新しい見方

 

Ⅱコリント5:11-18

 今日お読みしました聖書の初めの方に印象深い「ありのまま」という言葉が書かれていました。パウロという人が、神の御前に「ありのまま」に知られているように、仲間のキリスト者たちにも、「ありのまま」に知られたいという願いを述べている言葉です。「ありのまま」という言葉は、私達の心にもすっと届く言葉であり、多くの人にとっては、それは決して嫌な言葉ではなくて、なんだか心をほっとさせるような連想がすぐに続く、そんな種類の言葉ではないかと思います。「ありのままの姿を見せる。ありのままの自分になる。」という多くの人の心を捕らえたディズニー映画「アナと雪の女王」の歌のフレーズは、今さらながら、我が家で、子ども達のリクエストに応えて、毎晩のように流れています。 私たちは、誰しもどこか自分の本当の思いを隠しながら、生きているという後ろめたさを抱えながら生きているものだと思います。ありのままの自分を知られたら困るという思いを持ちながら過ごしている所があるかと思います。

 人前に出られる格好、人前に出られる顔、人前に出られる言葉遣い、人前に出られる心、そういうものを全く意識して整えなくても、一人でいる時も、家族の中にいる時も、友人といる時も、職場の人といる時も、どこにいる時も誰の前でも、いつでも何も変わらないということは、なかなかあり得ないのではないかと思います。

 もちろん、他者と一緒に気持ちよく過ごすためには、人を不快にさせないだけの最低限の配慮というのは必要なことかもしれません。先日、私がご飯に味噌汁をかけて食べようとしたら、子供たちがさっそく真似をしまして、3人して「人前で、そういう食べ方をするのは、お行儀が悪い」と妻に叱られました。もちろん、私は、教会でお昼を頂くときは、そういうことはしません。ちゃんと人目を気にします。そのような礼儀作法を守ることは、ストレスとはならない些細なことかもしれません。けれども、全てがそんな簡単なことではすみません。人目を気にして言いたいことを言えない。したいことができない。感情を抑え込み続けることは、実際に、私たちの心身の不調にまで発展するということは、もはや、常識的な理解です。

 12節には、「内面ではなく、外面を誇っている」という言葉がありますが、外面を整え、誇る思いの裏には、しばしば、抑圧された自信のない内面の問題が隠れ潜んでいるものだと思います。だから、「神の前にありのままに知られている」「仲間のキリスト者にもありのままに知られたい」というパウロの言葉には、近代心理学が取り扱うような問題が、あるいはそれに大きく接するような話題が、取り扱われているように見えます。その場合、精神分析家の元に来る患者の心と体の癒しが起こるためには、その患者自身に、抑圧されてしまっている感情や、記憶を呼び戻してあげることによって、すなわち、ありのままの自分を発見させることによって、癒しが与えられるという道筋を目指します。これは、私たちの日常のことを考えても、何も難しい分からないことではありません。かしこまった緊張状態が続いた時は、気の置けない家族や仲間との時間を過ごすことによって、心も体も緩んで元気を回復いたします。

 私たちは、この教会のことを神の家族と呼んでいます。私たちが神を父と呼び、教会を神の家族と呼ぶとき、私たちはこの教会を自分たちのホームと考えてよいということを含んでいると思います。よそ行きの顔で集う所でもないし、教会にいるときはがちがちに緊張してしまうということがふさわしいことであるとも思いません。神が私たちの父であり、ここに集う者は、家族であり、だから、ここは新しい実家であると言うこともできるのではないかと思います。平日様々違う場所で生きている者たちが、日曜になると、実家に帰ってくる。そして、説教と聖餐という実家のご飯を食べる。それは、おふくろの味というか、父なる神さまですから、おやじの味ですね。それで、元気を回復する。そういう風に教会生活をイメージすることもできると思います。教会では、ありのままでいて良いんだ。ありのままの自分になれる場所が教会だとそう言えます。確かにそうだと思います。先週の説教でコーラム・デオというお話をしました。「神のみ顔に」という意味を持つ、改革派教会の特徴的な信仰表現の言葉です。

 この言葉を紹介した時に申しました。神のみ顔の前で生きるということは、誰が見ていなくてもお天道さんが見ているんだから、謹んで生きなければならないというような感覚ばかりを与えるものじゃない。私たちがその御顔の前に隠されることなく生きている神さまとは、主イエス・キリストを私たちのために送ってくださった神さまなんだ。私たちの罪を全部ご承知の上で、イエス様によって、私たちの罪を全て帳消しにしてくださった神様なんだ。私たちの慈しみ深い父である神さまのみ顔の前に生きるのです。弱さも罪も隠さないのです。この方には本当にありのままに知られた上で、罪贖われ、子とされたのです。だから、自分の生まれた実の家族は、決して気の置けない家族ではなく、息の詰まるような緊張の日々を過ごしたという人も、赦しの父である新しいこの実家では、ホッと一息でも、二息でも、ついて良いのです。

 14節に「一人の方がすべての人のために死んでくださった」とあります。イエス・キリストのことです。このお方は、私たちのために死んでくださいました。「その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んでくださった方のために生きることなのです。」とあります。私たちはもはや自分のために生きないというこの言葉は、本当に深い慰めの言葉であると思います。キリストが私のために、ひたすら生きてくださり、いや死んでくださったゆえに、もう自分のために生きなくても良いということです。私たちが自分の命や自分の救いのために、自分で配慮して、成し遂げなければならないことはありません。自分のためにすべきことは根本的には何も残っていません。キリストが代わってしてくださった救いを喜び、味わうことだけが、自分のためにすることです。あとは、「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」のです。九死に一生を得た人が、これから先の人生は、頂いた人生だから、儲かった命だから、後は、自分の為じゃなくて誰かのために生きるということをこの世でも聞くことがありますが、キリストに結ばれた者の人生も皆そういう人生になるということだと思います。

 そのようなキリスト者である私たちに託されたキリストのための生き方、父なる神のための生き方がどのようなものであるかが、16節以下に記されています。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。」

 「それで」とあります。つまり、前の文章を受けてということです。自分の為ではなく、キリストのために生きるようになった私達は、「今後だれをも肉に従って知ろうとしない」のです。「だれをも」とあります。キリストだけのために生きるようになるというのならば、普通、その次に続く文章の「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」とだけ、書いた方が、繋がりが良かったかもしれません。

 世の中には確かにキリストを知る色々な知り方があります。革命家と捉えたり、偉大な道徳家と捉えたり、夢想家と捉えたり、ペテン師と捉える捉え方だって主張する者はいるかもしれません。けれども、キリストがこの私のために死んでくださった方、死んだだけでなくて、この私の絶えに甦ってもくださった方だと信じるようになった者は、他の知り方は決定的なものではなくなるのです。革命家と言える側面があるかもしれない、道徳的模範と言える部分があるかもしれない。けれども、この2000年の時空を隔てたこの今を生きる私の罪を担い、赦してくださった方だということが、心に迫るならば、それを信じる信仰が与えられるならば、古い知り方は、過ぎ去るのです。

 「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」とは、そういうことを言っていると思います。まさに、パウロの実体験として、生けるキリストに出会うまでは、異端の罪で十字架で処刑された異端者でしかなかったイエスが、今や、彼の救い主となり、主人となって下さったのです。それ以外の知り方をもうしないのです。

 ところが、わたしがいつでも驚かされることは、キリストの為だけに生きる者とされた私たちキリスト者たちは、キリストのみを見る時、「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとしません」という言葉が、必ず、セットになって視界に入ってくるのです。しかも、今日の個所では、キリストに対する新しい見方に先立って、人に対する新しい見方が話題にされています。キリストのみを見上げる時、人間が視野に入ってくる。驚くべきことですが、必ずそうなのだと色々な機会に教えられます。しかし、考えて見れば当然だと思います。主イエスの歩みもまた父なる神の御心にひたすらに忠実な歩みでしたが、その父なる神の御心とは、私たちを救うことでした。父なる神の瞳には、人間が写っています。だから、キリストのみを見上げること、父なる神に従うことは、そのままキリストがその者の為に生きた隣人の利益に直結するのであり、また、キリストがその罪人のために生きたこの私の利益に直結するのだと思います。

 新しい仕方でキリストを知ったキリスト者によってもたらされる、隣人にも、自分にも、すなわち人間にもたらされる利益とは、人間をも新しい者として知るようになるということだと思います。「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。」新しい仕方でキリストを知らされた者は、人間をも新しい仕方で見直します。

 じゃあ、どう知るのか?17節「キリスト結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」この新しく創造された者とは、さらに18節に進めば、はっきりとこういう者だと言えます。すなわち、「キリストを通して神と和解した者」です。

 私たちは、今日の御言葉を「ありのまま」という言葉から、はじまって聞いてまいりました。「ありのままに知られる」ということを神の御前で飾ることのない本当の自分でいられる恵みだと考えました。私たちの罪を私たちよりもよく知っていてくださる神の前に、赦されて置かれていることだと考えました。けれども、私たちは、ここに至って、「ありのままに知られる」ということを、もう一歩深く考えなければならないのだと思います。私たちのために死んでくださったキリストを通して、ただ、このお方のゆえに、このお方のために生まれた新しい私たちのありのままがあるのではないか?その新しい私たちのありのままとは、罪の私たちではなくて、神と和解した私たちではないか?そしてその私たちは、17節で、「新しく創造された者」と言われるほど、古い罪に縛られたありのままの私たちとは、全く違った私たちなのではないか?それは「肉に従った」見方を止める時に見えてくる新しい私たちの姿です。「肉に従った見方」の反対は、ここでは、「キリストと結ばれた」見方と言えるかもしれませんが、聖書全体から言えば、「霊に従った」見方であると言うのが自然かもしれません。「肉に従って知ろうとはしません」という言い方は、その可能性が、全くないということではなくて、肉に従った知り方もなお存在するけれど、キリストに結ばれた者は、その方法をキリストのためにあえて捨てて、人間をも霊的な見方をするということだと思います。

 先週も引用しましたルドルフ・ボーレンという神学者が、この霊に従った見方を次のように総括してくれました。それは、精神分析学との類比で、精神分析学が、今ある人間を過去のトラウマの出来事から読み解こうとするのに対して、霊に従った見方は、「インマヌエルの地平においてひとりの人間を知覚することである」と言いました。インマヌエル、一人の人間を神に伴われている存在として見るのです。すなわち、一人の人間を「創造者という視点から見るのであり、あるいはまたその救済者によってすでに何になっているかという視点から見るのであり、あるいはまた完成者という視点から、この人間が、自分を完成してくださる方を通じて将来何になるであろうかという、その視点からこれを見ることでもある」と言います。

 私の言葉で噛み砕くとこうなります。ありのままの私たちとは、私たちが人前でも、あるいは自分に対しても隠し通そうとしている弱く罪深い自分ではなくて、神様が造られたとき、「極めて良かった」と言ってくださった神に造られた私のことであり、また、キリストがご自分の血によって真っ白に洗い清めてくださったキリストのゆえに罪なき私のことであり、また、キリストが再びこの地上に来られ、私たちと顔と顔を合わせて下さる時、私たちがそのお方とそっくりな者になると言われている来るべきキリストに似た私たちのことです。それがありのままの私たちです。過去のトラウマによって傷つけられた私たちは、やがて、過ぎ去る古い影に過ぎません。

 わたしたちは、パウロと同じように「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。」隣人のことも自分のことも、「キリストと結ばれ」た「新しく創造された者」として知ろうとします。キリストの霊である聖霊に従って。キリストの霊である聖霊の助けによって。まさに、パウロが、神に知られ、人に知られたいと願っているありのままの自分とは、これ以外の自分ではないと思います。ありのままの自分とは、パウロの建前でも本音でもなく、パウロの外面でも内面でもなく、神のまなざしにおける本当の自分です。それは本当に美しく麗しい自分です。

 最後に、短く触れますが、私たちは、17節に記された「キリストに結ばれた人は誰でも」という言葉の、「キリストに結ばれた」という言葉を、条件のように捉える必要はないと思います。16節では、洗礼を受けたキリスト者だけでなく、「だれをも」と言われているのであり、また、14節では、この私たちが促されている新しい見方の根拠となる、私たちのためのキリストの死を、「すべての人のため」の死であると言っています。だから、私たちの霊に従った新しい人間の見方は、見える教会の外まで当然広がりをもったものであると思います。たとえば、ローマ書8:19の「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」という言葉、あるいは、エフェソ書1:10「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。」という言葉、同じくフィリピ書2:10にある「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」という御言葉を思い起こすと良いかもしれません。他にも、第1コリント書7:13以下や、ローマ書11:36の「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように」という頌栄を思い起こしても良いと思います。すなわち、いまだキリストを知らず、キリストと結ばれていることを告白しない者をも、キリストがその者のために死んだ全ての者の内に数え入れるのです。将来の礼拝者として、見做すのです。そういう者としてのみ知る、それが霊に従った見方の広がりだということができます。

 そして、このような新しい見方はどんなに決定的なものであるか。Ⅰコリント2:15には、「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」という言葉があります。これはまさに、キリストに結ばれた新しい者以外の者として自分のことも隣人のことも世界のことも最早知る必要がないという神の至上の御命令として受け止めることが許されるということです。これは、どれほど恵みであるかと深い心に誘われます。この神のなさりよう、導きようを教えられると、キリストに結ばれた私たちの人生は、本当に祝福に満ちた人生なんだと、私たちは思うのです。

コメント

この記事へのコメントはありません。