和解に生きる

 

 私たちにとって十戒の教えの中で、これだけは、なんなくクリアーできるものだと思えるものは、間違いなく「殺してはならない」という第6の戒めであると思います。人殺し、殺人など、私たちは、ドラマやニュースの話だと思っていますから、この私が「殺すな」という戒めを破る当の本人であるとは思ってはいません。 

 けれども、今日共に読みました聖書個所において、主イエスがこの戒めを語り直されることによって、自分には関係ないと思っていたこの言葉が俄然、私たちの日常生活を問うものであることが明らかになりました。 

 2122節、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」。

 「ばか」と言ってはいけない。「愚か者」と言ってはいけない。いや、そもそも「腹を立ててはいけない。」それをすれば、「殺すな」という戒めを破ったことになると仰ったのです。 

 自分の生活を振り返ってみれば、腹を立てることなど日常茶飯事だと言う他ない私たちです。ニュースを見ては腹を立て、車の運転をしては腹を立て、先輩に腹を立て、後輩に腹を立て、親の言葉に腹を立て、子どもの行動に腹を立て、夫の言葉に腹を立て、妻の態度に腹を立て、腹を立てる材料は、毎日の中に、いくらでも転がっているなと思います。

 

 そういう私たちですから、「腹を立てるな、腹を立てたら人殺しと同じだ。」と言われますと、これは困ったことになります。 

 そもそも、腹を立てるということは、絶対に禁止されるほどいけないことでしょうか?主イエスが、あなたがたは、正しい者となりなさいと仰るとき、私たちは、正しい生き方、物事の正しい在り方を求めるからこそ、腹を立てることも増えるのではないかと思ったりもします。しかも、そういう正しくあらんとする人がいてくれるからこそ、世の中はなんとか、回っていると思える部分もあります。

 

 実生活を振り返ってみましても、うちの場合には、私よりも妻の方が、子どもに対して、怒る回数が多いと思いますが、これは、本当に、私よりも妻のほうがずっときめ細やかな配慮を子供に対してしているからだということがわかります。 子どもたちが、食事前にお菓子を食べようが、お風呂上がりの裸でうろうろしていようが、私はほとんど気になりませんが、やはり、丈夫な体が作られるように、風邪をひいてつらい思いをさせないようにと思えばこそ、厳しく言うことは、当然あると思います。これが、子どものしつけの一切を私に任されるようなことになりましたら、いつでも寝不足、栄養不足、洟を垂らしながら、保育園に行くということになりかねません。考えてみれば、相手のことを思うからこそ、小言を言い、腹を立てる回数も増えていくところがあります。 

 マザー・テレサは、愛の反対は憎しみではなく、無関心だと言いましたが、確かに自分の関心のない相手がどんな生き方をしていても、この私に何か害を及ぼさない限りは、あまり構わないものだと思います。だから、神さまとの関係、人との関係を大切に、重大に思うからこそ、腹も立つということも中にはあると思います。それなのに、「腹を立ててはいけない」と、何の説明なしに言われてしまうとちょっと、私たちの常識とは相いれないことになってしまいます。 

 こういう思い巡らしによることと思いますが、ある古い聖書の写本には、この「腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」という主イエスのお言葉に、ちょっとつけ足したものがあります。「ゆえなくして腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と「ゆえなく」と加えて言い換えているものがあります。

 

 これもよくわかることです。怒るべきことでないことを怒ることは、確かに良くないけれども、正当な怒りもありうるのではないか。だから、やはり、主イエスが禁じられるのは、理由なく腹を立てることと考えた方が、道理にかなっていると思うのです。怒ることも愛情、あるいは、正しさを貫く所にこそ、義の憤りが起こることもあるのだとそういう正しい怒りもあるのではないかと思うのです。 

 ところが、ある説教者がここで、はっとさせることを言います。私たちは、自分の怒りをこれは間違った怒り、これは正しい怒りなんて分け方は、本当にできるだろうか?と。

 考えてみれば、私たちが腹を立てるときは、いつも自分が正しいと思っているのではないでしょうか。自分が悪いと思いながら腹を立てることは考え難いことです。それこそ、本当に人を殺すような怒りに取りつかれた者であっても、怒りの渦中にいる時は、自分は間違っているとは思っていないでしょう。その意味では、義の思いに駆られてなされるものなのだと思います。

 それは私たちの日常生活の中での腹立ちや、いらだちも全く同じだと思います。自分が間違っていると思いながら、怒っていることなんかありません。自分が間違っていることと思えば、怒りは急速に萎んでいくものです。 しかし、怒っている当座は、自分が間違っているなんて思ってません。後で自分で振り返れば怒るべきところでないところで腹を立てた、自分が悪いと分かりますが、その渦中では、自分が正しいと思っています。そうでないならば、誰も怒りません。 

 だから、主イエスはここで「ゆえなくして」と語られるのではなくて、単純に「腹を立てる者」と仰っているのだと思います。ゆえのない怒りはないからです。 

 家族のことばかり話して恐縮ですが、親が怒りますと、最近、二番目の娘が立ち向かってきまして、たとえば、「ママ、怒りすぎたって謝って」と怒り返してきます。自分が、いたずらをして怒られているのに、ママが怒りすぎている、その点に関しては、自分は正しくママが悪いと自信満々に腹を立てるわけです。これは、我々も、よくやっていることではないかなと思います。

 このように理由のない怒りなどないという点においては、自分にもよく当てはまり、主イエスのお言葉に説得されます。けれども、共に生きている者に向かって腹を立てること、誰かに「ばか」と言うこと、「愚か者」と言うことが、殺人と同じというのは、だいぶ大げさではないか、それで、火の地獄に落ちるならば、何百回、何千回地獄行きになるかわかったものではないと私たちは感じざるをえません。 

 ちょっと腹を立てたこと、勢いでバカだ、愚かだと言ってしまったことを、「人殺し」の罪だ、赦されざる罪だと言われてしまったら、私たちは本当に立つ瀬がなくなってしまう者です。 

 私たちはだれでも自分の落ち度を認めることが苦手です。たとえば、自分の怒りによって誰かが深く傷ついてしまった時も、それを認めることができず、それによって、もっともっと相手を苦しめてしまうということをやりがちだと思います。 

 私たちは誰もが自分はそこまでは悪くない、マシな人間だと思っていますから、罪を指摘されると、ますます意固地になってしまうところがあります。主イエスの言葉だと言われも、はい、その通りですとはなかなかならないし、まして、この言葉はこの私に向かって言われているのだと受け取ることは難しくなります。けれども、やはり、これは、人殺しの罪を自分とは関係ない罪だと考える私たちに向かって語られた言葉だと聞かないわけにはいきません。

 

 それゆえ、もう少し冷静に主イエスの言葉に聞きたいと思います。そこで、腹を立てることに続く、相手に対して口に出した侮辱の言葉の中身を見ていくと、この侮辱がどのような種類の侮辱であるかよくわかります。 

 「ばか」も「愚か者」も日本語では、たいして変わりない似たような言葉に聞こえますが、原語を見ますと、「ばか」という言葉は、「空虚な人間よ」という意味です。「愚か者」という言葉は、「神なき者よ」という意味の言葉です。つまり、一方は、「お前は空っぽだ」という侮辱の言葉。もう一方は、「お前は神さまに見捨てられている」という侮辱の言葉であります。すると、腹を立てること自体が悪いんじゃなくて、腹の立て方が問題だと考えることができるかもしれません。「お前は空っぽだ、お前は神さまに見捨てられる」などという決定的な言葉で相手を罵るということが禁じられていると言うことができるかもしれません。そういう強い言葉で、人を罵ることはよほどのことですから、やはりこういう言葉を誰かに向かって吐くということとは、私たちは一生縁がないかもしれません。だから、この主の言葉の前で胸をなでおろすことができるかもしれません。

 

 けれども、さらに胸に手を当てて考えますと、腹が立った時、面と向かって、こういう言い方はしないかもしれないけれど、自分の心だけで怒りを納めようとするとき、同じことを考えてはいないかと思います。私たちは腹の立った自分の心を鎮めようとする時、「あの人は空虚な人間だから、言われても悔しがることはない」と考えたり、あるいは、「あの人は神さまのことをちっともわかっていない神なき者だから、気にしない」と考えがちだと思います。けれども、その心は口に出して人を罵ることはなくとも、既にどんなに神さまの御心から遠くにある心かと思います。主イエスのお言葉を聞くと、そのような自分であると気付かされるのです。一人の人を心の中で小さくしてしまうこと、神から切り離された者として見ること、そのことを神はお喜びにならないのです。 

 だから、ここで言われる兄弟というのは、もうキリスト者に限定されなくて、一人の人間を神と何らかかわりのない者、それゆえに空っぽな無価値な者と見做すことが断じて認められないのだということであると思います。この神の御心の前に、恥じ入るばかりの思いを重ねてしまっている私たちです。 

 けれども、こうも思います。このような隣人と神との関係を自分の判断によって裁き、自分にとって価値なき者としようと見做す見方が、これほどまでも、厳しい裁きをもたらすものであるというこの神さまの厳しさは、そのまま、私たち人間に対する主なる神さまの徹底した恵みそのものだと思うのです。 

 主なる神さまが、人間に対する「空っぽだ」、「神なき者だ」という批判をお許しにならないということは、神さまは、人間をそのようには見られないということに他なりません。「お前は空っぽなどではない。お前は神なき者ではない。」神はそのように私たちに呼びかけられるのです。

 

 私たちは神の戒めの前に恥じ入る他ない者であり、私たちは、本来ならば裁きに定められた者です。それは実は、私たちが空虚で、神なき者として生きているということに他なりません。子供がバカっていう人がバカだって言いますが、私たち人間は、隣人に腹を立て、空虚で神なき者と裁くことにより、自分自身を空虚で神なき者としてしまっていました。ところが、神は、このように神の掟にふさわしくない故に、空っぽであり、だから神なき者と言う他ない私たちに対して、腹を立てられませんでしたし、空っぽと言いませんでしたし、私たちの元から離れられませんでした。 草花に等しい空虚な者を、捨てないのです。キリストが来られました。そして仰いました。「兄弟に腹を立ててはいけない、ばかと言ってはいけない、愚か者と言ってはいけない。」それは、私たちはこのお方にとって、空虚ではないということであり、また、このお方が私たちの元に来てくださったゆえに、もはや、神なき者ではないということです。 

 私たちの存在と行為は、このイエス・キリストにおいて神さまに肯定されています。私たちの存在と行為に関して、このキリストの肯定抜きには何も考えることができません。神がこのように良しとしてくださった自分であり、隣人であります。だから、隣人のことも自分のことも、神に逆らって悪く言うことはできません。 

 私たちは赦されているから、赦された上で、肯定されているから、誰も、この神の言葉の外にいる者はいないのです。そして、だからこそ、このような赦しの中に生きる者として、今は、まっすぐに自分の罪を見詰めることができる者とされています。 

 私が3月まで仕えていた鎌倉雪ノ下教会には、昔、黒柳朝さんという方がいました。黒柳徹子さんのお母さんです。この黒柳さんが、鎌倉に引っ越して間もなく、雪ノ下教会に通うようになり、喜んで教会生活を続けられました。ある時、当時の牧師であった加藤常昭先生が、ご自宅を訪ねた時、黒柳さんがこういうことを言ったそうです。 

 「先生のお祈り聴いていたびっくりしちゃった。まるで人を殺しているような祈りをするものだから、この人どういう人だろうと思って目を開けてまじまじとお顔を見てしまったわ。でも、本当にそうね。私たち、心の中で人を殺してしまっている者ね。」 

 逆説的な響きがいたしますが、ここに私たちの新しい生活があると思うのです。主イエスのまなざしを自分のまなざしにしてしまっているのです。腹を立てること、ばか、愚か者と言うだけで、人殺しだなんて大げさすぎる、割に合わないと、一方引いていた者が、「本当にそうだ。自分は人を殺してしまっていたんだ」ということに気付くのです。 

 けれども、なぜ、気付けるのか?和解に生きえない自分の罪が逃れないような仕方で暴かれることによって、しぶしぶ罪を告白するということでしょうか?そうではありません。キリストの赦しの中に数え入れられ、だから、今はもはや、空虚な神なき人間ではなくなり、神の者とされているから、どんなに深い罪人であったかわかるのです。

 それはなお、自分の情けなさを痛烈に感じるような経験であるかもしれません。まことに神にふさわしくない自分であることを、新しく知り続けることであるかもしれません。けれども、その罪を認めることができる自分は、キリストにある本当に新しい自分です。そこに健やかな新しい歩みが始まっています。

 

 このようにキリストの赦しがそこまで私たちを捕らえているということは、キリスト御自身が私たちを捕らえているということでしかありません。そのように私を捕らえているキリストが、これからは私たちをして、和解を作り出してくださるのです。 

 この教会においても、教会から出ていったその先でも、キリストの者たちが、神を礼拝するだけで和解に生きないなどということはあり得ません。いや、むしろ礼拝の中でこそ、神が私たちにくださった和解をこの心と体全体で味わい、ここからキリストと共に歩みだし和解の働きへと送り出されます。 

 神のくださる和解の中に既に生かされながら、その和解に生かされている者として、和解に遣わされていきます。そこで作られる和解は、自分の業ではなくて、神の憐みのみによって作り出されたものなのです。その和解は、キリストの手柄なのです。

 

  

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