愛の重み

今日聞きました短い主イエスのお言葉は、昔から黄金律、ゴールデンルールと呼ばれているものです。

黄金律という言葉は、少し一般化していて、「願いを実現する黄金律」なんていう言葉遣いのように、色々な分野における成功法則のような使われ方もされています。しかし、元々は何と言っても、マタイによる福音書7:12を指して使われた言葉です。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」この言葉を指して、これが黄金律、ゴールデンルールだと、言われてきました。

なぜ、これが、黄金のルールだと言われだしたかというと、学者達はこういうことを指摘します。

第24代ローマ皇帝であったアレクサンデル・セヴェルスという人がいました。この人は、まだキリスト教が公認される前のローマ皇帝でありながら、それを迫害した他の多くの皇帝たちとは違っていた。ユダヤ教にもキリスト教にも寛容で、聖書の教えにたいへん興味を持っていたようです。

中でも、このマタイによる福音書7:12の言葉に心打たれました。この言葉を愛し、自分のモットーとして、宮殿にも、公共の建物にも、毎朝そこで祈りを捧げていたプライベートな礼拝堂の壁にも、この言葉を刻みつけたと言います。そしてまた、自分の部屋の壁には、金文字でこの言葉を刻ませた額を飾って日夜眺めたと言います。

だから、おそらく、このマタイ7:12が黄金律、ゴールデンルールと呼ばれるようになったのは、この洗礼を受けたキリスト者ではなかったローマ皇帝が、それにも関わらず、この言葉に心打たれ、黄金の文字で書きつけ、大切にしたという出来事に由来するだろうと思われます。金の文字で書きつけられた金の教えです。

人にしてほしいと自分が願っていることを、人にして差し上げる。とても、気持ちの良いことだと思います。そういう人って本当にいいなと思います。自分も是非、そういう人間でありたいと思います。とても共感するし、納得する教えです。

けれども、それだけに、これは何もキリスト教の専売特許の教えではありません。多くの人が指摘するのは、この主イエスのお言葉と似た言葉が実は、世界中にあるということです。

同じような言葉は、ギリシアの哲学者も語っているし、ユダヤ教の中にもある。さらには、孔子も語ったし、仏典の中にも見出すことができると言います。

ただ、主イエスのお言葉以外の黄金律は、「人々からしてほしくないと思うことは、人々にもするな」という否定的、消極的な言い方で語られていることが多いと言います。

似たような言葉ですけれども、して欲しいと思うことを人にしろという積極的な形で語るか、して欲しくないことは人にするなという消極的な形で語るかということには、ニュアンスの違いがあるでしょう。おそらく、その言葉を大切にする者の行動の差をある程度生むだろうと思います。いや、大きな違いを生むと考える人もあるかもしれません。

けれども、どっちがより価値のある教えかを決定することは、案外と決着がつきません。して欲しいと思うことをする方が、難しいし、良いものを生むので価値があると言う人もいれば、されたくないことは人にしないという方が、現実的だし、押しつけがましくないから貴いと言う人もいます。

どちらにより好感を持つかは、結局は、自分がキリスト者か、仏教徒か、儒教を重んじているかということによります。

けれども、キリスト者たちもまた、積極的な言い回しの方がどちらかと言えば良いと軍配を挙げつつも、その積極的な言葉遣いも、主イエスだけが語った特別な言葉とは主張しません。やはり、これは、この言葉だけを取り出すならば、際立って特別な言葉とは言えないのだと。

これは何も昔の偉い人たちの言葉を並べて、比較してみなくても、私たちだって両方とも同じように日常的に口にする言葉であるということを思い出せば足りると思います。

たとえば、兄弟の髪を引っ張るわが子に向かって、「自分がやってほしくないことは、人にもしないよ。」と言ってみたり、おやつを独り占めしようとするわが子に「自分が喜ぶことを人にもしてあげなさい。」なんてことは、それこそ、両方とも日常茶飯事に言い聞かせていることです。

そう考えますと、これは、どちらにしろ、別に深遠な教えというものではありません。当り前のことを言っていると言えます。人が人と仲良く暮らしていくためには、常識と言って良い、なくてはならない態度の一つだと言うことができます。いずれの表現にせよ、それが語っているように、人の要求を察して、満たしてあげる思いやりをお互いに持つことができれば、本当に、私たちの世界は、あたたかな良い世界になります。

けれども、当り前のことは、つまらないことではないと思います。ある人は、主イエスの言葉は特別だと頑張るよりも、こういう誰もが願う常識的なこと、当り前のことを主イエスが、語ってくださったという事実こそが、大切なことだし、有難いことではないかと言いますが、本当にそうだと思います。

しかも、この言葉を、イエス様が、山上の説教の最後の部分で語っていらっしゃるという意義は大きいと思います。

多くの学者が指摘するのは、この言葉は、第5章からずっと続いていた、主イエスが山の上から語られたまとまった言葉全体の結論として語られているということです。

複雑なことではありません。難しすぎるということでもありません。古今東西にある常識的な教え、誰しもが願っている人間の生き方を、主イエスという方は、御自分の心としてくださっている。これが、山上の説教で私が語ろうとしている心なんだと、この黄金律を御自分の真理として語ってくださっているのです。これこそが、律法と預言者なんだ、聖書の心だ、神の御心だと宣言してくださっています。

私たちはキリスト者として、マイノリティーであることに慣れてしまっているところがあります。自分は人とは違うことを信じている、大切にしていることがあると、そのことに引け目を感じたり、あるいは、誇りに思ったり、少数者独特の感情を抱くことがあると思います。しかし、この黄金律からすれば、キリスト者として私たちが主から聞いていることは、誰にでも通用すること、誰にとっても価値のある黄金の教えなんだということを自覚したら良いと思います。

キリストに従って生きることは、変り者として生きることではなくて、人間が最も人間らしく生きるまっとうな道なのだということです。

けれども、とてもシンプルで単純なこの教訓を、実際に生きようとすると、とても難しいことであるように感じます。子どもにだって語り聞かせることのできる、特別な人間だけが可能であるというわけではない、この単純なことが、全然簡単には思えないということがあります。

この言葉に共感しながら、その言葉を喜びながら、しかし、自分の現実の生活をたった一週間、たった一日振り返ってみるだけで、がっかりしなければならない自分であると感じます。

誰もが弁えていてよいはずの常識、思いやりの心を持てず、すべきことを満足に行うことができず、挫折してばかりの自分の毎日だなとがっかりするのです。

いついかなる時も失敗しているというわけではありません。心と体と時間に余裕があるときは、自分だって少しは、こういう心に生きられると思うことがあります。

ゴールデンウィークで上手な休息が取れ、職場に戻ったから、思いのほか、仕事の能率が上がる。今日は、早めに自分の仕事が終わりそうだから、いつも手の遅いあの人の仕事を取ってあげるということができるということがあるかもしれません。

今日は、ゴスペルミュージックウィークで、教会で良い音楽を聴けて、気持ちが和んだ。もう、夕方だし、今から買い物して料理をしたら、遅くなっちゃうからこのまま外で食べようとこの日を過ごした夫婦は、お互いに優しくなれるかもしれません。

心と体力に余裕があれば、人から意地悪なことを言われたり、意地悪なことをされても、きっと疲れてて、配慮をする元気もないんだと、そっとしておいてあげることもできるかもしれません。

そういう思いやりを私たちは今まで、一度も持つことができなかったというのではありません。余裕がある時はできると思っています。けれども、気力体力が十分でない時は、そういう思いやりを持つことができません。人にしてもらいたいことを人にするどころか、自分の余裕のなさからくる不機嫌をぶつけるようにして、人にして欲しくないというようなことを、人にしてしまいます。私は自分のこととして、こういうことが思い当たります。

人間にとって必要最低限とも言えるような、難しすぎない、この教訓でさえ、重く感じてしまうことが私たちにはあります。

それも、たまに重荷に感じるというレベルではありません。たまに疲れた時は、できないというのではありません。考えてみれば、誰と話してみても、たいてい、皆、四六時中一年中のように疲れていて、心と体に余裕があるときの方が稀な日々であり、だから、どうにも、この言葉どおりに生きられないと感じる私たちの日常ではないかと思うのです。

人間の社会がもっと健康であった時代、陽が沈めば寝て、陽が昇れば目を覚まし、自分の手で、土を耕し、食べ物を得る。そういう人間がもっと健康であった時代には、実効性のある教訓であったかもしれない。今も、健康ではつらつとした人には、有益かもしれない。それこそ、私たちは、この黄金の教えを前に、富める者、持てる者には、良い指針となり得るかもしれない持てる者、余裕のある者のための指針だと決めつけてしまうかもしれません。

ところが、主イエスというお方は、決して、余裕のある者だけにこの思いやりの掟を聴いてほしいと願ったのではありませんでした。

そもそもこの7:12の黄金律に極まる山上の説教の言葉は、貧しい者、飢え渇く者、迫害される者に向けて語られてきた言葉でしたが、ここも、同じです。その証拠に、ある人は、この黄金律を語る主イエスの言葉は原文のギリシア語を見ると、今あるどの翻訳よりももっと生々しい表現だと指摘しています。

つまり、そのニュアンスを生かすと、「あなたが、あの人に、今こういうことをしてほしいと思うことがある。その時、そこで、その思ったすべてのことを、すぐに、今すぐに、そこでその人にしてあげなさい」ということだと言います。

主イエスは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも」と仰いますが、私たちが何か人にしてもらいたいと思う時は、私たちがつらく、悲しく、苦しんでいるときです。

むしろ、「あの人に、今こういうことをしてほしいと思うことがある。」という自分がつらい時にこそ、人の痛みもよくわかります。

だから、主イエスは、この黄金の教えを、余裕のある者ではなくて、悲しみと苦しみのど真ん中にある者にこそ、仰っています。

あなたには、貧しいから人にしてもらいたいことがあるね。あなたは、苦しんでいるからこそ、人の痛みがよくわかるね。そのあなたに頼みたいんだ。その重さを知るあなたにこそ、隣人を愛してほしいんだ。

「傷ついた癒し人」という言葉があります。

ヘンリー・ナーウェンという司祭が語った言葉です。傷ついている者こそ、人の傷に共感し、思いやることができる。その傷が隣人を癒す癒しの源になると語りました。

欠け多き者が、その欠けを知るゆえにこそ、自分は、何をしてもらったら嬉しいかがわかります。だから、他者のためにも心を配ることができるのだとナーウェンは言います。

主イエスは、私たちが、他者を思いやる余裕が自分にはない。それだから、人間らしい当り前の生活すら作ることができないと嘆いている私たちのところに来て、私が必要としているのは、富める者ではなく、貧しいあなただ。あなたに、私の言葉を語ったのだと仰るのです。

自分にはできないと常識的に判断し、がっかりして、主の言葉の外に自分を置いてしまう私たちに、主イエスは私たちの手を取り立たせ、窓を開くようにして、新鮮なもう一つ向こう側の真実に気付かせてくださいます。

そのような主イエスのお言葉は、疲れていて、傷ついていて、心が渇いてしまった者として、このお言葉の外に自分がいると思わなければならない私たちにとって、どんなに慰め深い言葉であるかと思います。

私の言葉は、余裕のない者にこそ、当て嵌まる言葉なんだ。

私たちが傷んでいて、私たちが渇いていて、私たちに余裕がなくて、自分自身ががっかりしてしまうような、そういう私たちならば、黄金律を語られた主イエスの視線の外にいるんじゃなくて、この言葉の外にいるんじゃなくて、もう内側にいるんだということです。

しかも、そのことに気付いた時、そのことを知った時、私たちはもう一人で立っているんじゃありません。

主イエスが共におられます。傷ついた癒し人として召された私たちの傍らに、主イエスが立っておられる。なぜならば、この方こそ、正真正銘の傷ついた癒し人だからです。この方は、十字架にかかり、渇かれ、けれども、それによって、人間を癒したお方です。御自分の身を欠乏の状況に置きながら、人間に仕え、人間を富ませてくださったお方です。

この主イエスの姿を語るイザヤ書53:5は、「彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と、主イエスの傷こそが、私たち人間の癒しの源泉であると語ります。

その時、主イエスによって、その金の言葉を語られている者として、私たちが一人ではないということは、主イエス御自身が、傷ついた癒し人として、私たちの模範として共にいて下さるということに留まりません。むしろ、それは、おまけに過ぎないことだと思います。

この方こそ、私たちに先立って傷ついた癒し人であると言う時、もっと、決定的に大切なことは、主イエスというお方はその受けた傷によって、まず傷ついた私たちを癒されるんだということです。

その重い重い黄金の言葉と共に、私たちを目指して語り、私たちをその言葉の内側にあるものと見做してくださる御方は、先ず何よりも、御自身の傷によって、私たちの欠乏を満たし、傷をいやしてくださる御方です。

「傷ついた癒し人」という言葉を語ったヘンリー・ナーウェンという人は次のような趣旨のことを言いました。

私たちは皆、傷を負った者として、傷ついた癒し人であるようにと招かれている。しかし、私たちの傷が開いたまま、そこから血が流れ続けているならば、人々は怖がって遠ざかってしまうだろう。けれども、誰かがその傷を手当てしてくれるならば、自分も隣人もその傷を怖がらなくなるだろう。

黄金律と呼ばれるマタイによる福音書7:12は、第5章から始まる山上の説教全体の結論だと考えられていると申しましたが、私は、直前の個所を思い起こすことも意味のあることではないかと思っています。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」あなたがたの天の父は、あなたがたの必要をご存知であなたがたに良いものを必ずくださるんだ。

キリストは私たちの傷を包帯で包む方として、そこにいて下さる。私たちを癒し、立ち上がらせる方としていて下さる。キリストの十字架の傷は、全く、私たちのためでありました。その方に、求めることが許されているのです。この余裕のなさの中で、なお、隣人を自分のように愛する自由をくださいと、求めることが許されています。

これこそが律法と預言者、聖書全体が、私たちに証しする神の約束の元にある私たちの生活です。

今日のゴスペルミュージックコンサートの中で、バッハの曲が何曲か演奏されます。

これも以前、ご紹介したことのあることですが、バッハは作曲するとき、教会のための曲だろうが、世俗のための曲だろうが、しばしば、楽譜のはじまりには、J.J.そして楽譜の終わりには、S.D.O.と記したと言います。

JJとは、「イエスよ、助けてください。」という言葉の頭文字であり、SODとは、「ただ神に栄光がありますように」という言葉の頭文字です。

教会のための曲にも、世俗のための曲にも、そう記したということは、プロテスタントの人間らしいことだと思います。

教会での生活も、社会での生活も等しく神の御前にある一つである生活だからです。

その生活の全体は祈りで挟まれています。「イエスよ、助けてください。」そして、「ただ神に栄光がありますように。」と。

自分の力で生きるのではないのです。神が生かしてくださいます。貧しい者を神があえて選ばれ、その貧しささえ意味のあるものとして用いてくださいます。そこで営まれる貧しく欠け多き私達の生活は、この私たちを用いて神自らの造られる生活です。

そのことを知るならば、何も怖いことはありません。引け目を感じる必要もありません。愛に挫折し、うずくまったままではありません。

私たちのために御子をさえ惜しまず与えてくださる天の父の配慮のゆえに、私たちを御子の甦りの命に生かしてくださる天の父の恵みのゆえに、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という主の言葉に、私たちが生きうるように既に、されているのです。

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