憐れみ深い人々は、幸いである!

神奈川県の横浜に横浜指路教会というこの元町教会と同じくらい古い歴史のある教会があります。ヘボン式ローマ字でおなじみのヘボンという宣教師の働きによって設立された教会です。その現在の牧師は、藤掛順一先生と言って、以前は、富山の鹿島町教会にいらした牧師ですから、この中には、ご存知の方もいらっしゃると思います。私も、神奈川にいる時は、たいへんお世話になりました。

 この指路教会のホームページがありまして、そこを開いてみますと、トップページに、『聖書が教える「幸せ」』という項目が、出て参ります。教会のホームページを開けると、「聖書が教える幸せ」という言葉が目に留まるというのは、なかなか印象的です。教会は、御利益宗教ではないと言いますが、幸せを語るんだ、教会に生きることは、幸いに生きることだというはっきりとしたメッセージが伝わってまいります。私たちも、その点、あんまり遠慮深くある必要はないと教えられます。教会に繋がることは、幸せなんだと、私たちは、はっきり言って良いと思います。主イエスは、私たちが幸いに生きることを望んでくださり、そのために、命を注いでくださったのだと私たちは信じているからです。主イエスが私たち人間に対して、「幸いだ」「幸いだ」と、私たちの心に刻み付けるように、繰り返されるのです。この主イエスの祝福の御言葉は、私たちの幸せは主イエスの願い、まさに父なる神の関心事であるということだと私は思います。その幸せを聞き取る教会が、ホームページのトップ画面に、「聖書が教える幸せ」と掲げるのは、理に適ったことであると思います。

 最近、私は、説教準備をするときは、必ず、これに目を通すようにしています。是非、皆さんもご覧になってみると良いと思います。それを開きますと、私たちが聴き続けている山上の説教の祝福の言葉の一つ一つが挙げられ短い解説が加えられています。今日私たちが聴きます「憐み深い人々」に語られました「幸い」という項目でもハッとさせられるようなことが書かれていました。こういう風に、藤掛先生は仰います。「日本の諺に『情けは人のためならず』というのがある。/私たちは主イエスのこの教えをそれと同じと理解し、『この教えは既に知っている』と思っているのではないか?」と、問うています。そして、聖書の教える憐み深い人々とは、「自分の周囲にいる、自分が助けるべき『最も小さい人の一人』に気付く感性を持っている人。隣人を見出し、隣人となることができる人。」、「隣人となるとは、敵意を乗り越えること。『最も小さい者』とはしばしば自分の敵のこと。」だから、「憐み深い者」は、「敵をも愛する人」のことだと言います。そうだとすれば、それは、私たちが考える「情けは人のためならず」と言った常識の範囲を超えてしまっているのではないか?そう語り掛けるのであります。私もその問いに促されて、黙想を深めていきました。

 私たちが考える情けとか憐みというものは、案外、軽いものではないかと思うのです。情けとか、憐みという言葉は、たとえば、「袖擦りあうも他生の縁、情けは人の為ならず」というような具合で使われる言葉ではないかと思いますが、それは、なかなか軽妙な言葉ではないかと思うのです。私たちにとって、情けとか憐みとはどういう行動を意味しているのかと考えてみれば、思い当たるのは、たまたま乗り合わせた人のためにエレベーターのドアを周りの人が乗り降りが終わるまで、そっと押さえていてあげたり、電車でお年寄りに席を譲ったり、レジで、小銭をばらまいてしまった人のために、拾うのを手伝ったり、私たちが考える憐み、情けとは、他人や隣人と円滑に生きるための、ちょっとした気遣いや、親切程度のことであると思います。それは、衝動的とまでは言えなくても、気まぐれのようになされる親切心のように思います。それは、それで素晴らしい心であると思います。出会う全ての人にたいしてちょっとした気遣いで済む親切をしていくというのは、確かに、気持ちよく生きていける社会を作っていくものだと思います。気まぐれのような親切が習慣化されて、癖のようになれば、それは本当に素晴らしいことであると思います。金沢に来て、私が本当に感心するのは、小さな子供がいる者への配慮が本当にあるということです。外出先で、必ず複数の方が、子どもを見てにこにこと話しかけてきてくださる、ベビーカーを押していれば、道を譲ってくださる。これは、金沢に来て、本当にほっとしたことの一つです。

 けれども、主イエスが幸いだと語られた憐みとは、マタイ5:44に語られるような「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というような憐み、私たちに不利益をもたらす者に対する徹底的な愛の態度ではないかということを藤掛牧師は示唆します。これは、とても考えさせられることです。確かに、私たちが、出会う人に小さな親切を施すことができるのは、むしろ、一期一会の他人であるからと言うことができるかもしれません。同じ失敗に、毎日付き合う必要はないし、それが、自分の生活を大きく損なうこともない。けれども、ちょっとした親切をすれば、その人も自分も一日気持ちよい気分で過ごせると思えば、このような憐みの心に生きるということは、そう難しいことではないかもしれません。ある人は、憐みとは、同情する心だと言いました。同情は、英語で、シンパシーと言いますが、元のギリシア語に遡ると、同じ心になるという意味です。喜ぶ者と喜び、泣く者と共に泣くということです。少し、相手の立場に立って考えてみれば、できるちょっとした親切というものは、案外、多いし、それを実行することはそれほど難しいことではないと思います。ちょっとした気遣い、おもてなしは得意な社会であると思うのです。

 けれども、なぜだか、目の前の人が、レジ前で小銭をばらまいてしまったら、本当に親切な心で、同情の心で、拾うことができるかもしれませんが、自分の子どもが食事のたびに、茶碗をひっくり返せば、憐みの心よりも、ため息が出てしまう。私たちは自分との関係が遠い人と同じ思いになることはなかなか難しいと思っているかもしれませんし、事実、そういうところもあります。私たちは、外国で起きた悲惨なニュースを聞くとき、それによって、心が大きく揺さぶられることのない想像力の欠如した自分というものを認めざるを得ない所があります。そういう意味でも、同情心が発揮する余地というのは、まだまだあると思います。けれども、自分に近い人には同情できるかと言えば、これはこれで難しいとも思うのです。あまりにも、自分に近い人に対してもまた、私たちは同情を失いやすいのではないか、そんなところがあるのではないかと思うのです。なぜ、そういうことが起きるかと言えば、考えてみると、私達の身近な人の喜びや悲しみは、私達自身に影響を及ぼしてしまうからだと思います。子どもがひっくり返した茶碗にため息が出てしまうのは、これが一期一会の出来事ではなく、多分、明日も明後日も起こり、それを片付けなければならない責任があるのが自分だからです。会社でミスをした夫の失敗に、同情できないのは、それが、今後の給料に影響があると思ってしまうからです。何かに怒っていたり、悲しんでいる妻に同情できないのは、その怒りや悲しみが、仕事から帰ってきた自分のやっとホッとできる時間を台無しにしてしまうと感じるからです。

 ある人が説教の中で、大阪教会を設立した宮川経輝牧師の日記を紹介しています。宮川牧師が58歳の時に、自分の妻のことを日記に記し、そこで、妻の長所を挙げていきます。①「夫についての不満を他人に漏らさないこと」、②「教会員を公平に扱うこと」、③「聖書を教えることができること」、けれども、最後に一つだけ、妻の欠点としてこういう風に書いていると言います。「夫に対する同情がない」。苦しい時、悲しい時に、妻だけは、同情してくれると期待するところで、同じ思いになってくれない。このことは、同じ思いになってほしいと思うことでもそうはいかない。それを不満に感じていた。このことを引用した説教者は、著名な、そして58歳という脂の乗り切った牧師が、妻が同情してくれないという不満を持っていたということに驚きつつ、しかし、それは、妻だけの問題ではなく、実は、妻も同じように思っていたと言うのです。というのも、この牧師はさらに20年後、死の間際の日記でこういう風に書いていると言います。「妻に対する態度を改めたしと思うた。」と。この説教者は言います。「死ぬまで妻との生活が問題であり続けたのです。そしてそこで自分の責任を思い、改めるべき自分の悪さに気づいたのです。いや、ずっと前から気づいていながら、それを改め得ない悲しみを抱え続けて生きてきたのかもしれません。」と。これは笑い話のようなことかもしれません。けれども、深刻な話でもあります。しかも、他人事とばかりとも言っておられない。なんで、こういう話に、面白さを感じるかと言えば、私たちもまた、思い当たる節が多少あるからだと認めないわけにはいきません。

 日本に生きる者は昔から、自分の家族をあまり褒めるものではなく、卑下することが美徳とされてきましたが、単に美徳として心にもないことを卑下するだけでなく、宮川牧師の口の堅い妻とは違い、人と集まっては、夫の悪口を言ったり、妻の不満を口にしたり、嫁姑の愚痴を言ったり、友人の悪口を言ったり、親の不満を語り合ったり、実は、そうやって、たまった憂さを晴らす喜びを覚えてしまっているのかもしれません。しかし、それはどんなに正当な不平不満であったとしても、憐みを失ってしまっていることだと言わなければならないかもしれません。というのは、憐みは、日本語でも広辞苑を開けば、第3番目の意味として、「慈悲の心をかける」、「めぐむ」とありますように、ふさわしくない者に与える慈悲であるからです。憐みは、その人が憐みにふさわしいかどうかということを問わないものだと思います。むしろ、ふさわしくないから憐みによってだけ、浮かぶ瀬もあるというものだと思います。だからこそ、憐みというのは難しいと思います。確かに、袖すりあうも他生の縁と言っている間は、そういう相手に対しては、小さな憐れみ、同情、情けを、親切を施すことは簡単かもしれません。小銭が転がったって、拾うのを手伝わなければならない法律はありませんから、それは、純粋な憐みの行為であると言えるかもしれません。ところが、その人の失敗、その人の苦しみ、悲しみ、苦境が、私を不愉快にするものであった場合、私に害を及ぼしたものである場合、それが、深刻なダメージであった場合、その人を憐れむことができるのだろうか?その人をなお隣人と呼ぶことができるのだろうか?私の味方ではなく、敵だと言うほかないその人に、同情することができるのだろうか?それは難しいことだと思います。けれども、主イエスが幸いだと仰る憐みに生きる人とは、敵を隣人としてしまう憐みに生きる人だと藤掛牧師は言いました。そこにこそ、本物の憐みがあります。自分の敵に情けをかけることができなければ、自分を傷つける人に、同情できなければ、それは、この私の内には憐みがないということなのです。

 ところが、聖書を読んでいくと、もうひとつ面白いことに気づかされます。この憐みという言葉は、ふさわしくない者に施される一方的な恵みを意味する言葉ですが、旧約聖書にまで遡ると、憐みは、ふさわしさを持たない者への恵みであることには変わりがないのですが、だからと言って、無関係な者に与えられるものではないということに気づかされます。

旧約聖書で、憐みと訳される一つの大切な言葉は、ヘセドという言葉で、この言葉が、主イエスの言葉として記されているギリシア語の憐みに対応する言葉です。しかし、このヘセドという言葉は、親切や、愛情という訳が、最初に来る大きな辞書もありますが、もう一つの有力な辞書では、思いもよらないことですが、このヘセドに対して、「共同体への責任・義務」という訳を充てます。また、次いで、「忠実さ」、「誠実さ」、それから、「親切」、「恵み」とようやく続きます。つまり、一つの理解に従えば、ヘセドとは、契約を結んだ結果、生じる、その契約への責任、忠実さを表す言葉だということです。たとえば、確かにサムエル記上208にダビデがその友ヨナタンに向かって言ったこういう言葉があります。「あなたは主の御前で僕と契約を結んでくださったのですから、僕に慈しみを示してください。」これは、ヘセドを忠実と理解すると、自分の命を狙う父サウルに与しないで、契約に訴えて、その友ヨナタンに「契約に忠実であってください」と語っている言葉と言うことができます。旧約における憐みとは、契約に忠実であるということが言えます。たとえ、契約の相手が、不足した者であっても、その相手のゆえに出なくて、契約のゆえに、そのどうしようもない相手を見捨てず、それに誠実を尽くすということです。その極めて印象深い用例が、詩編10643以下にあります。「主は幾度も彼らを助け出そうとされたが/彼らは反抗し、思うままにふるまい/自分たちの罪によって堕落した。/主はなお、災いにある彼らを顧み/その叫びを聞き/彼らに対する契約を思い起こし/豊かな慈しみによって思いなおし/彼らをとりこにしたすべての者が/彼らを憐れむように計らわれた。」

 どんなに契約の一方の相手である民がその契約に不誠実であっても、神がその民をご自分の宝の民とされると誓われたその誓い、契約に対して、誠実を尽くされる、その神の忠実、誠実によって生かされる、それが、慈しみ、憐みという言葉が持つ内実です。

 ですから、これは、私たちが普通、憐みという言葉を思い浮かべているときに、考えているような、気まぐれによって、たまたま行われる親切や、同情ではないことが明らかであると思います。憐みとは契約への徹底した誠実さであり、契約を結んだ相手、つまり、既に、身内となっている相手への愛の忍耐、愛の我慢強さ、不屈の愛の行為ということができるのではないかと思います。こういう風に考えることができるかもしれません。恋人である間は、相手に気に入らないところがあれば、簡単に別れることができるかもしれません。けれども、結婚をした後では、相手に気に入らないところがあっても簡単に別れることはできません。忍耐して、相手の欠けを担います。この忍耐が憐みだと言えるのではないかと思います。

 ある人が、この神の憐みは英語で、steadfast loveと訳されることがあると教えてくれました。揺るぎない愛です。したたかな愛、しぶとい愛です。聖書が語る憐みとは、このような愛のことです。そうなると、憐みとは、聖書を一読した者であるならば、それは神の愛のことであり、憐み深い者とは、神御自身のことに他ならないという風に、思い至るに違いありません。神は預言者ホセアという人を通して、ご自身の契約の相手である人間が、どんなに不忠実な者、淫行の妻であっても、決して捨てないのだと強烈に語っておられました。それは、選びの民、イスラエルに対する憐れみ、愛の忠実を保ち続けるということだけではありません。新約聖書ヘブライ人への手紙414以下にこうあります。「さて、わたしたちには、もろもろの点を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

御子イエス・キリストの受肉、このお方が真の人となってくださったことを語る箇所です。「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」、人間としての試練にお遭いになったのです。それは、神が、死すべき運命にある全ての人間を、ご自分の兄弟として、身内として受け入れられているということ、憐れんでくださるということを意味しています。

 主イエスが、私たちに向かって、「憐み深い人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける。」と仰るとき、私たちはこの神の憐みなくして、この神の憐みによって憐れまれた人間であることを忘れて、聞くわけにはどうしてもいきません。聖書が語るように、私たち人間が神の憐みを受ける存在であるということは、私たちが神との関係を忘れてしまっていたとしても、それは少しも身に覚えがないと考えていたとしても、神さまの方では、わたしたちを身内として数え上げてしまっておられる。私たちを忍耐していてくださる。そのような神さまの憐みの中に、包まれてしまっている私たち人間であることに、気づくことが最初なのだと思います。

 既に、神に憐れまれている者としてしか、この主イエスの祝福の御言葉を聞くことはできないのです。「憐み深い人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける。」私たちは、この言葉の前に、あるいは、この言葉の分母として、神のsteadfast love、私たちに対する神のしぶとい愛、それは、イエス・キリストの十字架に至った神のしたたかな愛で愛されている者としてのみ聞きます。

 そこで改めて神に問われるのです。既に、無限にこの神の憐れみに生かされている者として、あなたたちも当然、憐みに生きるだろう?そうだろう?と。マタイによる福音書は、1821以下で、1万タラントンの負債を免除していただいた僕のたとえを語ります。1万タラントンは、当時の小国の国家予算規模の額だと聞いたことがあります。その借金を王様に赦していただいたのです。けれども、その家来は、自分に100デナリ、どんなに多く見積もっても、100万円の借金をしている仲間を赦すことができませんでした。これは、馬鹿げた話です。ありえない話です。国家予算規模の借金を帳消しにしてもらった帰り道に、自分に100万円の借金をしている仲間を捕まえて、牢屋に監禁するということは絶対にありえないことです。主イエスが「憐み深い人々は、幸いである。」と仰ったとき、私は、このたとえを思い出します。自分が神に赦されていることを知っている人は、誰かを赦さないということは絶対にありえないのだと思います。だから、もしも、私たちが、憐みに生きることができない時があるとしたら、それは私たちが神の憐みをまだよくわかっていないということなのだと思います。自分が赦されているというその赦しがどれほど徹底したものであるか、まだよくわかっていないということなのだと思います。

 けれども、事実、このような憐みに生きてはいないと認めざるを得ない私たちです。配偶者にも、親にも、子にも、友にも、あるいは、隣人にも、隣人とは呼べない他人にも、まして敵にも、憐みの心を持つことのできない私たちです。牧師だってもちろん例外ではありません。58歳になっても、80歳になっても、自分の憐みの貧しさに嘆かざるを得ません。だからこそ、私たちは祈らざるを得ません。「主よ、憐れみたまえ」と。けれども、私たちは、このように自分の憐みの貧しさを知るときにこそ、主の憐みをもう一歩深く知ることになるのだと思います。「主よ、憐みの貧しきこの私を憐れみたまえ」と祈るとき、この貧しい者を捨てない神の憐みに気づくのだと思います。神の身内とされている自分であることに気づくのです。

 しかもそこで、配偶者も、親も、子も、友も、隣人も、隣人とは呼べない他人、あるいは敵と呼ばざるを得なかった者も、同じように神の身内とされ、だから、自分の身内とされていることに気づかないわけにはいきません。私たちが、隣人に対しての憐みを止めてしまう時も、主は、この私たちに対する憐れみと、私たちが憐れむことを止めてしまった隣人に対する憐れみを止め給わない。だから、主にあって、私たちは、それらの人々と深く深く結びつけ続けられます。主が、私たちと隣人の絆でいて下さいます。それは、どんなに大きな恵みであるかと思います。

 そして、そのことに気付かされる時、そこでこそ、小さな憐みの業が、私たちを通しても、どうしても始まらないわけにはいかないと思うのです。大きく赦された者たちが、小さな赦しの業を必ず、作らせて頂くようになるのだと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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