも言えるところで、締めくくるところで集中して語るのは、キリストに表された神の愛についてなのです。

私たちは、おそらく、教会が信じる神様は愛の神様であるということは、信仰者や教会に来たことがある人だけではなくて、教会に足を踏み入れたことがないという人も知っている人が多いと思います。教会学校では、短い暗唱聖句として、「神は愛です。」と覚えたりします。教会の常識に思えるようなことです。それだけに、心地よく受け入れてすっと通りすぎそうになりますが、私は、この説教のために改めて、パウロの言葉を読んで、キリストに表された神の愛を深い感動をもって受け止めさせていただきました。

 

私は、説教準備をする中で、必ずしていますのは、様々な翻訳の聖書を読むということです。そうして、いくつか読む中で、とても気になる翻訳箇所が出てきました。それは、37節の口語訳です。37節で「輝かしい勝利を収めています。」と新共同訳が訳しているところで、口語訳は、「勝ち得て余りある」と訳しているのです。言葉として馴染みがあるのは、新共同訳であると思います。けれども、少し違和感のある翻訳と感じさせた口語訳が私の心に留まりました。古い言い回しのようですが、ただの勝利じゃないのだということが強く迫ってきました。

ここで、勝利しているとは、35節に並べられた神の愛から私たちを引き離そうとする代表的な7つの厳しい事柄に対してです。この中の1つだけでも、十分に神様の愛から離れるきっかけになり得るものだと思えるものですけれども、それが7つ並べられています。聖書で7とは、完全数を指しますから、ここに並べられた神様の愛を受けるのを妨げる障害は、完全なものです。

 

しかし、それにも関わらず、37節では、それらの完全な障害に勝って、余りがあると言うのです。神様は、これ以上は望めないほどの圧倒的勝利を収めていると告げるのです。単なる勝利じゃない。勝って余りある勝利です。

 

勝利は勝利だから、そこに余りがあるっていったいどんなことなのかとピンとこないという方もおられるかもしれません。聖書は翻訳されたものですから、なかなか原語のニュアンスを上手に汲むことが難しい場合があります。この言葉もまた、翻訳者がかなり考え抜いた訳であると思います。ここでは、新共同訳よりも、原語の意味をよく反映できた表現かもしれません。ギリシア語の意味をたどりますと、単なる勝利ではなくて、勝利におまけがついて、勝利以上のものを得るという意味がある言葉です。勝利に余りが出るとどうなるか?そこに安心が生まれるのです。

 

スポーツの試合に例えるならば、トーナメント戦の途中の勝利ではないのです。決勝で勝ち抜いて優勝することに例えることができるかもしれません。最終決戦、これ以上試合がないところでの勝利、決定的な勝利の確定を意味してるのです。戦う相手がいない、もう戦わなくてよい安心。そのような勝利を与えられているのがキリストの救いに預かったキリスト者なのだとパウロはここで語っているのです。

 

信仰が与えられるというのは、そういう、勝利以上の勝利をいただくことです。だから、次の人生の試練が来たら神様の愛から離れてしまうというような不安定であやふやなものを与えられているのではないのです。二度は耐えられたが、三度目はダメだったというようなそういうあやふやのものではありません。

目の前で巨大に見える試練が山のように迫ってきてもなお、神の愛の前には小さいと言わざるを得ない。なぜなら、人生に起こる厳しい出来事の最終結末にすでに、イエス様が勝利しておられるからです。この出来事が身に起こったら死に至るのではないか、命が脅かされるのではないかということが最も大きいこととして感じられる時、私たちは動揺するんです。全てを奪われるのではないかと不安になります。死ぬべき存在の私たちは常に根本的な不安を抱えています。死の問題は大きいのです。だから、私たちの文化は死を忌み嫌ったりするのです。けれども、死はいつも私たちのところにあります。

しかし、キリストは、私たちの先頭となって、死よりよみがえり、復活されました。それらの私たちを滅ぼしてしまうような事柄にけりをつけてしまっているのです。32節から34節はそのことを鮮やかに語りだしています。しかも、34節によれば、誰も敵対できないように、今もイエス様が、「神様、この者たちをこれからもずっと離さないでください。」と執り成して祈ってくださる念の入れようです。

神様の愛が、私たちに迫る数々の試練に対してそのように圧倒的に強いものであるならば、わたしたちのところにあるものは、もう大丈夫なんだという平安なのです。

 

1年を締めくくるこの時期に、本当にいろんなことを思い出します。クリスマスカードや年賀状を書くということがそういう機会をもたらすのかもしれません。今年もいろいろなことがありました。皆さんも様々なことを思い出すと思います。いろんなことがあった1年でした。先ほど語られた、7つの神様の愛を妨げるものをいくつも経験したという人もいらっしゃると思います。私もそうです。しかし、そういう私たちが、今礼拝の席に座っていること、神様の愛を聞いていること、それは何よりも、神様が愛を注ぎ、それを妨げるあらゆる力に勝利してくださったことの現れです。喜んで感謝してよいことです。ですからちょうど、歳末礼拝に相応しい聖書が与えられたと、そのことでも神様の生きて働く力を感じました。

 

けれども、同時にまだまだこの神様の愛から離そうとする試みの中で静かに忍耐が続くという方もおられると思います。逆風の中で漕ぎなやむような思いでいる方がおられると思います。神様が私たちに降りかかる試みに勝利しているということはどういうことか、この時こそ、私たちの心に強く問いかけてくるものです。

 

そういう私たちを深いところから励ますように、ハイデルベルク信仰問答の問27問28は、神の摂理、すなわち、神様の全能なる今働く力と、その摂理の信仰が私たちに与える利益を確めて、どんな時も安心して生きることができるようにと導いてくれます。

 

厳しい試練というのは、私たちの心を激しく揺さぶるものです。神様の存在とその愛を疑うようにと仕向けるものです。けれども、問27で、激しい試みのときにも、神の手が働いているのだと信じることが許されていると言います。私たちは、人生がうまくいっているときは、比較的神様の手が働いていることを受け入れやすいかもしれません。

 

けれども、逆境のとき、しばしば、神様が隠れてしまって、休んでおられるのではないかと思ったりする。ちょうど、嵐の舟の中で、弟子が漕ぎなやんでいる横で、眠っていたイエス様を見るような思いです。どうして、目に見えて動いてくださらないのか、あなたが積極的に動いて助けてくださる姿を見たいと弟子たち同様に思うのです。そうこうするうちに、目に見えて何も起こらないと、試練が神様の力よりも大きく感じ、不安が増していくということがあります。波が実際にも増して大きく見えて、いつしか、それだけが圧倒的な現実のように思ってしまいます。

 

そういう思いを抱きがちな私たちに対して、問27の答えは、目をみはるものです。神様の今働く力はいい時も悪い時もどちらの時も働いているのだと言うのです。この言葉を味わうときに、私たちはあまりにも自己中心的に神様を感じようとしていることに気付かされます。それはどういうことかと言いますと、私たちは自分にとって悪い時は、神様の力が及ばないとき何もしていない時だと簡単に思ってしまう。しかし、神様は、この世界を造り治めておられる神様ですから、私たちの小さな理解の枠の中だけでお働きになるのではなくて、私たちが理解できなくても、どんなに私たちにとって悪い時も、手を休めておられるのではないということをはっきりと言うのです。

 

ここで大切なのは、全能の力です。つまり、この世界をつくり保ち、支配する力が、どのような時にも現実に働いているということです。神様は、何もないところからこの世界をお造りになられた方です。だから、私たちの日常に起こるこんなことには神様の力は及ばないのだと思うことはできないと言わなければなりません。ハイデルベルクの問い27の答えは、そのことを具体的に私たちに示してくれます。「木の葉も草も、雨もひでりも、実り豊かな年も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も病気も、富も貧しさも」といずれも私たちの生活そのものです。いい時だけではないのです。厳しいときにもそれらが神様から来る、そして、そのことを信じるときに、問28の答えに行き着くのです。不遇の中で忍耐強く、幸福に感謝し、未来を父なる神に信頼し、神の愛から離れさせることはできないようにとされるのです。

 

たとえ、試練の中で、私たちが神様を見失うときも、神様は構わず力を注いでおられる。私たちを離さないためです。そのためには、片時も手を緩めることがないのです。

「しかし、まだ私たちが罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」とローマの信徒への手紙5:8に記されているように、私たちがイエス様の敵であったときにさえ、神様は既に十分な愛を注いでくださいました。試練に対抗する勝利の力は圧倒的なものであることは、既にお話した通りです。その力を絶えず、働かせてくださっているということ、それが人間の側がどんな状況でもそうなのです。

 

だから、その神様の今働く力を信じるときに、私たちは、逆境で忍耐強く、順境において感謝する生き方ができるのです。勝ち得て余りある生き方とは、神様の愛が、どんなときも貫き通されるという確信に支えられて与えられる平安のうちに生きることです。38節39節はそのことを心に刻むように私たちに語りかける言葉です。この平安がある時に、私たちの足は前に進めるのです。

 

 

私たちが今日も祝っていますクリスマスの出来事もまた、そのような信仰に招かれていることを言い表しています。私たちのためにお生まれになった救い主は、家畜小屋の飼い葉おけに眠る幼子でした。およそ、順境とは言い難い誕生の次第でした。結婚前のマリアが身ごもり、住民登録のために長旅を強いられ、生まれるときには、まともな宿もなかったのです。どこで命を落としていてもおかしくない状況が隣り合わせでした。

しかし、そのようなところに、御子がお生まれになりました。逆境の只中に神の愛が表されました。そのご生涯もまた、逆境の連続であり、行き着くところは十字架刑とあらかじめ定められていました。死の中の死です。神様は眠っておられたからそのようになったのでしょうか。違うのです。神様は、私たちよりもずっと覚めておられました。私たちよりもはっきり世界の様子をご存じでした。だからこそ、これらの出来事は起こったのです。私たちを愛するために、私たちの想像をはるかに超える私たちへの愛を貫くために、一つも滞りなく進められました。それも、一方的な神様の力によって成し遂げられたのです。独り子が十字架にかかるという最悪な出来事です。けれども、神様は、その出来事を私たちへの最強の愛として差し出してくださったのです。それは、御子の命以上に私たちを愛したからに他なりません。

 

私たちの現実は、いつでも順風満帆とはいきません。思い通りにならないことの連続かもしれません。けれども、だからと言って、神様は何もしておられないのではないのです。逆風の時もまた、絶え間なく働いてくださっています。私たちを二度と離さないと。

 

その神様の働きを知るとき、私たちは、日常に起きる厳しい出来事の中にあっても、耐える力が与えられ、離れず共にいてくださる神様の恵の中で、歩みを進めていくのです。

 

私たちが動揺すべきなのは、試みではなくて、絶大な神の愛に対してこそ動揺すべきです。驚くほどの愛です。だからこそ、限りない安心が与えられるのです。神の愛の射程距離は際限がありません。

 

皆さんもよく知っておられると思いますが、12月4日に中村哲さんというアフガニスタンで医療活動をなさっていたキリスト者の医師がなくなりました。テレビで随分追悼の番組が放映されていましたが、アフガニスタンというところは、ご存じのように紛争地です。日々、命の危険と隣合わせというところです。ここで活動するということは、不安が勝ったら行くことができないところであったと思います。中村さんが、そこに足を向け続けることができたのは、1人のキリスト者として、この神様の平安に支えられて日常として受け入れて行ったからだと思います。今はわたしたちにもわかります。

 

中村さんだけが特別なのではないのです。私たちも、同じ神様の平安が与えられています。どんな困難も打ち破ることのできない平安です。その神様の平安に支えられて、目の前の道を歩めるのです。

 

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」という39節の言葉は、私の愛は、あなたの不安よりも大きい。あなたの苦しみよりずっと強い。私はあなたを決して離さない。そうおしゃる神様の声なのです。

 

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